2010年5月26日水曜日

ザンジバルのキベキ

小学生の頃こそ、こっくりさんだの学校の怪談だのを信じては本気でビビっていた私だが、今ではそういう類のものは一切受け付けない、典型的な二十一世紀型人間となってしまった・・・ハズだった。そのハズだったんだけどね。ところが、アフリカ大陸で次々に目撃する、科学や「常識」では到底説明のつかないような出来事を目の前に、(スピリチュアルな面で)今日の私はあの頃の自分にかなり近づいた。今は、こっくりさんも学校の怪談も結構信じていたりするよ。こういうのがあったほうがこの世界は面白いしね。

ちなみに、個人的にはスピリチュアリティを再獲得できたことは、それなりにいいこと思っている。畏敬の念とか、何かをおそれる気持ちというものがないと、人間中心な考え方のエゴイズム街道をまっぐらに突き進んでしまうような気がするからね。

インド洋に浮かぶタンザニアはザンジバル島にいたときのこと。結局この島に三週間も滞在してしまった私だが、三週間もいると、島のあちこちに友達ができ、旅行という非日常的な時間をすごしているはずの自分にも、日常生活に近い生活パターンというものが形成されるようになってくる。その日の夕方もいつものように、シューという女の子の家でレバノンポップ(なぜかザンジバル住民の間で大人気)のビデオを見ながら、家族に紛れて団欒していた。すると、叔母さんとお母さんから、「今日の夜はキベキがあるからあんたもいらっしゃい」というお誘いを受けた。

左から、シューのお母さん、シュー、シューの叔母さん



キベキ?キバキ(ケニアの大統領の名前)?カブキ?まあいいや。とにかく行こう。

という訳で、夜の*saa tano(スワヒリ語で「五時」という意味。ということは、私たちの時間感覚では何時になるでしょうか?下記参照)にぞろぞろと家を出た、シューとお母さんと叔母さんと私。きちんと、ザンジバルの伝統衣装に身を包みます。向かったのは、村の外れのほうにある集会所のような場所。男子禁制(らしい)のその場所には、すでに何かの植物の葉(魂の浄化のため)で飾り付けがされており、デデデーンとした体格のおばちゃんたちが、お揃いのカンガ(タンザニアの布。実際はインド製がほとんどだってことはナイショ)を着て煙を炊いているではありませんか。

* スワヒリ語では、私たちの時間と比べて六時間の時差があるの。朝の七時がsaa moja(直訳すると一時)、夜の九時がsaa tatu(直訳すると三時)・・・という具合にね。これは、スワヒリ語では、「日の出の時間が一時(saa moja)だ」という感覚があるからなんですね~。素敵でしょ?でも、スワヒリ語ネイティブの人と約束の時間を確認するときは要注意。Saa ya Kiswahili(スワヒリ時間)なのか saa ya mzungu(ムズング時間)なのかを念押しして何度も確認しないと、ただでさえ二時間遅れてくる人たちなのに、加えて六時間も待つことになる・・・なんてことが本当にあるらしいので。ちなみにちなみに、東アフリカと日本の時差は六時間だから、日本の時間と東アフリカのスワヒリ語時間がまったく同じということになる。スワヒリ語圏を走っている車のほとんどが日本からの中古車である事実を踏まえると、日本車の中にある時計がどれも正確なスワヒリ語時間である理由が分からなくもないね。そう、彼らは、日本から輸入した車に設置されている時計の時刻を、現地時間に直す必要がないってこと。楽チン!!

ムズング時間の私の腕時計と、スワヒリ時間の公共の時計。




しかも、煙の隣には大量のアルコールが!!インド洋交易時代にオマーンの支配下にあったザンジバルは、今でこそ観光地化したせいでお酒の入手が可能になったが、住民が飲酒をすることは絶対にないという話を聞いていたために私は少し驚いた。(あ、でも、ザンジバルで居候させてもらっていた家のお兄ちゃんたちは、金曜日以外は毎晩ビール飲んでたよ。)でもね、アフリカのキリスト教やイスラム教は、現地古来のアニミズムと混ざったりしているせいで結構曖昧だし、そもそもイスラム教は個人と神の契約に基づいている宗教だから、彼らがお酒を飲もうと、なにをしようと、理解できなくはないんだけどね。

とりあえず座って待つこと一時間半。だんだんと人が集まりだしてきて、私のムズング時間の腕時計で深夜の一時をまわったところでいきなり雄たけびが始まった。アフリカやインドを旅した人なら分かると思うんだけど、女性の独特の裏声を使った「オロロロロロロロロ~」のように聞こえる、あの雄たけびだ。太鼓のリズムと、マラカスのような楽器の音も入ってくる。すると、もう既に泥酔してトランス状態に陥っているおばさん三名が、文字通り「お腹の底から」声を振り絞りながら踊り始めた。この踊りがね、もうなんというか。少し離れていても、彼女たちのエネルギーと熱がひしひしと伝わってくるような、そんな踊りだったの。私の周りに座っていた人々も、手をたたきながら一緒に歌っている。ムンムンとする場内。汗で私のカンガもぐしゃぐしゃになってくる。

ザンジバル風の服を着た日本人の図。




一時間経っただろうか。気がつくと、真ん中で踊っているおばさんの人数が、十人くらいにまで増えていた。お酒は次から次へと振舞われるため、だんだんと会場全体がトランス状態に陥ってきた。熱気と汗のせいで、狭い集会所内部の湿度と温度が上がりっぱなしだ。普段お酒など飲まないから、ゲロゲロの人も出てくる出てくる。それでもみんなは歌い踊り続ける。そのうちに居眠りをする人も出てくるのだが、そんな仕草を少しでも真ん中にいるおばちゃんに見られたら大変だ。すぐにお酒を浴びかぶせられ、平手打ちを食らう。そんなおばちゃんたちの意識だって朦朧としている。みんなが一生懸命酔いと眠気と戦いながら、キベキは続く。

隠し撮りに成功した一枚。午前三時半。キベキは盛り上がってきています。



私も何度かお酒をかけられたし、平手打ちだって食らった。そのお陰か、朝の三時や三時半を回る頃には、眠気のピークも超えてハイテンションになってきた。お酒も少し飲んだのだが、気持ちが悪くなる味だったので一口だけにしておいた。だんだんと私のテンションが上がってくると、周囲の人の間にも新たな変化が見えるようになってきた。

魂やら精霊やらが、彼女らの体に乗り移ってきたのだ。

乗り移る??ハイ本当です。本当に乗り移ってくるんです。

こう書くと、おそらくほとんどの日本の方には信じてもらえないかもしれないが、私はウガンダやコートジボワールでも、人が魂やら精霊やら悪霊やらにとりつかれる瞬間を何度か目撃している。厳密に言えば、どの魂がそんな場面で人間に乗り移るかで少しずつ違ってくるようなのだが、原則として、魂が乗り移るときに人がどうなるかというと・・・

1. だんだんと寡黙になり、表情が顔から消える。
2. 焦点が合わなくなる。たまに白目になる。
3. 痙攣を起こす。
4. 痙攣を起こしながらも、何かにとりつかれたかのように(というか、とりつかれているんだけどね)踊るか暴れるかする。
5. たまに、「アーッ、アーッ」だの「ギャーーーーー」だのの叫び声もセットでついてくる。
6. 魂が体から出て行った瞬間に、眠ってしまうか、何事もなかったかのように元の本人に戻る。でもちょっとお疲れ気味。

で、周りにいる人はたいてい、その人の体を押さえつけようとするか、薬草の煙を炊くか、魂を沈めるための各種植物をうちわのようにして扇いで風を送るかするのだ。

この凄みをみなさんとも共有したい気持ちは山々なのですが、このような状況をビデオに撮ることは硬く禁じられている場合が多かったので、ビデオらしいビデオがありません。もしもご興味がありましたら私でよければ再現しますので、メールしてください(笑)。

このキベキの会場では、私以外の人はほぼ全員乗り移られたんじゃないかな。それも、一人ひとり、交代制(!!)で順番が回ってくるのだ。こんな場所に一晩中いたら、スピリチュアルな事象を否定することはもはやできなくなるのも無理はないだろう。事実、私は、自分がいつ乗り移られるのかが怖くて怖くて仕方がなかった。怖かったのは、みんなの体に入り込んでいる魂が、いい魂なのか悪い魂なのかがよく分からなかったからという理由もある。周りにいた人に聞こうとしても、みんなトランス状態でそんな質問に悠長に答えている場合じゃなかったしね。

お酒を飲んでいなかったから大丈夫かな・・・とは心のどこかで思っていたものの、同じくあまり飲んでいなかったシューまでもが乗り移られたときにはビビッたよ。最終的には私には何事もなしにキベキは終わったが、やはり、信じる力というか念じる力というか、人間の心理ってすごいね。私が乗り移られなかったのは、単純に、他の人よりも魂やスピリチュアルな事柄への畏怖の念が弱かったからに他ならないだろう。「病は気から」ではないが、この世界には、科学が説明できないことがまだまだたくさんある。

それにしても、儀式終了後の集会所のカオス加減といったら!!ゲロリンチョとお酒と汗の匂いに、湿気と温度と眠気と疲労と手のひらの痛み(一晩中手をたたいていましたので、トーゼンです)が加わった感じをご想像ください。そして、さっきまで私に酒をかけたり平手打ちを食らわせたりしていたシューのお母さんは普段のお母さん(でもやっぱり疲れている 笑)に戻り、四人で仲良く家路に着いたのでした。

その日の夜、居候先の家に帰ってことの一部始終をザンジバル兄ちゃんたちに話すと、まずはみんなから「え!?なんだよお前、キベキに行ってたのかよ!?sindiyo!? (本当に?)」という反応が。と、ここでようやくキベキに関する説明を英語でしてもらえることになったのであった。

キベキは、もともとコモロ諸島(ザンジバルとマダガスカルの間にある島。今は政情不安定が続いている国の一つ)から伝わる儀式で、精霊を体の中に入れて、浄化をするためのものなのだとか。ザンジバルにイスラム教が伝わる前からあるものだから、この儀式中に飲酒をするのは許される行為であると判断されるんだって。ただし、今は本当は禁止されている儀式の一つ。どんな精霊なのか、いつ行われる儀式なのか、どうして女性だけなのか・・・聞きたいことは山ほどあったが、ザンジバル兄ちゃんたちはあまり知らないようだった。ということは、コモロにいつか行くべきだというご啓示でしょうかね(笑)。

先ほど人間の信じる力のすごさについて少し触れたが、あの儀式が浄化のための儀式であると知った瞬間、なんとなくだが、ムンムンとした集会所から出た瞬間のフレッシュさや、家に帰ったときに体を洗ったときのさっぱり感が、私自身の魂を浄化してくれたような気分になった。まあね、この世界、結局全ては心持次第・・・だもんね。

2010年5月13日木曜日

アミおばさん一家との交流を通して

いつもパパイヤを特別価格で売ってくれている、近所のアミおばさん。彼女の娘のハワは、いつも『ここ』を出る方法について話している。「ここ」というのは、近所のコミュニティーのことであり、アビジャンのことであり、コートジボワールのことであり、そして、彼女にとってはアフリカそのもののことであるらしい。「ここは毎日が同じことの繰り返し。だから私は、l’autre côté du monde(世界の反対側)に私はどうしても行ってみたいの。」へぇ、行ってどうするの?と聞くと、「まずはとにかく、違う世界を見てみたい。」だって。私にはこの気持ちが痛いほど分かる。周りの女の子がジャニーズの雑誌に夢中になっていた中学時代、私はというと、草野仁さんが宣伝していた「週刊ユネスコ世界遺産」なる渋い雑誌を購読しては、毎晩空想の中の世界旅行に出かけていた――栃木の田んぼにいた頃の私は、そんな子でした(笑)。

ハワの母親であるアミおばさんと私は、なぜか知らないけどすごく気があう。彼女はいつも、近所では一番大きくて質のいいパパイヤやパイナップルを売っていた。仕事をしていた時は結構ストレスを溜めていた私だが、毎晩仕事帰りにアミおばさんのところに寄って、パパイヤを食べながら色んな愚痴を聞いてもらうのが日課となっていた。もはや彼女は、そこらの銀座のママよりも何枚も上手だよ。



パイナップルをむいてくれるアミおばさん。コートジボワールでは、パイナップルは桂剥きにします。



もともと彼女は、リベリアとの国境近くの出身なのだが、2002年に始まった内戦中に、旦那さんが突然蒸発してしまったらしい。よくある話だ。彼が反政府軍に騙されて連れて行かれたのか、洗脳されて行ってしまったのか、自ら志願して行ってしまったのか、果ては誘拐されたり殺されたりしてしまったのか。本当のことは誰も知らないし、知る術もない。とにかく彼女は、内戦を逃れて・・・というよりは、旦那さんが突然いなくなったせいで生活に困窮してしまい、子どもたちと一緒に仕事を求めてアビジャンへ流れ着いた。アビジャンへ来る交通費とこの街の物価の高さは、彼女にとっては相当な負担だったに違いない。まずは物乞いから初めて、少しずつお金が貯まったところで彼女は果物を売る商売を始めた。今では小さな家もあるし、扇風機やテレビだって持っている。

彼女いわく、生きることとは基本的には苦しいことであり、その中でいいことがあれば、その人は本当にラッキーなだけらしい。最初から幸福な人生を送ることが前提となっていて、思うようにことが進まなくなった途端に絶望してしまう日本人とは、考え方がだいぶ違うね。「やりたいことができた」「食べたいものが食べられた」「終わらせたい手続きが終わった」これだけですごくラッキーなのだから、それ以上は望んだらいけないし、このうまくいっている状態を「当たり前の状態」と思うなんてとんでもない。本当にうまくいかないと思ってら、とりあえず笑いながらうまくいかない方向にとことん流されてみるのが一番の方法。結局はアッラーの意思によってしか事は進まないのだから。

この彼女の言葉は、仕事ごときでイライラしていた私にはかなり大きく響いた。なんというか、すごく強いというか深いというか逞しいというか。

ただし、彼女に関することで、私が最後までどうしても理解できないことが一つだけあった。それは、ファンタのこと。アミおばさんには六人の子どもがいて、そのうち、冒頭に登場したハワと、七歳のナストゥーがアビジャンで一緒に暮らしている。他の子どもは自立したか、村にいる親戚の家に預かってもらっているんだって。ファンタは十一歳で、アミおばさんの妹さんの子どもらしい。ただし、アフリカの人が意味する「妹」が、必ずしも日本人の意味する妹と意味が一致しているわけではないので要注意だ。ここでは、従姉妹も姪も、みんな「妹」扱いになる。

ハワは、幼いころにファンタの母親に当たる人の元に預けられ、そこで八年もの時間を過ごしたそうだ。学校にも行っていたし、家でもファンタの兄弟姉妹と同じように扱われ、みんなで一緒に育ったとハワ本人が言っていた。「だから今度は」とアミおばさん。「だから今度は、en échange (その代わりに)ファンタがウチに来ることになったんだよ。もうかれこれ二年になるね。」

ところが、「en échange」とは言っていたものの、アミおばさんのファンタへの扱い方に、私はいつも疑問を抱かざるを得なかった。なぜなら、まるでファンタを取り巻く日常が、漫画やドラマみたいなんだもん!!

まず、ファンタは学校へは行っていない。これについては「二年以内には必ず行かせるよ。ファンタも学校に行きたがっているし、ちゃんと教育は受けないとね。」と、アミおばさん。「でも、今はお金がないし・・・それに、あの子の村の役所では、なかなかファンタの出生証明書を発行してくれないんだよ。書類がないと、入学の手続きができないくらい、あんたも知ってるでしょ?」

心なしか、ファンタはいつも、ちょっと影のある顔をしていた。元々シャイな子なんだけど、たまに本当にね・・・私の考えすぎかもしれないけど、こう、人を心配にさせるような表情を浮かべるの。ナストゥーがお昼寝をしたり友達と遊んでいる間には、ファンタはアミおばさんの果物売り場で店番をしたり、掃除をしたりしている。ナストゥーがハワやアミおばさんの腕に抱かれて甘えているときには、ファンタは無表情にその光景を眺めている。お菓子を食べているのはいつもナストゥーで、ファンタがビスケットや飴を頬張っているのを私は見たことがない。それに・・・それに、外向的で近所のアイドル的存在のナストゥーが、ファンタに対してちょっぴり意地悪というか、無意識のうちに二人の間に「お姫さまと付き人」のような関係が出来上がっていることに、私は気付いた。

よく働くね、ファンタ。

店番中のファンタ。



周りに大人がいないタイミングを見計らってファンタに事情を聞いてみようとしても、彼女はいわゆる模範解答しか私に話してはくれなかった。「学校に行きたくないの?」「私はここで果物を売っているほうがいいの」「ナストゥーとは一緒に遊んだりしてる?」「ナストゥーはすごくいい子よ」「村には帰りたい?」「・・・でも、今はここにいる方がいいから・・・」 余談ですが、こういうセンシティブな質問の仕方や人の心をオープンにする方法、もっと勉強したいです。

でも、こんなファンタもやっぱり子どもだなぁと、安心させるエピソードが一つだけある。クリウマスが近づくある日、こっそりと彼女は私に、プレゼントのお願いをしてきたのだ。ファンタはウスリムだけど、アビジャンでは、宗教の違いを超えて、クリスマスにプレゼント交換をする人が増えているみたいね。

他人の家の事情にあまり首を突っ込むのはよくないし、アミおばさんのような強い人を相手には無意味なことであるから何もできなかったけど、私のような立場の人間は、ああいう場面ではどのように振舞うべきだったのだろう。今でも考えてしまう。ファンタが実際に家の中でどういう扱い方をされているのかは、私には本当に分からないことだった。近所の他の人は、みんな知っていたのかな?何でもオープンなアフリカンコミュニティだけど、暗黙の了解の存在感が高いのもまた事実である。私には、この「ファンタ問題」が、近所のコミュニティー内での「触れてはいけない部分」の一つであるような印象をずっと受けていたのだが・・・考えすぎかな。

親戚の家で育つ子どもや「とり替えっ子」は、決して珍しい存在ではない。マケレレ大学の留学生担当(←名前ばかりの担当者)の職員も、エイズ孤児である自分の甥や姪を引き取って自分の子どもと一緒に育てていたし、今や日本の大学で勉強しているR君も、ウガンダにいた頃は友達の家族のところに居候していた。居候っていう言葉とは少し違うような気がするのだが、日本感覚でいうとそんな感じであるため、あえて「居候」という表現を使った。実際は、もうその家族が彼にとっての「家族」であり、その家族の大黒柱であるお母さんはR君のことを「自分の息子」と呼んではかわいがっていたけどね。

スワヒリ語をはじめとする多くのアフリカ言語では、叔父さんや叔母さんという単語がなく、みんな「お父さん」「お母さん」と一緒になてしまう。この例からも分かるように、この大陸では、「子どもはみんなで育てる」「みんなが子どもの親&どの子どもも自分の子」が基本である場合がほとんどだ。あの広い大陸のだいたいどこに行ってもこの傾向にあるらしいから、結構素敵だよね(笑)。ただし、今は都市部の中産階級を中心に、アフリカでも核家族化が進んでいる。彼らの多くは、一人ひとりの子どもにきちんとした環境や教育を提供したいと考えており、子育ての方針もかなり西洋的だ。コートジボワールで一緒に働いていたデニーズは、自宅に、二人の息子の個別の部屋を設けている。一つの部屋で大家族が一緒に寝るのが当たり前という社会で の彼女の方針に、最初私は驚いたが、よくよく考えてみると、ウガンダにもいましたいました、こういう人。anywayこうした新しい子育て方針のもとでは、一人ひとりに莫大な投資をすることが必要となってくるから、たくさんの子どもを育てるという選択はあまりしたがらない。(とは言えども、やはり文化的にはアフリカンなので、日本よりもそういう部分ではかなり寛容的だ。)

典型的なアフリカの元気なおばちゃんであるアミおばさんは、中産階級でもなければ(統計上は貧困層とまではいかなくても、貧しいほうに分類されるはず。家にテレビあるけどね)、価値観は完全に「うちの子どもはみんなの子」タイプの人である。それでも、あれほどまでに、自分の生んだ子とそうではない子を分けている。もちろん、世の中には色々な人がいるから、彼女のような人が少なからずいるのは当たり前のことだけど。

どんなに地元の人と仲良くなっても、こういうときに突っ込んだことを何も聞けない自分は、所詮は部外者なんだなと実感せざるを得ない。聞けたとしてもどうせ、あのようなシチュエーションでは、場を取り繕うような嘘の答えが返ってくるだけ・・・なんてのは簡単に予想できたし。たかが半年の付き合いではなかなか心の奥の奥まで開いてもらえないものだ。複雑に絡まった家庭事情を、そしてその背景にある社会と文化を理解するなんて、短期間では到底無理ね。

もっと時間をかけて信頼関係を作り上げれば、アミおばさんタイプは、裏のウラまで「もういいよ・・・」ってぐらいにぺちゃりくちゃりと何でも話してくれるものなのですが(笑)。

私にできることは、ファンタが幸せになってくれること・・・そして、アミおばさんが本当にファンタを学校へ行かせることを願うだけ。やるせないです。

2010年5月12日水曜日

地名とポストコロニアリズム

ビクトリア湖、ビクトリアの滝、リビングストン、シャルル・ド・ゴール大通り、ミッテラン通り―。これらの共通点に気づいた方は手を挙げてくださーい。

これらはすべて、実際にアフリカ大陸に存在する地名です。シャルル・ド・ゴールに関しては、ほとんどの旧仏領の国の主要都市には必ず存在しているんじゃないかな。今、世界中で少しずつだけど、「外国人によって押し付けられた地名を現地語の名称に変えましょう」運動が起きているよね。インドでは、マドラスがチェンナイになったり、カルカッタがコルカタになったりしているし、エベレストも、サガルマータだのチョモランマだの色々呼ばれるようになってきている。果たしてアフリカは・・・名称変更する気はあるのでしょうか(笑)。ビクトリア(イギリスの女王)、リビングストン(イギリスの宣教師)、シャルル・ド・ゴール、ミッテラン(ともにフランスの大統領。別名、フランスのネオコロニアリズム政策の中心人物)・・・これって全て、かつての支配者側の名前をそのまま使っているだけだよね?いいのかアフリカ、こんなんで悔しくないのか!!

もしも浦賀が「ペリータウン」で、厚木が「マッカーサーシティ」になっていたら、私は毎日デモをしていることであろう。

たかが地名ごときで、そこまで神経質にならなくても・・・とお思いになる方もいらっしゃるかも知れないが、名称って、アイデンティティを構成したり、自己を認識する上で、本当に重要だと私は信じている。前にも少し書いたかもしれないけど、私は「アフリカのスイス(ルワンダのこと)」やら「日本アルプス」に見られるような「○○の△△」という名称があまり好きではない。どうしてスイスが「ヨーロッパのルワンダ」で、アルプス山脈が「ヨーロッパの木曽山脈」だとダメなのか、という話だ。

という訳で、今回は珍しく(?)手短に、アフリカの地名に関することを書きたいと思います。最後の部分が少し本題から反れるけど、笑って許してくださいね。

西アフリカのギニア湾には、「黄金海岸」「穀物海岸」「象牙海岸」「奴隷海岸」とヨーロッパ人に呼ばれる場所があった。何という自分勝手なネーミング(苦笑)。「この辺は穀物をたくさん輸出できるから、今日からここは『穀物海岸』だ!!」みたいな?ふざけてるね。ガーナはイギリス植民地時代に「黄金海岸(Gold Coast)」と呼ばれていたが、独立の際に名前をアフリカ風に変えようということになって、ガーナになった。一方のコートジボワールは、「象牙海岸(Côte d’Ivoire)」がそのまま、しかもフランス語のまま、国の名前になってしまった。アフリカの植民地解放・独立運動のリーダー的存在だったガーナと、おフランスをそのままコピーしようとしたコートジボワール。隣国同士だけど、
考え方によって国名がこんなにも変わるものなんだね。ジンバブエやブルキナファソも、かつては「ローデシア」「オートヴォルタ」と、植民地時代から受け継がれていたヨーロッパ言語による地名が国名に採用されていたけど、ムガベ(言わずと知れた、ジンバブエの現大統領)やサンカラ(ブルキンファソの元大統領。アフリカのチェ・ゲバラ的存在)が力を握ってからは、「アフリカ風にしようぜ!!」ということで変わった。国名が変わっていないのはコートジボワールくらい。こんなこと言うと怒られちゃうかもしれないけど、私はコートジボワールというネーミングはかなりセンスの悪いものだと思っている。まぁ、今更国名の変更ってのも微妙だけど。

コンゴ民主国の首都であるブラザヴィルや、ガボンのフランスヴィル。これも、マジで最低な名前だよ。ヴィル(Ville)とはフランス語で「街」という意味だから、直訳すると、ウラザヴィルは「ブラザの街」、フランスヴィルは「フランスの街」っていうことになる。ブラザっていうのは、コンゴ民主国を「探検」し、後のブラザヴィルとなる村を「発見」したフランス人の名前。うーん・・・。ちなみにブラザヴィルには、今日もブラザの銅像がたっているらしいです。この話を聞いて、「ウソやん!!」って思ったけど、どうやらこれは本当の話のようです。


ブラザヴィルにブラザの銅像についてネットで調べていたら、こんな写真を発見しました。
なんなんでしょう、このセンスの悪さ&この無駄に大きなサイズ。
コンゴ民主国は今年の8月に独立50周年を迎えるわけだけど、どうして片づけないのかしら。


お隣のコンゴ民主共和国の首都であるキンシャサは、植民地時代はレオポルドヴィルと呼ばれていた。レオポルドというのは、あの広い国土のコンゴを「私有地」化したベルギーの王様の名前ね。コンゴの近現代史は相当なドロドロ具合でも、この名前にnonを突きつけたのが、モブツだった。私の知る限り、この名称変更が、彼の行った数少ない(というか、唯一の??笑)良い政策のうちの一つである。

ブリュッセル郊外には、王立中央アフリカ博物館という最低の博物館があるの。ここね、本当にひどいよ。展示の仕方や説明の仕方に植民地主義の色が強く反映されまくっているし、何よりも、レオポルド二世の銅像が堂々と建っているところにツッコミだね。あまりにひどすぎて、行く価値大です。是非とも、コンゴの歴史についていくらか知識を得てから行ってみてください。面白さが100倍になります。

最低の博物館といえば、パリにあるケ・ブランリ美術館もひどかったなという印象を受けた。去年の夏に初めてここに行ったとき、les arts des civilisations primitives(「原始文明芸術」って訳せばいいのかな?)の衝撃の文字が、この美術館の名前の横にデカデカと書いてあるのに非常にショックを受けた。ただし、この前改めてケ・ブランリのホームページを見たら、どこにもそんなことは書かれてなかったから、きっとこの名称をやめたんだね。アビジャンの家で一緒に住んでいたシャカは、「あの泥棒美術館は、シラク主義の総本山だ!!俺たちは見世物ではないし、シラク主義の色眼鏡を通した世界なんてインチキだ!!」と酷評していた。この言葉に私も同感だ。この美術館の主催者や表現者が、そこに展示されている展示品の多くをかつては(というか、今でも)野蛮なものとしてしか見なしていなかった事実を考慮すると、ケ・ブランリにまつわる議論が白熱するのも理解できる。

しかもね、ここ、展示物が陳列されているだけで、説明がかなり不足しているというか。だから、一周して見終わっても、「ああ、エキゾチックな美術館だったね」で終わってしまう。あんな並べ方で、この美術館の訪問者のうちの一体何割が、展示品を芸術として鑑賞し、展示品についての理解を深めることができているのだろう。

地名もそうだけど、美術館や博物館の表現の仕方って、すごくセンシティブで政治的な問題だ。ただ、特定の文化や勢力間の「ホンネの事情」を感じ取るために、イライラはするけれどもこれほど面白い場所はないね。

アフリカ各国でも、博物館には結構足を運んだよ。中には管理の状態が悪くて、クモの巣がかかっている展示物も紛れているけど、博物館のスタッフが提供してくれる情報量は、やはり、ヨーロッパにあるアフリカ博物館なんかよりもずっと豊富だ。ヨハネスブルグにあるアパルトヘイト博物館やキガリにあるジェノサイド祈念館、カイロ博物館は、かなり評判いいよね。個人的には、コートジボワールのGrand Bassamというところにある「衣装博物館」や、アジスアベバにある国立博物館、南エチオピアのJinkaというところにあるSouth Omo Museumが結構好きだった。なので、これらの場所に行く機会があったら是非行ってみてください。衣装博物館には、アントニオというおっさんが働いていて、去年の秋に生まれた彼の娘さんの名前はアキちゃんです。っていっても、コートジボワールに秋もへったくれもないんだけどね。常夏なので。アントニオに「ナツノを知ってる」って言えば、ビールと魚とアチャケ(キャッサバでできたクスクスのような食べ物。ハマります)を奢ってくれるかも??笑


2010年5月11日火曜日

ハイチ地震から考える~分け合うということ・国際養子縁組について~

ハイチの大地震の直後には、アビジャンでも募金活動が活発に(?)行われていた。どうせ、募金を集めるだけ集めて、そのお金で若い女の子連れて飲みに行っちゃうインチキな主催者がほとんどだと思うんだけど・・・と、私が正直のところ感じていたことは内緒である。しかし、前にも書いたのだが、アフリカの人の心理的連帯感はすごい。政治レベルはダメダメだけど、兄弟愛というか、「俺たちアフリカン!!」的な気持ちの強さは、世界のどこにも類を見ないほどなのではないだろうか。

そんな理由もあり、ハイチやカリブ海諸国には、西アフリカから多くの奴隷が「輸出」されたせいもあり、「ハイチにいる兄弟姉妹を助けよう!!」のような雰囲気がアビジャンの人々からもダラダラと出ていた。朝、マンゴーの木の下の新聞売り場でその日の一面記事を眺めているだけの人々(←買わない場合が多い)も、ハイチの惨状の写真を見ては、口々に「アイヤイヤー」「パーパッパッパ」「YAKO!!!(誰かを慰めるときのお決まりのフレーズ)」などとブツブツ言っている。

仕事の関係でアフリカの外にいるアフリカ人ディアスポラの人たちと関わる機会の多かった私は、ある日ベナン人の同僚にこんな話を聞いた。人にもよるのだろうけれど、奴隷としてアメリカ大陸に連れられていった人々の子孫は、今でもアフリカに対してフクザツな感情を抱いているのだとか。自分たちのルーツはアフリカだけど、今日のアフリカ人の先祖こそ(全員が全員そうではないにしろ)自分たちの先祖を売り飛ばした張本人に他ならないから、素直に心を開くことは難しい・・・ということらしい。かつては「奴隷海岸」と呼ばれていたベナンからは、多くの人が、ブラジルでの農作業のために「輸出」されていった。私のベナン人の同僚曰く、ブラジルに暮らすアフリカン・ディアスポラはベナンに対してあまりいい感情を抱いていない場合が多いのだとか。本当なのかな?すごく調べてみたいので、誰か一緒にブラジルへ行きましょう。

ところで、今回の緊急支援活動ではセネガルがかなり頑張っていたね。あまり無理しなくても、あんたたちもうちょい自分たちの国内を頑張りなよ・・・と言いたくなっちゃうけど、「困っている人がいたら自分が持っているわずかなものでも分け合いましょう」というのが、多くのアフリカに共通している精神(でも最近は、都会を中心にかなりのスピードで廃れつつあると思う)だから、セネガルらしいといえばセネガルらしい。

何かを食べている象牙人の前を通りかかるとしよう。ここでは、知らない人同士でも「Bon appétit(食事を楽しんでね、ボナペティー)」と言い合うのが習慣になっていて、それを言うと、95%の確立で「ありがとう!!こっちに来て、ここに座って、あんたも食べなよ」という返事が返ってくる。幼い頃から「試食荒らし(無駄に試食を食べまくること)」が趣味の一つであった私は、コートジボワールでは「試食荒らし」ならぬ「ボナペティー荒らし」を密かに楽しんでいた・・・なんてことを、こんな公の場で発言しちゃっていいのかどうか迷いましたが、正直に告白することにしました(笑)。ちなみにこれを私の同僚に言ったらドン引きされたよ。「知らない人と同じお皿で食べるなんて、不潔よ!!」「こういうときはね、断るのがこの国の慣習なのよ」などなど。でも、みんなのノリが素敵過ぎて、「一緒に食べようよ」のオファーを断る気持ちなんてこれっぽちも生まれないんだもーん。



スーダンの田舎の通りすがりの村にて、イフタを分けてもらう東洋人の図。


これは、ケニアのラム島だね。こんな感じでみんなで一緒に食べるの。



アビジャンの私の家の近所で毎日物乞いに励んでいるおじさんも、なぜか食事中に私が通りかかると、いつも「こっちに来て一緒に食べようよ」と言ってくれる。食事といっても、誰かに恵んでもらったパンやらピーナッツやらヤム芋なのだが、それすらも分け合おうとする。すごく温かい気分になるけど・・・そんなに私は困っているように見えたのかな(笑)?

近所の物乞いのおっさん達。笑顔がね、もう本当に素敵な人々なんです(笑)。


エチオピアでは、汚い食堂でも比較的きれいなレストランでも、道端でも建物の中でも、食事を待っている間にはたいてい、周りの人(既に注文した料理が出てきている人)がご飯を分けてくれた。ラマダン中のスーダンやエジプトでは、イフタ(日没直後の食事)の時間帯になると「こっちへ来―――――い!!」と言わんばかりに道端での食事に引っ張り込まれた。家でのイフタに間に合わなさそうなツイていない人々が、磁石に吸い付く砂鉄のように次から次へと道端イフタに駆け込んでいく光景は、かなりの見ものである。こうして、知らない人々が食べ物と時間を共有するのである。

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いや、でも待てよ。この前ウォロウォロの中で、ダカールに長いこと住んでいたというセネガルとコートジボワールのミックスおっさんと話をしていたんだけど、彼曰く「ダカール人は狡猾で、特に人間関係においては計算してから行動する」から 「J’en ai marre (もうやんなっちゃった)」なのだとか。「サヘル地域の人々(ブルキナ、ニジェールなど)に比べると、象牙人は計算してから人間関係を育む傾向にある。それでも象牙人は、相手から直接何かを得られなくても構わない、とにかく『仲良くなりたい!!相手のことをもっと知りたい!!』という気持ちが強いからこそ、フレンドリーに振舞う人が多い。それなのにセネガルときたら・・・」。たとえば、誰かと友達になるとき、セネガル人の多くは「この人とつながりを持つことで、どんな利益を得られるか?」ということをまずは考えるんだって。

私はセネガルには行ったことがないので比較はできないが、なるほど、アビジャンには、ただ単に私と仲良くなりたくて親切にしてくれる人が、カンパラよりも多い印象は受ける。

セネガル女性がかなり強くて、オシャレだけど若干浪費が大好き・・・という話は、「何も買ってくれない男なんてポイよ、ポイ」な傾向の強い西アフリカでもかなり有名だ。(注:この手の噂は、日本の「九州男児」「越後美人」と似たような類のものなので、別に偏見だとかレッテルだとか差別だとか、そんなんじゃありませんよ。)no offenseだけど・・・なんだか、東アフリカや南スーダンでのウガンダ女性の評判と少し似ているかもね(笑)。関係ない話だけど、パリにいるセネガル人コミュニティーの「ミス・セネガル」と一緒に働いてたの。メチャメチャかわいい子だったけど、彼女の金銭感覚と男に貢がせるスキルは目を見張るものがありました。

ただ、ウガンダ人の多くはあまり難しい計算はしないし、後先のことまでややこしいことはほとんど考えない感じがします(笑)。極端に言うと、彼らは目の前にボーンとあるものに、本能的にホイホイついていってしまうタイプ。そして、ウガンダ人はあくまでも礼儀正しくて婉曲的。「○○ちょうだい」とはあまり言わない。でもその代わりに、さんざん仲良くなった後、ゆっくりとしたウガウガなトーンでニコニコしながら、やんわりと物品の要求をしてくる。

これのやんわり加減がいいのか悪いのかは分からないけど、だからインド人やら中国人やらに経済を乗っ取られちゃうんだよね、ウガンダ人(笑)。嗚呼ウガンダ。ポケモン世代のウガンダ経験者なら、私がしょっちゅう言っている「ウガンダの国民性を例えるなら、ヤドンだ」の意味がよく分かるのではないでしょうか。(誤解されたくないから一応説明しておきますが、それでもウガンダは、私にとっては大切な場所です。ウガンダ人についてあれこれ私は言うけれど、すべて愛のムチです。 )

ということは、セネガルのハイチへの兄弟愛を謳った緊急支援も計算づくしなのかしら?まぁ、政府の援助なんて、国益の計算がされていなかったら逆におかしいんだけどね。一応テンガラの人々(セネガルの愛称)の名誉のためにも言っておくけど、私の知り合い&同僚のセネガル人はみんな良い人だよ。(あ、でも、ただ単に良い人のフリをされているだけだったりして・・・なんちゃって)。

セネガルね、面白そうな国だよね。ビーチとピーナッツと音楽くらいしか知らないけれど、なぜかずっと気になっていた国の一つです。初代大統領はアフリカ人奴隷所有者の子孫なんだけど、「もしも奴隷制度の補償が求められるものであれば、私の先祖の奴隷やその子孫たちは、この私に賠償金を求めることができるであろう」という言葉を残した人なの。ちなみにこの人、かなりのフランス文化好きで、ノルマンディーを心から愛し、最期をそこで迎えるほどの人だったらしいよ。ってオイ、大統領の個人的な嗜好は大統領という仕事には関係ないかもしれないけどさ、リーダーがこんなんじゃ、社会の上層部にフランス文化至上主義が蔓延しちゃうのもうなずけちゃうよね。Françafrique(フランスに支配され続けるアフリカ)を邁進したいフランスにとっては、こういう人が大統領でいてくれたことはうってつけだったに違いないけど。セネガルの歴代ファーストレディーが、全員白人女性であるっていうのも気になる。どうして??(笑)

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さてさて、セネガルの話をしすぎましたが、ここにきてようやく今日の本題に移ろうと思います。

今回の地震のおかげで、ハイチの子どもの人身売買ビジネスに光が当たっているよね。子どもが奴隷になったり、アメリカの養子縁組ビジネスの餌食になったりと、もうとんでもないことが次々と起きている。地震の直後に、ユニセフや多くの子ども・人権関係のNGOが緊急声明を出したりしていたのは、記憶に新しい。

五年前に、私はインドを二ヶ月間フラフラしていたんだけど、そのときに初めて、人身売買の被害となった女の子たちに出会った。衝撃的だったよ。本当に涙が出た。ネパールやバングラ、インドの貧しい村からだまされて連れてこられたり、誘拐されたり、時には(少数ですが)親や親戚の大人に売りさばかれたり。そして、そんな女の子たちは、コルカタの売春宿で強制労働させられるわけです。午後の二時、三時になると、ケバケバメイク&体のラインを強調するようなピチピチの服を着た女の子たちが狭い路地に並ぶの。インドの女性はみんなゆったりした服を着ているから、インドボケしていた私の目には、彼女たちのファッションは衝撃的に映った。みんなお化粧なんかで一生懸命大人っぽく見えるようにしているんだけど、どう見ても十代前半の女の子ばっかりで。中には、きっと八歳や九歳なんだろうなと思わずにいられないような、そんな小さな子もいた。あの路地の光景は、もう一生頭から離れないと思う。この手の子どもの性的搾取は世界中にある。ハイチももちろんその一つ。

もう一つ見逃してはいけない問題の一つに、途上国から先進国のお金持ちへの養子縁組ビジネスがある。

ジョリーピットやマドンナのおかげ(?)で、「貧しくてかわいそう」な子どもを養子にするのが今や世界的なブームになっている。ウガンダでは、街行くムズング(白人)の家族にウガンダ人の赤ちゃんが紛れ込んでいる・・・なんていう光景をちょくちょく目にした。本当に子どもがほしくて養子に迎えている人もいる中、哀れみの気持ちばかりが強い人や「神様に導かれたから、かわいそうな子どもを養子にした」なんていう人までいるから、この養子ブームに対しては、私は正直言ってすごく複雑な気持ちになる。アフリカがヨーロッパの支配下にあったころ、一部のヨーロッパの上流階級の奥様の間では、黒人の子どもを「ペット」としてかわいがるブームがあったの。信じられない話だけどね。二十一世紀のこの世界で起きている養子縁組ブームも、これと大して変わらないのではないのかな。

なんというか、これもやはり「イメージ」というものと深く結びついているのではないかと、ポストコロニアリズムが大好きな私は考えてしまう。子どもという存在がそもそも「小さい、か弱い、守るべき対象(=社会的弱者)」を連想させるが、それに*「黒い肌」というイメージも加わると、「アフリカの子ども・黒い肌の子ども」という存在が、彼ら自身が自らを語る主体なのではなく、他者によって作り上げられた「イメージ」に基づいて語られる存在、単なるobjet(対象)としてしか、認識されない存在になってしまう。うーん、ちょっと話がややこしくなっちゃったね。掻い摘んで言うと、アフリカの子どもや黒い肌の子どもという存在が、「救ってあげるべき対象」という呪縛から解かれるにはまだまだ時間がかかりそうだということ。そして、今日の世界で起こっている国際養子縁組ブームは、少なからずこの「イメージ」が作用しているということ。ジョリーピットやマドンナを、「世界の注目をアフリカの子どもたちに集めている。なぜなら、アフリカは『忘れられた、無視された』存在だからだ」と賞賛する人がいるけれど、私はこれにはかなり批判的な意見を持っている。昔はね、アフリカに実際に行く前はね、そりゃ私も同じように考えていたよ。でも、今は違う。確かに彼らは人々に関心を持たせているけれども、彼らによって作られているアフリカの子どもへの「イメージ」がかなりアンフェアだからだ。これはね、多くのアフリカのインテリ層も同じことを言っていた。

結局のところ、長い目でアフリカの未来を見たときに一番の障害になってくるのが、このアンフェアな「イメージ」なんだよね。人々の関心が高まれば、お金は流れてくるかもしれないし、多くのアフリカの子どもが「物質的によりよい生活」を得られるきっかけになるかもしれない。でも、その副作用として、「objetとしてのアフリカの子ども」が強まり、社会的にも人々の心理的にも、大きな歪を生み出してしまう。

*「黒い肌」へのイメージについては、フランツ・ファノンの本なんかかなりオススメです。

ウガンダでお世話になったアメリカ人のクレイグは、自閉症の孤児三人を養子にしていた。
厳密には、(二年前の段階で)法的に養子縁組が成立していたのは一人だけで、残りの二人は申請中だったんだけどね。この前彼から、無事に全員の養子縁組が終了した旨を伝えるメールが来た。今はウガンダ北部の田舎で、小さな采園を営みながら静かに生活しているらしい。

ちなみに彼は、痛々しいような慈愛に満ちてるタイプの人間ではない。「アメリカ中部出身・白人中産階級・クリスチャン」の三重苦(笑)の人ってどうも苦手なんだけど、クレイグはオープンマインドで自然な人。ウガンダで養子縁組をしている多くのアメリカ人に対しても、「ブームに乗っているだけにすぎない」と批判的な意見を持っていた。それに、何よりも私が好きだったのは、ハッキリと「自分のために、この子たちを養子にするんだ」と明言していたこと。彼は同性愛者だから、本人曰く、子どもが欲しいと思ったら養子縁組に頼るしか方法がないんだって。アメリカ国内の養子を引き取るのではなく、わざわざウガンダ人の子どもにしている理由は、「タイミング的に自分がウガンダにいるから、ここで養子縁組をするのが自然な流れだった」から。

クレイグの子どもたちと一緒によく遊んでいました。I miss them!!




私がウガンダで彼に出会ったとき、クレイグは、養子縁組申請にかなり手こずっていた。ウガンダの国際養子縁組の法律は、かなり複雑だ。手続き開始から縁組成立までは数年もの時間を要する。ウガンダ政府に払わなければならないお金も結構な額だ。手続きの間、ウガンダ国外への出入りもあまり自由にできない。もう今さら明記する必要もないだろうけど、TIA、「公式な」プロセスだけでは、当然、いつまで経っても手続きは進まない。もともと複雑なお役所仕事をさらにややこしくするのはウガンダ役人の得意技だから、毎回、「書類が足りない」だの「写真写りがはっきりしていない」だの「今日は役所のボスが村に里帰り中でいないから、来週また来い」だのグチグチとイチャモンをつけられては、申請が却下されるわけだね。ワイロも渡さなくてはいけないし。

途上国の役人は、この国際養子縁組ブームのご時勢における子どもの需要の高さ&彼らのの商品価値に十分気づいている。「自分の国の子どもの人権を守る」とか表では色々キレイゴトや正論を言いながら、結局はお金。そもそもさ、子どもが守られていない社会をあなたの国に作っているのは、他でもない役人のあなたでしょうが!!とツッコミたくなるけどね。

一方的な大人の都合のみで動いている莫大なお金と、ある日突然、その取引の渦中に「商品」として引っ張り出されてしまった子ども。本当に腹が立つ。 なんだか・・・人間ってなんなんでしょう。

養子を欲しがっている大人が、多くの子どもの中から一人を選ぶこのシステムも・・・なんだかねぇ。ペットショップでワンちゃんを選ぶのと子どもを選ぶのを一緒にしちゃダメなような気がするのですが。もう一つ私がおかしいなと思うのは、当の子どもの意思がほとんど尊重されていないこと。養子縁組って幼児期の子どもが「一番人気」なわけだけど、子どもが幼いことをいいことに、大人の勝手な事情でこんなことしちゃっていいのかな?もう少し年齢が上がると、自らの意思で養子に行きたいという願望を抱くようになる子が少なからず存在する。しかし、その年齢層の子どもにお声がかかることはそう滅多にあることではない。

この前、私の家にエチオピア人のカウチサーファーが泊まりにきた。そのときに、アフリカを取り巻く国際養子縁組について話をしていたんだけど、陽気な彼は冗談で皮肉たっぷりにこう言った。「アメリカの貧しい家庭の子どもや施設に入れられているような子どもをエチオピアの家族が養子にしたいと言ったら、アメリカ政府はどう反応するかな?」

ナイスアイディア!!!子どもにとってもそのほうがいいだろうし、エチオピアとアメリカが対等な立場であることをはっきりと示すためにもすごくいいことだと思うね。