2010年1月27日水曜日

最近・・・

新年明けてからてんやかんやで、何故か睡眠量が突然増えたり、すぐに疲れちゃったりするんです。 あ、でも、マラリア再発(四度目!?)とかではないのでご心配なく(笑)。

いやー、もう情けないですね。ブログに書きたいことは日々溜まりに溜まってゆく一方なのですが。

そんなこんなでコートジボワール生活もあと一ヶ月ちょっととなってしまい、もう時間の経つはやさにただただおののくばかりな私です。このブログには、ウガンダ留学の思い出や、大陸縦断の旅のエピソード、コートジボワールでの仕事のもっと詳しい話や、日本にいたら絶対に知ることのないアフリカの様々な側面についてもっともっと書きたいのですが・・・。


まぁ、アフリカンペースでのろのろと書き上げていきますので、今後ともよろしくお願いしまーす。

2010年1月26日火曜日

見せつけが大好きなアフリカン

いきなりだけど、アフリカでの私の質素な(?)暮らしぶりをここで少し紹介するね。

まずは服装。アフリカにいるときは、特別な場合を除いて、涼しくて動きやすくて、見るからに安そうな服装でいるのが一番だ。

ウガンダ留学時代の私は、いつも髪を一つにしばりあげ、汚いスニーカーかビーチサンダルに半ズボン+ヨレヨレのキャミソールといった格好で過ごしていた。旅をしていたときもそう。コートジボワールでは、仕事中は一応まともな服装を心がけるようにしているけれど、それでも、アクセサリーやお化粧は絶対にしない。そもそも暑すぎるし、日本にいるときでさえも、私はそういった類のものとはほぼ無縁な生活をしているからね。

もちろん、仕事以外のときは、強盗やナンパ野郎にすら相手にされないような身なりを常に心がけている。(というか、そんな服しか持ってこなかったし、新しく買うのも面倒だから、自然とそうなってしまう。)ただでさえ外国人だから目立つのに、「いかにも」な服装でいると「ハイ強盗さん、私を襲ってください」と大声で叫びながらウロチョロしているようなものだ。

安いのは、携帯電話もそう。今の携帯は会社が買ってくれたやつだから、画面はカラーだしにカメラまでついている。でも、ウガンダ時代の携帯は、ノキアの白黒の一番安い機種だった。だって、携帯なんて、電話とメールができれば十分でしょ?

食生活もとことん安いね。ウガンダでは、年間たったの450ドル(光熱費、水道代込!!)で生活できる食事つきの寮に住んでいた。ところが、寮のご飯はまずい挙句に毎日同じメニュー(バナナと豆とたまにご飯)だったし、かといってキッチンもなかったから、ほとんどの寮生はあまり寮で食事をしない。私も、外から食べ物をよく買ってきていたよ。まぁ、私が買ってくる食べ物なんて、せいぜい道端の焼きとうもろこしだの焼きバナナだの、その程度の激安フードだったんだけどね。(今は、家にキッチンがあるお陰で本当に助かっている。)

学生は貧乏だから、お金の使い方は慎重に選ばないといけない。切り詰められるところはひたすら切り詰めて、本やら旅やら緊急出費のためにまわす。これは私のお金に関する基本方針だ。そりゃ、ウガンダの物価のほとんどは日本よりも安いから、豪遊しようと思えばできなくもなかったけれど・・・だからといって、ストリートフードがあるのにわざわざレストランに行ったり、外国からやって来た援助衣類の垂れ流し(結構安い)を買わないでわざわざお店でキレイな服を買ったりするのは、私にとってはちょっとナンセンスに感じられた。たとえ100円だろうと、より安いもので代替できるのであればそうするべきだ。ただし、安ければ全てがいいわけではなく、自分にとっての最低水準を設けておくべきだけれど。

ところがどっこい。

しばしば、このポリシーをどうしても理解しない現地の人に遭遇する。彼らにとって、お金がある人は、それ相応の生活水準を守らなければならないもの。言い方を変えると、こちらの多くの人は、お金があるのに質素な生活をしている人や、わざわざチープな生活をしている人のことが理解できないっていうことね。

ウガンダの大学構内では、顔見知りでもなんでもないマケレレ女子から「ちょっとそこの中国人!!チンチョンチョンチン!!!」と声をかけられ、何事かと思ったら「どうしてこんなにみすぼらしい格好をしているの?」だの「今すぐにきれいな服を買いなさいよ。どうせお金あるんでしょ?」だのズケズケとよく言われたものだ。アンタたちこそ、教科書や本を買わないくせに、どうしてそんなにいい格好しているのよ?まったくもう!!(私は最初、マケレレガールズの多くがあまりにdressyなものだから、授業が終わったらそのままクラブにでも行くのかと思ってしまったくらいだ。)授業のノートなどを入れていたリュックに至っては「女はリュックなど背負わないもの。私が持っているような、かわいいハンドバッグを持つようにしなさい」とバッサリ。キーーーーー、何で私が、リュックを背負っているがために、こんなこと言われないといけないんだ。


マケレレの授業。みんな結構dressy!!



ちなみに、カンパラ市内ではビーチサンダルは嘲笑の対象だった。ルームメイトにまで「お願いだからそれだけは履かないで。私たちまで恥ずかしい思いをする」と言われたね。カンパラでは、ビーチサンダルはトイレやシャワーのスリッパとしか見なされていない。だから、仕方がないといえば仕方がないんだけど。不思議だよね、これが、ダルエスサラーム(タンザニア)やキガリ(ルワンダ)では、みんな普通にビーサンを履いているのに。

私が使っていた携帯も、多くのウガンダ人にとっては???だったようだ。というのも、「何だこいつ、日本人で金あるくせにこんなダサい携帯使いやがって」という気持ちがウラにあるんだよね。

私が今まで訪れたアフリカ諸国では、どの国の若者も、音楽&写真に写るのが大好き。よっぽどお金に困窮している人や、少数ながらも存在する「電話なんてたかが電話、そのために浪費するなどばかばかしい」という考えの持ち主を除いて、イマドキのアフリカ若者は、最低でも、カメラと音楽ポータブル機能付の携帯を持っている。お金に余裕のある人は、i-phoneやblackberryのような電話を使ってるよ。(「~のような」というところがポイント。やっぱりTIA,もちろん、これらの電話からインターネットに接続はできません。だってほとんどは中国の安物コピー製品なんだもん♪非常に稀ながら、本物のi-phoneなんかを持っている人もいるけどね。)

貧しい層の人々はみんな、お金の面では様々な苦労をしている。「いつかこの生活から抜け出してやる!!」という願望が強ければ強いほど、お金持ちに対する羨望が強ければ強いほど、あるいは、自分の経済力に対する劣等感が強ければ強いほど、本当はお金があるのに、わざわざチープなライフスタイルを好き好む人の心理が分からない。

中産階級の人々は、出費を抑えるために自分たちよりも下の階級の人々と同じ場所に出入りしたり、同じものを購入したりすることはほとんどない。例えば、コートジボワールの中産階級の人々に南ア~エジプト大陸縦断の旅のことを話すと、みんなに「飛行機は?ホテルは?レストランは?そんなお金がよくあったね!!」と言われる。「バスやヒッチハイクが交通手段だったし、果物とかストリートフードばかり食べていたし、泊まるところも、誰かの家や安宿ばかりだったから、お金はそんなにかからなかったよ。」そう答えると、彼らはたいてい唖然としてしまう。ぎゅうぎゅう詰めで、乗っているだけで疲れてしまうような長距離バスは「貧しい人々」のためにあるもの。ご飯も、そんな汚いところで食べたら体調を崩してしまう。不潔で、「危険」で、シャワーがなくて、お湯がなくて、冷房も扇風機もないような安宿に泊まるなど、問題外―自分たちは、自分たちの階級にマッチしたラグジュアリーが必要なのだ。

大きな家に数台の車。メイドさんが家事を全てやってくれ、仕事や留学のために世界中を飛び回るような上流階級。こんな人たちにお目にかかることは滅多にないことだけど、彼らはマジですごいよ。飛行機は絶対に欧米系の航空会社(さすがに、自家用ジェットを持っていう金持ちには未だかつて遭遇していない)だし、基本的に買い物は全部海外で済ませるから、全身ブランド品でがっちり。よく聞く話だけど、パリのルイ・ヴィトン本店のVIP顧客は、今やほとんどがアラブ系かアフリカ系だっていうしね。

彼らにとっては、もはや重要なのはラグジュアリーの中身ではなく、「その社会の中で相対的に判断して、自分がどのレベルにいるのか」という点なのではないかと思わずにはいられない。例えば、東京に留学しているとあるアフリカ人お嬢様を知っているけれど、彼女は高級マンションに一人暮らしをし、疲れているときは、地下鉄を使わずにタクシー通学なんだって。彼女の国と東京では物価があまりにも違いすぎるが、「そんなことはお構いなし」な感じが、彼女の家のボンボンさを物語っているね。そもそもの話として、彼女の国と東京では生活の質と便利さは比べ物にならないくらい差があるわけだから、彼女の国のスタンダードでいう「お金持ちの暮らし」は、東京では、高級マンションに住んでいようと5万円のアパート住んでいようと、送れるはずなのだ(東京のアパートは、アフリカの豪邸育ちの人には小さすぎるかもしれないけどね)。

でも、重要なのはどうやらそこじゃないようだ。階級社会の上層部で育つと、別の社会で暮らすようになったときにも、「新しい社会の中での上層部の暮らし」をしないと気が済まなくなっちゃうものなのかな。彼女の国でお金持ちの生活をしていた人にとっては、「日本という国で暮らす際には日本のお金持ちの暮らし」をしないとダメ、みたいな考え方がどこかにあるのかも知れないな、と、彼女を見ていてそう思った。すごくいい子ではあるんだけど。

さて、ここに書いたような、階級による生活水準への認識というのは、なにもアフリカに限ったことではない。日本にも、ここまでハッキリと分かれてはいなくても、子どもの教育やなんやかんやで「我が家の階級にあったものを選ばなくちゃ」という傾向は存在する。(「格差社会」と言われながらも日本の格差はそこまでシビアなわけではないけどね。)

問題は次。ここには、「目につきやすいポイント」に集中的にあり金を注ぎ込む人、つまり、派手好きで自分が金持ちであることを「見せつける」のが大好きな人がかなりの割合で存在するんだな。(無論、こんな人は世界中にいるけれどね。)目に付きやすいポイントで相手や周囲を圧倒させ、そこから得る優越感に浸る―老若男女問わず、こんな傾向にある人が多い。

ちなみにこの「目につきやすいポイント」とは、ファッション、車、家、豪遊などのことである。一発で、しかも誰にとっても分かりやすい形で見せつけるためには、教育や医療のような地味なお金の使い道よりも「目につきやすいポイント」を優先させなくてはいけない。(だからこそ私の会社は、ヨーロッパにいるアフリカ人デジアスポラがアフリカにいる家族にお金を送るのではなく、モノや教育・医療などのサービスを直接提供できるようなビジネスを行っている。送金者が納得するようなお金の使い方をする受取人が、あまりにも少ないためだ。詳しくはこちら。)

この傾向は、別にお金持ちに限ったものではない。庶民層でも多くの人が、「分かりやすくて目につきやすいポイント」に集中的にお金を使っている。見栄っ張りさんが多いのかな。それとも、優先事項違うのは、単なる文化の違い?いずれにせよ、私には到底理解のできないようなお金の使い方をしている人が、村でも都会でも多いこと多いこと。

「お金がないから」と本や教科書を買うのを拒否するくせに、ファッションや化粧品、携帯電話にあり金をつぎ込むマケレレ大学の学生。子どもを学校に行かせる余裕がないのに、家にはちゃっかりテレビがあるスラムの家庭。具合が悪くても病院に行くお金がないと言っていた近所のおばさん。そんな彼女の娘は、毎日毎日髪の毛とお化粧と服を完璧にキメて、ケータイの音楽を聞きながら果物を売っている。(もしかしたら、彼女は援助交際をしているのかも。)その傍らでは、ピカピカの車が音量マックスで音楽を流しながら走っており、道端でたむろしている無職の若者たちの羨望のまなざしを集めている。

アフリカで売られている本やマケレレの教科書は、ほとんどが欧米からの輸入品だ。だから、税金なんかも課されてメチャメチャ高い。学校も、コートジボワールではもちろんワイロを要求されるから高くつくし、ウガンダの場合だと、*UPEのとばっちりを受けたせいで、どんなに貧しい家庭でも私立学校にやらないといけないご時勢になってしまった。医療だって、何もしてくれない公立病院に文字通り「行く」のなら無料(病院までの交通量も、貧しい人にとっては痛い出費。しかも、そんなこんなでたどり着いた公立病院でも、しばしばワイロを要求されるから、結局はタダじゃなくなっちゃうんだけどね)だけど、薬を買ったり、きちんとした治療を私立病院や診療所で受けようものなら、当然出費を覚悟しなければならない。

*Universal Primary Education(公共初等教育無料政策)。援助にどっぷりのウガンダ政府が、統計上の「就学率」を上げるため、また、国際機関や世界銀行のご機嫌をとるために、無理やり作ったとしか思えない政策。お金がないのと汚職が蔓延しているくせにこんなことをし、結果として、先生のお給料は支払われず、校舎もボロボロ、教室には子どもが溢れかえり、文字通り学校に「行く」だけの初等教育になってしまった。小学校一年生百人につき、ストライキばかりしている先生が一人だけとか、ジョークもほどほどにしてくださいという話だ。学校に行ってもなにも学ばなかったら、それこそ詐欺だと私は思う。当然、教育の質は、有料だった頃と比べてガタ落ち。今ではどんなに貧しい家庭でも、どうにかしてお金をやりくりして子どもを私立学校に行かせている。少なくとも、私は一年弱のウガンダ生活で、公立小学校に子どもをやっている親には一度も遭遇していない。

だから、これらの出費は、ちょっとやそっとの節約をしたところでできるものではないのはよく分かるんだけど。

ウガンダ生活の初めの頃、カンパラのスラムで暮らす人々の雰囲気から、所謂「貧しさ」をあまり感じなかったから、私は心底ビックリしたよ。ちょうどその一年前にインドをうろちょろしていたんだけど、インドでは、スラムで暮らすような人は本当に見るからに貧しそうな格好だったからねぇ。ウガンダのスラムは、時間がゆっくりと流れるちょっとした下町のような場所で、日本にいる皆さんが「スラム」と聞いてイメージするような、あんな悲壮感たっぷりの場所では決してない。みんなオシャレさんで、失業者の若者は道端でイヤホンをして音楽を聞いているし、食べ物も道端で売られていて、子どもたちはそこらじゅうで遊びまわっている。まぁ、外国人にとっては衛生的ではない場所だし、教育や医療の状態がいいとはとても思えないし、貧しさから売春に走る女の子やなんやかんやは絶えないみたいだけどね。ちなみに、同じアフリカでも、エチオピアのスラムはちょっぴり違う。エチオピアは、どちらかと言うとインド寄りだ。

マケレレ近くのスラムと呼ばれる場所のお風呂タイム。そもそもスラムの定義ってなんなんだろう・・・。 洗濯物。

どんなに悲壮感が感じられないスラムだとはいえ、ちょっとこれを見ると心配になっちゃうよね。


どうしてだろうね・・・。私は最初、これがウガンダだけの特徴なのかと思ったし、文化的なものだとも思った。ほら、よく、「産業革命当時のイギリスの労働者階級は、どんなに生活が苦しくても靴だけはきちんとしたものを履いていた。靴を履くことが、人間らしく生きるための最低ラインだった。」っていうじゃない?(私のうる覚えだったら申し訳ありません。)何に重点を置いて何に優先順位をつけながらお金を使うかというのは、その人の個性は当然のことながら、文化的背景も大きく影響してくる。だから、「見せつけ&見栄っ張りのお金の使い方は、もしかしたらウガンダ周辺地域の文化なのかもしれない!!」という結論に、ウガンダ生活当初の私は至ったわけなのである。

だが、ウガンダ以外の国を旅をすればするほど、どうやらこのウガンダ文化だと信じていたものが、この大陸全体に蔓延している傾向のではないかという疑惑を抱くようになった。行けども行けども似たようなモンなんだもん。ということは、これは「アフリカの文化」なの??

まぁ、だんだんとアフリカの様々な地域の伝統文化や伝統的価値観について学んでいくうちに、そうではないと感じるようになったけどね。ある友人(コートジボワール中産階級)は、「これはアフリカの伝統文化ではけれど、長い間この傾向にあるせいで『文化』の一部になってしまった」と説明してくれた。また、ひょんなことから昨年末に我が家に転がり込んできた象牙人・シャカは、「アフリカのメンタリティーは道に迷ってしまっている」と、この見せつけ志向を嘆いていた。

お金も権力も、現代アフリカでは見せつけてナンボ。さっきも少し書いたけど、見せつけることで周囲を圧倒させ、恐れさせて平伏させ、優越感に浸ることを心から好む人が多い。ハッキリ言って、栃木の不良(だと本人は思い込んでいる)中学生と同レベルなのだがTIAの場合、マケレレの教授からアビジャンの警官までがこれだからあきれてしまう。

また、さらにTIAなことに、こういう見せつけ野郎をチヤホヤする人やら、外見の派手さに目が眩み、人を見極める力や理性を失ってしまう人が多いんだな。多くの人の目には見た目の派手さがそのままの形でその人の力や権力と映るのね。だから、派手な外見や雰囲気次第では周りの人を動かしやすくすることができるし、これでもかってぐらいチヤホヤされるから、好きなだけいい気分に浸ることができる。これだから見せつけ軍団はつけあがってしまう。

例えば、アビジャンでもカンパラでも、車を持っていることがモテ男の条件だ。今まで冴えずに誰からも相手にされなかった男が、車の購入と同時に女の子に囲まれるようになることなどしょっちゅうある話なんだよ。女の子をナンパするために、わざわざ知り合いにお金を払ってまでして車を借りるなんてこともしばしば。ただし、三回以上歩いている姿をお目当ての女の子に目撃されてしまったらアウトだからちょっと厳しい(?)よね。豪華なライフスタイルにたくさんの彼女(←一夫多妻制の現代版)とくれば、同性からの羨望のまなざしも手に入れ、結果として自分のステータスが上がる。

贅沢が大好きな派手好きビッチが多いのも問題。日本では、収入で結婚相手を選ぶ女性が多いみたいだけど、アフリカンギャルは、付き合う男の子から何から何まで、男性のことはとにかく経済力で判断する。飲み食いショッピングは当然全て男性持ちだし、車を持っていないがために、女の子を家まで送っていけない男性には、家からの交通費+αを当然のように請求する。というか、男性が払うのが当然のしきたりとなっている。交通費すら出せない男なんて、ポイされちゃうよ。携帯の電話代まで男性に払ってもらうビッチも結構いるし、中には生活費や教育まで払わせる子も。ここまでくると、生きるのにみんな必死なんだな・・・という印象を受けるよね。もはや彼氏じゃなくてスポンサーです。そして、それらを払えない男はただのガラクタなので一緒にいる意味などなく、次々と捨てられていく。哀れだよね。

反対に、それらを全て払ってくれる男の周りには、ビッチたちがうじゃうじゃしてるよ。ダメ男もダメ男で何股でもかけたいから、女心を掴むための投資は怠らない。だから、少しくらい家計が厳しくても、まずは「僕はあなたのために払えます」というメッセージを自分の外見に込めるのだ。

学業や仕事で周りよりも優れていることを見せつけたりするのならまだ理解できなくもないんだけど。短絡的な人や教育を受けていない人というのは、分析力に欠けているせいか、どうしても分かりやすい見た目や派手なライフスタイルのみで相手を判断しがちだ。何よりも、ここでは正々堂々のフェアプレイがほとんど存在しない。実力があっても、ワイロがなければ判断してもらえない、いわば「努力をするものがバカをみる」社会なのだ。

努力は自分を裏切るかもしれないけど、派手な見た目は裏切らない。きっとこれも、現代アフリカに根付いている見せつけ主義の大きな原因だ。
なんだかねぇ・・・このままだと、心や魂が伴わない、ここ二、三十年の日本のような「空っぽな発展の時代」をアフリカも迎えそうで、ちょっとと私は心配だ。
もうちょっと中身を重視する人が増えてくれればいいんだけど・・・。見せつけようとしない人は、権力闘争や社会的地位を獲得する際の競争で不利だから、結局は、社会の上に立つ人の多くが見せつけ大好き人間になっちゃうんだね。そして、それを見ている社会の下のほうの人々は、「いつかああなりたい」という希望を抱いて自分たちまで見せつけ大好き人間になってしまう。
うーん。

2010年1月13日水曜日

現代アフリカの心は複雑だ!! 白人至上主義②

白人至上主義①の続き。

人間は平等・・・のハズだけど。

教育を受けていない人は、教育を受けた人の言うことが全て正しいかのように振舞うし、教育を受けた人に対して強い態度で接するなど、ありえない話だ。教育格差が日本のそれとは比べ物にならないような場所にいると、私はいつも、教育の持つパワーを痛感する。

それでは、肌の色はどうだろう?

もちろん、アフリカの人の中には、自信に溢れ、外国人に対してもヘラヘラせずに堂々とした対応をする人もいる。実際に、私が心から尊敬するアフリカ人の友人は全員この類の人々だ。しかし残念ながら、彼らのような人は、この大陸では非常に稀だ。

外国人、特にヨーロッパ系の白人は、アフリカでは神様のように扱われる場合がかなり多い。彼らは頭がよく、経済的にも豊かで、全てを可能にする力を持っている。それに比べて自分はどうだろう。自分はどんなに逆立ちしても、白人を超えることはできない。

都市部で暮らす人や教育を受けた人は、ここまで思っている人はほとんどいないだろう。たまに、「俺は肌の色が黒いから金がない」だの言ってくるアホには遭遇するけどね。しかし、子どもや農村で暮らす女性など、社会的に弱い人々と話していると、彼らが(口ではそうは言わなくても)心の中では「白人>黒人」と感じているのがヒシヒシと伝わってくる。

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援助活動ねぇ・・・私には、これがかえって、一部の現地の人の白人至上主義を助長させているように思えて仕方がないのですが。大金を持って自分たちを「援助」するという理由の下にやって来る外国人をたくさん見ると、貧しい人々が白人至上主義になってしまうのも仕方がないよね。戦後間もない頃の日本で、お菓子を配る米兵に子どもが群がったのと同じことなのかもしれない。

援助によって生じる白人至上主義は、特にウガンダで感じた。一般的なウガンダ人の援助に対する態度はこちらを参照していただくことにして。結局、援助活動の財源は、外からやって来る人々がもたらしてくれるワケで。そうなると当たり前なのだが、これらスポンサー族は、現地社会やプロジェクトを行っているコミュニティー内で、絶対的な発言力を持つようになるよね。まぁ、スポンサーがあれこれ口出しするのは、いつの時代もどの国でもどの分野でも当たり前のことなんだけど。

特にウガンダは、国全体(政府も含む)が「国連様様、世界銀行様様、国際NGO様様、チャリティー大好きミッション系団体様様」な雰囲気丸出しで、彼らのご機嫌をとるためなら、「何だって致します」状態だった。少なくとも、私の目にはそう映った。コートジボワールでは、国連や世銀にかなり批判的な人が多いんだけどね。この、外からの援助にヘラヘラしている態度は、白人至上主義と大きくリンクしている。

また、どんなに住民の参加を強調しているプロジェクトでも、どんなに現地の専門家でプロジェクトチームが固められていようと、プロジェクトにかかわる現地の人材というのは、結局はスポンサーによって選ばれている。つまり、スポンサーの仲良し軍団や、外国人・国際機関とある程度考え方を共有している人が、大きな権力を握るというワケね。そのほうが、スポンサーとしてもやりやすい。まぁ、これも当たり前の理論ではある。誰だって、自分とは考え方や意見の異なることにお金は出さないでしょ、そりゃ。

例えば、NGO(国際NGO&現地NGO)がひしめき合うウガンダ北部。内戦も終わり、元子ども兵士の社会復帰プロジェクトやら、IDP(国内避難民)キャンプの支援プロジェクトやら、とにかくプロジェクトの数がすごいことになっている。しかし、それらプロジェクトに充てられる財源は限られているため、現地人によって運営されている現地NGO間の競争はかなり熾烈だ。彼らは、スポンサー(多くの場合はアフリカの外からやって来る)に最終的には気に入られないと生き残ることはできない。そこで、多くの現地NGOが白人至上主義にならざるを得なくなる。現地の文化や価値観に合っていなくても、ムズング(外国人)の目に問題と映るトピックを扱ったプロジェクト案を提出する、とかね。

極端な話、援助活動とは、「援助する側の人間にとって都合のいいアフリカ」を作り上げるための活動に他ならない―ちょっと冷たすぎるけど、そんなもんじゃない?援助も結局はビジネスなんだし。

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美意識や恋愛が、どのように白人至上主義と繋がっているのか?

アフリカでは、全体的に美白ブームが巻き起こっている。もっとも、今に始まったブームではなく、結構前からあるみたいだけどね。アフリカ系の肌が真っ白になることはなくても、少しでも明るい色の肌を手に入れようと、多くの女性が必死になっている。肌に悪影響を及ぼす薬を使ったクリームはお店に溢れているし、ファッション誌や街中の看板にも、美白商品の宣伝はしょっちゅう登場する。「若い頃にたくさんクリームを使ったせいで、肌がおかしくなっちゃった」なんていうおばさんや、顔は明るめの小麦色なのに、腕や足は真っ黒なお姉さんにも度々遭遇する。そしてその度に、私の胸はなんともいえない痛みに襲われる。あんなに美しい色の肌なのにね。

アフリカの男の人と話していると、明るめの色の肌の女性がモテる条件であることがなんとなく分かるよ。アフリカ系アメリカ人や混血の女の子なんて、そういう意味では本当にパーフェクトなんだとか。広告に出てくる女性も、黒すぎる人はあまりいないかも。

それから髪の毛。まっすぐで、フワフワで、きめ細やかでボリュームたっぷりの髪の毛は、美の象徴のようなものだ。しかし、アフリカの女性の地毛は、その理想とは一味もふた味も違う。そのためか、都市部に住むほとんどの女性は、つけ毛をしてオシャレを楽しんでいる。編みこみやチリチリな髪形も根強く支持されてはいるが、それさえもつけ毛である場合が多いんだよ。「私は100%自分の髪で勝負よ!!」という女性はかなりの少数派なんじゃないかな。

私のボサボサの髪の毛でさえ、ここではみんなから羨望のまなざしで見られる。女の子たちは私の髪を触りたがるし、実際に「髪の毛ちょーだい」と言ってくる若い女性もチラホラといる。以前、モンバサの知り合いの家に泊まっていたときに、髪の毛を20センチほどバッサリ切った。そして、切った髪の毛をゴミ箱に捨てた。五分後、ゴミ箱を覗き込んでみると、さっき捨てたはずの髪の毛が消えている・・・と思ったら、メイドさんがこっそり拾っていたらしい。私の髪の毛を使ってつけ毛を作りたいんだって。

美に関しては、ないものねだりをしてしまうのは仕方がない。白人の女の子はやたらと日焼けしたがるし、私も数回、髪の毛をチリチリにしたことがある。しかし、理想の恋人や結婚相手に至ってはどうだろうか。

お金やビザ目当てで外国人に言い寄るのは、途上国では決して珍しい光景ではない。しかし、お金目的ではなくても、「白人至上主義」「黒人性の否定」の気持ちから、外国人をターゲットにするヤツラもチラホラいる。

例えばカメルーンでは、お金を払ってまで外国人と結婚したがる人や、子どもを外国人と結婚させたがる親がいるんだって。信じられない話だけど・・・複数のカメルーン人から似たような証言を得ているから、カメルーン裏社会(?)の事実なのかもね。これは、白人至上主義のせいなのかなんなのか。

また、セネガルの今までの歴代ファースト・レディーは、全員白人女性なのだという話を最近聞いた。そういや去年、インチキ選挙で大統領に就任した、ガボンのアリ・ボンゴ(独裁長期政権を続けてきたオマル・ボンゴの息子。ボンゴ父はフランスの大のお気に入りだった)の奥さんもフランス人だ。彼女、なんか見るからにnoir(黒)な雰囲気がビシビシと伝わってくるように見えるのは、私がボンゴ親子に抱いている嫌悪感のせいなのかしら。アルジェリアの法律が「大統領になるためにはアルジェリア人の配偶者がいることが必要だ」と言っているのと対照的だね。

ちなみにこのボンゴ父ですが、彼の奥さんは、隣国であるコンゴ共和国の大統領令嬢なんだよ。アレだよ、斉藤道三が娘を織田信長に嫁がせたのと同じようなものだよね。時代はだいぶ違うけど。

まぁ、大統領だろうと誰だろうと、好きな人と結婚するのが一番だけど(というか、そもそも奥さんは何人いるんだという話だけど)・・・それでも、この大陸には「白人女性を手に入れること=本当に大きなステータス」と考えるダメ男が非常に多い。特に、「イメージ」「見てくれ」「外見」による影響力がとてつもない現代アフリカだ。そんな中で大統領のような人が白人の女性と結婚したら、国民に与える影響は相当大きいはずだよね。

マケレレ大学に留学していた頃、最初の数ヶ月間だけだが、ノルウェー人の留学生グループと一緒だった。彼らの大学からは、毎年マケレレにノルウェー人留学生が送り込まれているのだが、私の代のノルウェー人たちは、常に「リピーター」のマケレレアン(マケレレの学生)に付きまとわれていた。「リピーター」とは、代々のノルウェー人とつるみたがる連中のことである。ムズング(外国人)と一緒にいると、それだけで一目置かれる存在になれるし、学内ステータスもアップする。特にノルウェー人は、金髪に青い目の典型的なムズング(白人)だから、リピーター以外のウガンダ人学生からの視線もすごかったよ。対する私は、中国とウガンダのハーフだと思われてたから、そこまででもなかったけどね(笑)。

ただ、中には、「『better baby(よりよい赤ちゃん)』が欲しいから」と付きまとわれている子たちもいて少しかわいそうだった。さすがに、このBetter babyの話を聞いたときは驚愕したけどね。「は??betterってなんだよ、品種改良の家畜じゃないんだからさ・・・」というのが正直な感想であった。それと同時に、どうしてここまで白人に憧れるのかが理解できなかった。

もちろん、地位や権力のためだけに、白人の配偶者・恋人・友人の存在を夢見るわけではない。中には、アフリカにはびこる拝金主義やら保守的な価値観にがんじがらめになってしまっている人々に嫌気が差し、その反動から、「自由な世界」で育った外国人と一緒になりたいと願う人もいるのだ。

このタイプの人々の言い分は、ウガンダの多くの若者の、あまりにも薄っぺらな人間関係を目の当たりにした私にとっては、分からなくもないものばかりなんだよね。実際、私の留学生活とは、人間不信に陥りかけていた自分との戦いの日々だったし、狭い視点からしか物事を見られない人々に囲まれる生活は、想像以上に厳しいものだった。また、超保守的な栃木の田んぼで思春期の荒波を潜り抜けた(?)自由奔放人間として、「自分により近い価値観を持った人との出逢い」「自分の目を開かせてくれるような人との出逢い」を自分の世界の外に求めようとする気持ちというのは痛いほどよく分かる。

だからこそ、このタイプの人に出会うといつも私は困惑してしまった。あなたの言い分は分からなくもないけど・・・解決の糸口を白人に求めなくてもいいじゃない?

私が自ら経験した中で一番困惑したのは、西ウガンダを旅行していたときのエピソードである。非常に信仰深くて慎み深いガイドの男の子と一緒に、私はトレッキングをしていた。休憩中に彼は突然こう言い出した。

「僕は将来、絶対に外国人の女の人と結婚したい。」

それまでの会話から、彼が拝金主義の若者ではないことは分かっていたため、私は余計に驚いた。理由を尋ねると、彼は続けた。

「ウガンダ人やコンゴ人、ケニア人の女の子をよく知っているけど、みんな自分のことばかり考えていて、表面的で、他人を財源としか考えていないんだ。人間関係の基準は、そこから経済的・物質的利益を得られるかどうか。恋愛に至っては、その傾向はもっと強いね。僕のdignity(尊厳)を尊重するだとか、僕という人物に対する真の評価をくだすだとか、一緒に協力して家庭を築いていくだとか、アフリカの女の子にはきっとできないよ。だからこそ、僕は親切で賢い外国人の人といつか結婚したいんだ。」

うーん、さすがガイドとして多くの外国人を相手にしているだけのことはあるね。でも、だからといって、外国人に何故あなたはこだわるの?

とりあえずこのガイドの男の子には、少数ながら、私がであった素晴らしいウガンダ女性の話をしたよ。彼の気持ちはすごくよく分かるんだけど、一応この状況で「そんなことないよ」の一言ぐらい言っておかないと・・・ねぇ。

また、『ジェノサイドの丘』という本の中にも、同じような理由から白人女性との結婚を熱望するピグミー男性の話が書かれていた。ピグミーっていうのは、中央アフリカ各国では差別の対象となっている場合が多いんだけど、その反動からか、「自分のことを正当に判断してくれるのは、平等と差別反対の精神を持った白人のみだ!!」という概念を持つようになっちゃったらしい。

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貧困よりもガバナンスの問題よりも、こうした白人至上主義に見られるようなアフリカの心の方が、この大陸ではよっぽど深刻な問題だ。この過去の産物を引きずったままの状態で、アフリカは今、大きな変化を迎えている。この変化がアフリカの自信となり、植民地支配の傷を完全に癒して誇りを取り戻してくれるのか。それとも、表面と中身のバランスがますます失われ、大陸は今後も迷走し続け、力の強い国々にいいように利用され続けてしまうのか。スピリットのない人なんて、死人と同じようなものだからねぇ。

だからこそ、オバマの大統領就任は、アフリカの子どもたちにとっても大きな意味のある出来事だったんじゃないかな。オバマは自分自身を「アフリカ人だ」と公言している。そんな人が世界で一番影響力のあるポストに就いたことは、「自分にももはや全てが可能なんだ」という希望をアフリカの子どもたちに抱かせるとともに、「白人>黒人」から「白人=黒人」の時代が本当に到来したことを*分かりやすく印象付けているよね。彼の登場は、アメリカ一国だけではなく、大航海時代以降の人類の歴史にとっても大きな一幕であったことは間違いないだろう。


* この「分かりやすく印象付ける」ことが、現代アフリカではかなり重要。これについては明日か明後日に詳しく書くね。

それでもやっぱり、私は人類にraceなど存在しないとあくまでも言い張り続けたいから、オバマの肌の色だけでチヤホヤする人にはなりたくないんだけど・・・これがアフリカの心に自信を取り戻させてくれるなら、そこまでおカタくならなくてもいいのかな、なんて思ってみたり(笑)。

現代アフリカの心は複雑だ!! 白人至上主義①

日本の大学で文化人類学の授業を取っていたとき、私たちの教授は「人類の生物学的な特徴を元にrace(人種)という概念が生まれたといわれているが、厳密には、人類にraceなど存在しない」と言った。Raceという概念が極めて政治的であることは分かっていたけれど、やはり、ネグロイド、モンゴロイド、コーカソイドなどのように、大まかに人類は分類可能だと思っていた私にとっては、目からウロコだった。

この教授によると、生物学上のraceとは、染色体の数や形に共通点が見られる生物の分類を意味する。言い換えれば、raceが違う生物というのは、染色体になんの共通点も見られないことになる。当然ヒトの染色体は、日本人であろうとボリビア人であろうとガボン人であろうと、みんな同じである。このように共通の染色体をもったヒトとヒトの間に、違うraceなど存在し得ない。私たちがraceと呼んでいるものは、よって、生物学的な要素など一切含んでおらず、完全に政治が生み出した概念である。

なるほど、これはものすごく説得力のある理論だ。この話を聞くまでの自分も含めてだが、「ヒトにはraceの違いが存在する」と思い込んでいる人の多いこと多いこと。Raceを理由に優越感・劣等感を感じている人など論外だが、「racism(人種差別)反対!!」と叫んでいる人々や、オバマが「人種的マイノリティー」だからとちやほやしている人も、そもそも論としてraceなど存在しないということを分かっているのだろうか・・・と疑問に感じる。「racism反対!!」と叫んだり、オバマのraceが故にちやほやしている人というのは、「ヒトにはraceというものが存在する」という前提から抜け出せていないからね。

しかし、実際には存在しないはずのraceだが、虚像の概念・押し付けられた概念として、世界のほとんどの人の心を支配しているのは事実である(私も含めて)。どんなに「実際にはraceは存在しない」と言われても、それを頭で理解はできても、現実の世界のありとあらゆるところにこのraceという虚像の概念が影響を及ぼしている。虚像の概念であろうと、それが実際に効力を発揮してしまっている以上は、raceは存在するのと同じことなのではないだろうか。

実際に力を持ってしまっている、虚像の概念としてのrace。うーん、ややこしいね。とりあえず、このブログの中ではあえて現実を直視して、「人種は存在する!!」という書き方をしておりまずが。そっちのほうが皆さんに色々説明するのに便利だしね。そこら辺はご了承願います。

冒頭の授業から半年後、私はアフリカの大地に初めて降り立った。しかし、ここで生活していくにつれ「ヒトにはraceなど存在しない」という「事実」が単なるキレイゴトにしか思えなくなった。そりゃ、私だって、raceは実は存在しないんだと未だに自信を持って説明できるし、信じていたい。しかし、この大陸について深く知れば知るほど、「黒人性」や「黒人アイデンティティ」という概念抜きには、アフリカの人の心理やメンタリティーを理解することができないことに気付いていく。

本当は、黒人だからどうのこうのだなんて言わずに、彼らのことを理解できるのが一番なんだけど。

例えば、「日本人」を理解するために、日本人がいわゆる「モンゴロイド種族」であることは全く関係ないよね。しかし、「コートジボワール人」や「ウガンダ人」を理解するためには、ネガティブにも歩シティブにも、「黒人性」や「黒人アイデンティティ」を無視することはできない。それだけ過去の歴史のダメージが大きかったのか、Africa as oneの意識が強い文化(?)なのか、何か特別な魔法でも潜んでいるのか(アフリカにいると、本当にここには魔法が存在するのではないかと思わされることがよくある)。―私にはまだ良く分からない。もっと勉強しないと。

この、非常に複雑な「黒人性」「黒人アイデンティティ」だが、今回はその中でも、一部のアフリカの人が抱いている「白人至上主義」と「自らの黒人性に対するコンプレックス」について少しお話したいと思う。

「白人至上主義」や「自らの黒人性に対するコンプレックス」はネガティブな動機であるが、アフリカ人としてのアイデンティティや黒人アイデンティティのエネルギー元の一部であると私は考えている。一つのアイデンティティが確立するには、他者と出会い、その他者を通して自分を再認識することが必要だから、こういうネガティブなのも、アイデンティティの存在のためには不可欠と言えば不可欠なんじゃないかな。ちょっと複雑な気持ちになりますが。

一応前もって断っておきます。この文章を読んだあなたは賛否両論さまざまな感想をお持ちになられるでしょうが、私はあくまで、キレイゴトなしに率直に現状について述べているだけです。なので、あまり深刻に受け止めずに、「こういう風に考えている人もいるんだな」程度に思っていただけたら・・・と願う次第であります。

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白への憧れ?

ここまで言うと言い過ぎかも知れないけど、マイケル・ジャクソンが肌の色を変えたのは、一部の(多くの?)アフリカの人やアフリカ系の人々の心理を表している。白い肌は、それだけで権力だ。白い肌があれば、「語られる」存在ではなく「語る」立場になることができるのだ。別に、今日の二十一世紀の世の中では、(公式には)白い肌というだけの理由で権力を得られるわけでもなければ、他者を「語る」立場に常にいるワケではない。が、しかし、白い肌を持つことには確かにこんなイメージがどこかにある。ないと言ったら、それは単なるキレイゴトだと私は思う。

日本人にとっては、白い肌に対してここまでの強いイメージはないかも知れないけど(日本は植民地化されなかったしね)、この心理がなんとなく分かるっていう人は多いんじゃないかな?実際に、白人は誰でもカッコいい&美人だと思い込んでいる人や、白人に特別扱いをする人は日本にわんさかしてるよね。あとは、東南アジアとか南米系の人の話はまともに聞かないのに、白人の話はちゃんと聞く人とか。

自らのアフリカ人性や黒人性を否定したい気持ち。これは植民地主義が与えた打撃の中で最も深刻かつ大きなもので、今日のアフリカを見ると、政治から経済まで、援助活動から美意識まで、または理想の恋人像に至るまで、実にありとあらゆるところに影響を及ぼしている。

植民地主義は、資源を盗んだり人をさらったりしただけではない。ヨーロッパ人はアフリカの文化や歴史を否定し、誇りと自信を失わせ、キリスト教を広めて自分たちと同じ神を信仰させた。自らの価値観を押し付けることで、自分たちに順良に従う人間を作り出したのである。まぁ、これはアフリカだけに限った話じゃないけど、世界中どこを見渡しても、アフリカほど壊滅的な打撃を受けた場所はない。

植民地主義というのは、魂を奪い、殺し、その後の世代をも精神的に支配する。人々のメンタリティーを植民地化し、結局は自分たちのやりたいように、その国の人々を操り人形にしてしまう。計算高くて、何百年間も後まで影響を及ぼすという意味では、原爆や虐殺よりも残虐なんじゃないかな。

先ほど、「政治から経済まで、援助活動から美意識まで」と書いたが、実際に私がアフリカで気付いた「自らのアフリカ人性や黒人性を否定したい気持ち」や、精神的な植民地の傷跡を少しここで紹介したい。

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まずは政治と経済。今日のアフリカは、*ネオコロニアリズムに完全にやられている。特に旧仏領は、Françafriqueの呪縛から未だにとかれていない。Françafriqueというのは、France(フランス)とAfrique(アフリカ)を合わせた造語なんだけど、簡単に言えば「フランスに支配され続けるアフリカ」という意味だ。

*ネオコロニアリズム/新植民地主義;第二次世界大戦後、植民地体制を脱却した新興諸国を、再び諸大国が政治・経済的に支配・従属させようとする外交上の方策。広辞苑より引用。

植民地主義の中での植民地は、名実ともに支配を受けていた。しかし、ネオコロニアリズムは、表では旧植民地が独立を得たかのように装っておきながら、実際には旧宗主国やアメリカが全てを操っている。上手に隠されているから、余計にいやらしいし、ややこしいし、醜い。ネオコロニアリズムやFrançafriqueについては、もうちょっと時間のあるときに思ったことをつらつらと書きますね。

政治や経済がこんなんだから、当然人々の間には「アフリカ人=やっぱりいつまでたってもダメダメ」なFatalism(運命への服従)ムードが生まれてしまう。まぁ、何度も言うように、本当に立派だなと思わせるような人や志のある知識人なんかは、批判をしながらもあきらめないという姿勢を保っているよ。だから、社会全体がfatalismなワケではありません。

ちなみに、ネオコロニアリズムと、ネオコロニアリズムに起因する「いつまでたってもダメダメ」ムードは、現代のアフリカ各地で多くの人々が抱いているアフリカそのものを否定する心理やアフリカの外に出れば天国が待っているという考えに直結している。アフリカ脱出希望者のほとんどは、単純に金稼ぎのために外に出たいという人だ。しかし、「この社会にいる限り、この人々に囲まれている限り、自分はダメになってしまう」というような理由からアフリカ脱出を夢見ている人も少なからずいるんだな。すごく皮肉で悲しいことだよね。

でも、私には彼らの気持ちが痛いほど分かる。というのは、私自身、海外に眼を向けるようになったきっかけというのが、日本という国や日本社会、現代の日本人に対して、批判的でネガティブな気持ちしか抱けなくなったからだ。最初にそう思うようになったのは、確か小学校四、五年生ぐらいの頃だったかな。「日本は小さな国なのにごみを出しすぎていて、じきに埋立地がなくなってしまう!!」という話を社会の授業中に聞いたとき、「あぁ、やべーな日本。」と感じとったんだよね。そして、その頃から日本社会の問題点ばかりが目に付くようになってしまった。その結果として、思考が昔から単純な私は、「こんな国にいてもお先真っ暗だ・・・じゃぁ海外に脱出すればいいんだ!!」という結論に至ったのだ。

まぁ、様々な国で様々な体験を重ねたおかげで、今となっては日本万歳主義者になってしまいましたが(笑)。

話がそれました。すみません。