2010年12月24日金曜日

最近の私

みなさま、もうすっかりご無沙汰しております。

本当に、物を書くのはすきなのですが、なかなか書く気になれずに早5ヶ月!もう師走も末の末ですね。早い早い。

私は今、カナダに来ております。7月に卒論を仕上げ、卒論を書いている最中の午前3時にケータイを醤油の中に落とすという悲劇を乗り越えながらも、そこからは、こんな旅路を歩んでいました。



7月後半から8月前半;オーストラリア(高校生の英語研修の引率) 。高校時代に留学した、忘れられない第二の故郷オーストラリア。本当はボリビアに留学したかったなんてことはナイショですが、とにかくその第二の故郷に戻れましたよ6年ぶりに!!友達が数名、わざわざ飛行機で数時間かけて、私の働いていたシドニーに来てくれたのはうれしかったなぁ。

8月; ヒッチハイクで東京から徳島へフランス人やイタリア人と出かけ、野宿をしながら阿波踊りに参加し、お遍路さんをやっている最中に具合が悪くなる。生まれて初めての手術を経験し、入院し、同室だった徳島のおばあちゃんたちの孫的な存在になる(笑)。退院後、諸事情により徳島から栃木の実家までハローキティのスリッパで帰るものの、一週間しないで中国へ船で出かける。

9月;上海と貴州省で過ごす。上海で、中国語を操るコロンビア人の友達に再会し、また、前にも登場した、パリ在住のコートジボワール人のイザベラにも再会する。彼女はバカンスで中国に来てたんだよね。その後は、ミャオ族の村で農作業をしながら、普通じゃない経験が続く。6月に東京の私の家にとまりに来たメキシコ人のカウチサーファーたちとも村にて再会(笑)&一緒に農作業の日々。そして、しまいには大学の卒業式を逃す。(別に、式典なんてどうでもいいけど。でも、まだ卒業証書を大学にとりに行ってないな、そういえば・・・)

9月末から10月前半;北朝鮮旅行 (長年の夢をかなえました) !!!!!!!!間違いなく今まで出一番思い出に残る旅の一つ。

10月中旬から11月初旬;カナダ (中学生の英語研修の引率)

11月初旬から12月中旬;ヨーロッパ。別に遊ぶために行ったわけじゃないよ。特に旅行したかったわけでもないので。

12月中旬から12月末;カナダ。(高校生の英語研修の引率)

ちなみに2010年、1月から3月中旬まではコートジボワールにいたね。んで少しパリに行って、すぐにアメリカに仕事でいてきました。4月から7月までは大学を卒業するために東京にいたけれど、東京にいる間にもとんでもない非日常的な日常生活を送っていました(フェラーリのスーパー金持ちスイス人の案内したりね)。


あまりにも摩訶不思議な体験だらけ(特に北朝鮮旅行)だったので、ちゃんとそれも文章にして皆様に読んでいただけたら、と思います。でも、書く気になればいいんだけど(笑)。アフリカの話もまだまだたくさんたくさんたーーーーーーくさんあるのに書いてないしね。

次の人生のステップをどうするかで今ちょいと悩み中ですが、ちゃっちゃか決めたいです。とにかく色々プランは考えてるので。。。とにかくアフリカから離れすぎない道を選んで生きたいですね。

やっぱり私は、なんだかんだでアフリカにかなりかなり魅せられてるんだなと思う今日この頃。

アフリカのことを考えただけで、パッションがグツグツしてきちゃうの。うふふ。

と言うわけで。皆様もよいお年を!!


私の来年の目標は・・・なんて、ブログに書くと、ちゃんと気合が入りそうなので、あえて書きます(笑)

1.言語 (アラビア語とスワヒリ語を何とかしたい&ポルトガル語をペラペラに近い状態にしたい)

2.運転免許(はい、まだ持ってないんです。コートジボワールで教習所通ったのにね)

3.次のチャンスをつかめるように、世界のどこに落ち着くかは分からないけどとにかく一か所にとどまって、実社会でもっと学びたい(でも、ある程度のヒッピー精神は忘れずにね)

4.大学院にいつでもいけるように、DALFとGREの勉強ちゃんとする

5.ブログがんばる。書きたいストーリーをとにかく全部書く

6.素敵な人に出会い続ける(思えば、私は何に長けているわけでも特にはないけれど、人と出会うことに関しては天才ですと自分でも思います。周りの人みんなに感謝!!!)


がんばりまーーーーーす!!!!

2010年7月4日日曜日

マケレレ大学vsナツノの大バトル 第一ラウンド~科目登録編~③

日本では、オンラインで五分もあれば終了する科目登録。どうしてこれが、三か月の長期戦になってしまうのか―悲しすぎるわTIA。時間を返しやがれ、この野郎!!と罵倒したい気持ちになっても、ここではそんな言葉は何の意味も持たないのだ。「時間がもったいない」「効率よく」この言葉の本当の意味を理解しているウガンダ人は、全国民の二パーセントにも満たないと言い切っても過言ではないだろう。

科目登録の第一話第二話はこちらでチェケラ♪今回はその続き。

「とんでもないところに来ちゃった・・・」と、若干後悔をしながらももう後の祭り。アフリカ留学がしたくて、受験も乗り切ったのではないか、自分!!と、自分自身に気合を入れて、私とマケレレの闘いは続いていった。ここまで来てしまったからには、なにがなんでもきちんと登録を済ませ、単位をぶんどってやらないと日本には帰れない。

科目登録をするためだけが目的という、悲しいのかギャグなのかなんなのかがよく分からない状態の「マケレレvsナツノのバトル」の前半戦は、現地の事情に疎かった私には思わぬ苦戦に満ちたものであった。これが原因ですっかりアンチウガンダ主義者になってしまった私であるが、それでも「こんなバカな奴らに敗北なんて、大和撫子として受け入れられないわ!!」をスローガンになんとか生きていた。留学生の面倒を見なければならないはずのマーサは、「科目登録のためにやること&会う人&行くべきオフィスリスト」なるものを突き付けただけでその後は見放すし(まぁ、このリストをくれただけでも、ウガンダ人的には百点満点以上の◎だけどね)、どんなにこちらがSOSを求めても、泣きそうな顔で懇願しても、「あなたのことはいつでも助けるわ」の空しい一言を繰り返すだけで何もせず。

ってか、ウガンダで権力者なしで物事を進めるのが無理なことぐらい、あなたもわかってるんでしょうが。だったらリアルに助けてよ。私にはあなたの権力と地位が必要なの!!!!!登録させて!!!!!そもそも、なんでノルウェー人軍団には科目登録の担当者がついてるのに私にはなにもないのよ(怒)

なーんてことは言いませんでしたが。口に出したら即アウトだから言えないよね。マーサまで敵に回したら、もうマケレレでの生活は完全にアウトだから。

彼女は相変わらず、自分の部屋で呑気に、油でギトギトの東アフリカ版チャパティーをお供に、紅茶をダラダラと飲むだけの毎日であった。ちなみに、東アフリカのチャパティーと本場インドのチャパティーは、もはや別の食べ物です。あれを未だに「チャパティー」と呼んでいる時点で、東アフリカ人はインド人に土下座するべきだと私は個人的には思います。

ところが、ウガンダ到着から約二カ月がたった十月中旬のある日、それまで私を奮い立たせてきたモチベーションのようなものが突然プツッと切れてしまった。この頃までにはすでに、「留学生の君でも、授業料を納めないと科目登録できないよーん」などという無責任&適当発言をし、人のことを困らせたがっていた役人とのバトルは収拾がつきつつあった。しかし、科目登録の完了を待たずに、その五週間も前からすでに毎週毎回真面目に授業に出席していたいくつかの授業について、イチャモンが再びつけられたのである。

まったく。今思い出してもウザいの一言だわ。

既述したが、最初にもらった大学の規則書には、次の内容が明記されている。

「学生は、二つの学部(Faculty)に限ってのみ、授業を自由にとることができる。しかし、自分の所属学部以外の学部からは二授業を限度とし、また、自分の所属学部の必修科目はとらなければいけない。(中略)しかし、交換留学生にはこの『必修科目』のルールは当てはまらない。」

私は社会科学部(Faculty of Social Sciences)に属していたのだが、このルールにのっとって考えると、もう一つ別の学部(Faculty)から、二つも授業を選べることになるよね。色々調べてみると、人文科学部(Faculty of Arts)には様々な学科(Department)があり、中にはダンスや語学も学べるところがあるというではないか。

よって私は、アフリカ伝統舞踊とスワヒリ語の授業を、人文科学部傘下の言語学科と表現芸術学科から取ることにした。マーサに何度も聞いたところ、「これは大学のルールに反していないわ」の太鼓判を押されたからだ。あの時のマーサは、珍しく、確信したような表情をしていたため、これは信用してもいいのかな・・・と思わせてくれた。

ところがどっこい。

科目登録もクライマックスを迎えた十月中旬に事件は起きた。

「あとはダンスと言語の科目を登録すれば完全に科目登録は終了→ついに夢にまで見た学生証が発行される→図書館がようやく使えるようになる」というとき、いつものように私は、人文科学部のお偉いさん数名のサインをもらうために必死になってキャンパス中を走り回っていた。一人のお偉いさんのサインをゲットするために、最低三日は見ておいたほうがいい(つかまえるのが大変&説明してもサインにまでこぎつけるのに一苦労だからだよ)。しかしこの頃にもなると、それにもすっかり慣れてしまっていたから、人間の適応能力というのは恐ろしいものである。

マケレレのキャンパスには、田中真紀子さんの真似をして、私が密かに「伏魔殿」と呼んでいた大学の事務機関が集まった建物がある。忘れもしない、その建物の四階に、広々とした豪華なオフィスをもったasshole(ケツの穴)野郎にサインを求めに行った私であった。ところがコイツ、二回もアポイントをすっぽかした揚句、三度目の正直で私にこんな残酷な言葉を放ちやがった。

「君のダンスの実技の授業だけどね、これは、実技だけだと単位にならないんだよ。ハッハッハ」

ハッハッハじゃねーよ、セボ!!!もう私、二カ月近くもこのダンスの実技の授業に出席し続けているんですけど。木曜日の午後は、三時間も汗だくになりながらアフリカンダンスを踊ってるんですけど。あまりにも授業が幼稚園のお遊戯会のような感じであったため、さすがのマケレレでもこんなので本当に単位になるものかと不安になって、何度も先生クラスメートに「これだけで本当に単位と成績が来るの?」と質問しまくったんですけど。みんながみんな、先生までもが「うーん、大丈夫じゃないかな」と言ってくれてたんですけど(←このあいまい表現の時点で、私の方が気付くべきでした)。

どうして今まで誰も教えてくれなかったの~~~マジでFだよFFFFF。

この瞬間を境に、今までの気合はどこへやら。私は、完全に科目登録に対する闘志を失ってしまった。

伏魔殿と表現芸術学科の建物は隣同士であったため、私はこのセボに、「頼みから一緒についてきて、事実関係を一緒に確認してください。私にはもうこんなことはできません、もう限界です。」と何度も懇願したが、「私はね、忙しいんだよ」と言いながら、彼はケーキを食べ続けていた。そんな彼の後ろには、Time is money(時は金なり)の標語カレンダーのようなものが掲げられていたから恨めしい。

時が金なら、マケレレはとんでもない泥棒野郎だ。損害賠償訴訟でも起こしてやりたいくらいだわ。

しまいに私は、自己統制力を完全に失ってしまい、気が付いたら力任せでこのデデデンと大きな図体をしたセボを引きづり出そうとしていた。「お願いします。百歩も歩かないで、芸術科の建物に入れるんですよ。お願いですから一緒に来て。あなたが一緒に来ないと、私ひとりでは権力が弱すぎて何もできないんです。」

結局このときは、怖い出で立ちの秘書のニャボにつまみ出されてしまった。悔しい、悔しすぎる。でももう本当に無理・・・単位をくれーーーーーー。

普通だったら、単位が少しくらい来なくても痛くもかゆくもないのだが、私には、どうしても単位を取らなければならない事情があった。私の日本の大学には、3年半で卒業できるというおいしすぎる制度があり、入学時からこれを狙っていた私は、いい成績をキープするために、そこそこ頑張っていたのだ。ここで単位を取らないと、早期卒業計画が狂ってしまう―そんな状態であったから、もう必死だった。今にして思うと、TIAな環境にいるくせに将来設計云々と言っていた自分がバカだったんだけどね。

また、語学の授業登録にも苦労していた。ここでもまた、私の登録を受け付けられないというフザけたことを言われていたのであった。それも、担当の先生に!!!

そんなこと言われても、私が最初からちゃんと授業に出ていたことを一番よく見ていたのは、ほかでもない、この先生のはずなんですけど。何が起きているんだマケレレ。人間不信に陥りそうになった。というか、当時の私は部分的に陥っていたと思う。

この先生からこの話を告げられた時、激情にかられた私は、彼のオフィスの机をバーンとたたき、「あなたたちはバカ?脳みそある?心がある?こんなんだから、アフリカはいつまでたってもダメダメなのよ!!!」とののしりの言葉を吐いてしまった。これは、完全に私に非があると今でも反省している。

年上の人、とくに、医者と先生を尊敬する社会において、このような態度に出たのは明らかに間違いであったし、感情をストレートに出して怒ることをなによりも忌み嫌うウガンダでは、これは文化的にアウトだった。そして何よりも、「アフリカはいつまでもダメダメ」の部分は本当に良くなかった。なんだいこの究極の上から目線。自分は今まで、このように考える人にだけはなりたくないとずっと思っていたはずなのに。自分の未熟さに恥ずかしさすら覚える。今後は、どんなにストレスが極限にまで達していようと、絶対に傷つくような発言や自己中心的な発言は絶対にしないと決めている。

このときは、先生もブチ切れた。当り前である。二人の警備員が呼ばれ、私は両腕をつかまれて、強制連行された。

先生と最悪の関係になってしまったときに助けてくれたのが、言語学科の学科長であった。彼は日本を非常に尊敬している人で、あんなに失礼な騒動を起こした私に、叱りもせずに「日本人は我々の親友だから」と、優しく接してくれた。この時点で涙ボロボロである。

彼はまず、このマケレレのカオスについて謝罪した後、マケレレで物事をうまく進ませるにはどうしたらいいのかについて、約一時間ほどのレクチャーをしてくれた。内容は、「我慢」「忍耐」「役人をヨイショする」などといったものであったが、このような権威のある人にハッキリと「暗黙の了解ルール」について言及され、逆にすっきりとした気分になった。同時に、ウガンダに来て初めて、ずっと抱えていたフラストレーションについて話し合える人に巡り合えたことが嬉しくて仕方なかった。また、こうしたイライラについて誰かと話をすることで、初めて、イライラの原因を解明する心の余裕が生まれた。先生と仲直りをする際にも、彼が間に入ってくれたおかげでスムーズなコミュニケーションをとることができた。

マケレレ砂漠のオアシス的存在のこの先生は、人間として素晴らしい方だ。この事件の後も、私は彼から多くを学んだ。

2010年7月3日土曜日

友達の個展のお知らせ (&どうでもいい話)

二年前に、私の家に一週間ほど泊まりに来たカウチサーファーであるスイス人写真アーティストのセドリックが、今、凱旋来日を果たし、青山で個展を開いています!!!

http://www.spiral.co.jp/e_schedule/index.html

私は昨日行ってきたけど、すごくよかったよ。なので、みなさんも是非、チェケラしてみてくださいな。

セドリック・・・当時のルーミーであるまゆみちゃん(現在、マレーシアにて日本語教師やってるよ)と一緒に、密かに「王子」と呼んでいたセドリック・・・。王子オーラは今でも健在です。あの絶妙な腰の低さがなんとも言えません。今日も、スーツでビシッときめているかのように見せておきながら、ばっちり靴は、ヨレヨレのスニーカーでした。それでも彼は王子オーラ120%です。

実は、去年の七月二日に女の子が生まれたんだって!!だから、彼の東京での初めての個展の記念すべき初日は、セドリックの赤ちゃんの一歳の誕生日でもあるんだね。おめでとう!!!一日早ければ、私の誕生日とかぶったのになぁ。。。残念。

今日は、彼の個展のオープニングリセプションパーティにも呼ばれたんだけど、食い意地の張った私とダヘ(腐れ縁の韓国人。ただいま凱旋来日中。)が、スパイラルのおしゃれなカフェのご飯にダッシュしたことは言うまでもありません。パーティで出遭ったとあるおじさんは、私の丸焦げの肌の色を見て「いつから○○大学(私の大学)は青空教室になったの?」と言いました(苦笑)。最近はかなりのインドア派なのにもかかわらず、黒さのレベルがますます上がっている私です。

リセプションパーティーといえば、忘れられない思い出が二つ。

高校生の頃に、なぜか英検主催のリセプションパーティー@ホテルオークラに招待された田舎者のナツノさんは、オークラのオの字も知らないままノコノコと上京し、とんでもないショックを受けました。たしか、着物でバッチリときめてきた招待客もいた中で、私はジーパンで出かけて行ったような・・・KYにもほどがあるよね。そして、そこで偶然立ち話をした英国紳士が、私が在籍している大学・学部の現学部長なのです。そのときまで、この大学は絶対に手の届かない存在だと思っていたため、彼に出会っていなければ、今の私はなかったといっても過言ではありません。英検ありがとう。なのでみなさんも、英検を受けるときは合格を狙うだけでなく、リセプションパーティーに招待されるように頑張ってください!!

もう一つは、大学入学してから一週間もしない四月頭のとある日のこと。もうあれから四年が経つなんて信じられませんが。なんかね、サウジアラビアの第61だか64だかの王子様(ひげの濃いおじちゃまでしたが。って、こんなこと書くと怒られちゃうね)が私の大学にやってきたの。んで、面白そうだったから講演会の申し込みをしたのです。ぶっちゃけ、講演の内容は全然覚えてないです。というか、通訳の選択ミスなのか何なのか知らないけど、アラビア語→日本語の同時通訳がパッパラパーで、アラビア語→英語の通訳も穴だらけだったから、講演からは何も得ませんでした。ただ印象に残っていたのは、よくテレビで見る「ザ・湾岸」的な服装のおっさんたち(赤い布を頭につけて白い服を着ている、あのスタイルです)が前二列を占領していたということ。栃木から来たばかりの十八歳には衝撃の光景でした。今じゃなんとも思わないけどね。

でも、どんでん返し(?)は最後の最後にやってきました。

「これから、王子主催のビュッフェパーティに、会場にいる皆さん全員をご招待します」

え、え、え~~~?さすがオイルマネー。やるなぁサウジ、太っ腹だわ・・・。

というわけで誘導されてみると、図書館の会議室が一流ホテルのパーティー会場に華麗に変身していましたよ。最初から知らせてくれていたら、タッパー持ってきたのに!!

これが、大学の図書館の会議室ですよ。石油すげー。




実は今度、今通っているアラビア語学校のイマーム(?)が、サウジからはるばる来日されるのです。この学校は、やはりサウジ系の学校。都内の一等地に立派な建物・・・なのに、授業料は実質タダという、まさに石油万歳!!な学校なのです。イマームの来日。これは大変なことになること間違いなし。リセプションの日の朝は、私は早くから料理の手伝いに行きますよん。結構楽しみ。

さてさて。昨晩の青山でのリセプションで大忙しだったセドリックもようやく落ち着いたところで、私たちは飲みに行くことにした。ところがどっこい、表参道の付近をうろちょろしていたら、なんと、セドリックのスイス人の友達に偶然遭遇したの!!!彼女はバカンスで日本に旅行に来ていたらしいんだけど、こんな偶然ってあるんだねぇ。しかも、五年ぶりの再会だそうで。なんで日本に、東京に、しかも同じ瞬間に表参道のところを歩いているの???といった感じだけど、カウチサーファーってこんな偶然がなぜかすごく多いんです。

前にも少し書いたと思うのですが、ベルギーからカウチサーファーが泊まりに来たときのこと。池袋の人ごみを避けるために、普段は歩かないような細い路地を歩いていた私たちでしたが、突然そのベルギー人の彼が雄たけびを上げだしました。何事かと思いきや、次の瞬間私が目にしたのは、道端にいたインド人のおっさんと彼が抱き合っているという???な光景でした。しばらく自体が飲み込めないでいたけど・・・。なんでも、ベルギー人カウチサーファーが五年前にインドを旅していたときに、たまたまこのインド人のおっさんと出逢って仲良くなって、二、三日一緒にいたんだって。でもそのあとに連絡が途絶えちゃったのね。ところが五年後、二人は東京の池袋のランダムな路地で再会した・・・・こんな展開です。すごすぎる。



最近だと、こんなことがありました。

*山手線でドアの近くに立っていたら、そのドアからフレンチのカウチサーファー友達が乗ってきた。

*人でごった返している渋谷駅でルームメイトのフランス人形ちゃんと待ち合わせをしていたんだけど、到着してみたら、カウチサーファー友達のオタクなスペイン人が彼女をナンパしてた。

*二年前に私の家でご飯会をしたんだけど、その時に来たメキシコ人の子とスウェーデン人の子が、先月ロンドンで偶然再会したらしい。

*同じく二年前には、ナイジェリアとドイツのカウチサーファーカップルがうちに来たんだけど、彼らは日本の次にオーストラリアに行ったの。それとは別で、今年の五月にはポルトガル&中国のカウチサーファー夫婦が泊まりに来たの。このポルトガル&中国の夫婦がオーストラリアに行った時の写真を私に見せてくれたんだけど、そこにはなんと、二年前のドイツ&ナイジェリアのカップルが写っていて・・・。なんでも、偶然どこかのホステルで一緒になって、そのまま意気投合したから一緒に車を借りて旅したんだって。すごい確率!!

*私が南アで出会ったアメリカ人のカウチサーファーと、同じくケニアで出会ったエチオピア人のカウチサーファーが、先日グアテマラで出会ったらしい。これもまたすごい確率!!

カウチサーファーと日常を共に過ごしていると、毎日が非日常的になります。でも、その非日常がいつの間にか日常になってしまっているから素敵です。

いつものことだけど、セドリックの個展の宣伝をしようと思ったのに、ずいぶん関係のないところまで話が飛びまして。申し訳ありません。

というわけで、結論は・・・みなさん、個展に行ってね!!ということでした。

2010年7月1日木曜日

マケレレ大学vsナツノの大バトル 第一ラウンド~科目登録編~②

ようやく時間割表をゲットした新米日本人留学生のナツノさんを次に待ち構えていたのは、フカフカの椅子に座り、できない秘書を何人も使い、無駄に仕事を複雑化し、自分の地位をただ単に見せつけたいだけの、どうしようもない時間泥棒たちであった。これね、本当に、彼らを殴らなかった私は偉かったと思うよ(笑)。

時間割をもとにして、どの科目を登録するのかをついに決めることができた。授業以外の時間も有効活用したかったため、留学生活全体のイメージを湧かせることができて少しホッとした。受講する授業を決めたからには、すぐに登録しなくてちゃ!!

留学生担当のマーサには、科目登録に必要な書類一式をもらった。どこの部屋で働いている○○さんに会って、△△の手続きをして、それから●●さんに会って、▲▲をして・・・という膨大な情報のリストも一緒に。この時私は察した。ウガンダ人の名前を覚えるのは、不可能に近いのだということを・・・。ンゴニャベさんだのモゴドンバさんだの、日本人の名前すら覚えられないような私には、ウガンダ人の名前は難しすぎる。

さてさて、マケレレ大学の規則集なる本に明記されていた、「交換留学生は、二つのDepartmentにまたがる授業を自由に取ることができる」という情報をすっかり信用し、意気揚揚であった私だが、ここでもう一つ、TIAのワナで知らなかったことがあった。

それは、書かれたルールはあくまでも飾りであり、実際には力がほとんどないということであった。言い方を変えれば、実際に現場で働いている権力者の性格と気分、それから、その権力者と自分との相性によって、全てが変わってしまうのがTIA流なのである。この暗黙の掟を理解するために、頭の固かった私は半年以上も費やすことになる。毎回毎回イライラし、ヒステリーを起こし、「こんなクソみたいなところ、出てってやる!!」と反抗期の中学生のような状態になり、何度か本当に泣いてしまい、打ちのめされて(大袈裟じゃないよ。本当に打ちのめされたんだよ。)、ようやくこの鉄則を学んだ。

そもそも論として、大学の役人たちが大学の組織構造を正しく理解していないのである。というか、大学の規則に対する理解でさえ個人の裁量に任せるところの大きな「ザ・無法地帯」マケレレ大学では、正しい情報もへったくれもない。だから、たとえそれが公式には「間違っている」情報やルールだとしても、それが大多数の役人に同じような解釈と理解が得られていれば、つまり、少なくとも「暗黙の掟」なるものがまとまってくれていてば、まだ助かるのだが・・・。

困ったことに、それぞれの役人が、自分に都合のいいようにルールを解釈してしまっているせいで、全体が大混乱に陥っているのである。もう誰の手にも負えない状態というのは、まさにあの状態のことを言うのだろう。ただでさえこんがらがっているところに、ウガンダの社会に関する知識もバックグラウンドもないような外国人が入っていくのは、結構しんどい。正しい情報なるものが存在しない上に、十人にアドバイスを求めれば、十通りの答えが返ってくるからだ。しかもしかも、アドバイスを手に入れるためにもTIAな時間感覚だから、とんでもない時間が必要となってくる。効率性などという言葉は彼らの辞書には存在しないため、とにかく忍耐あるのみだ。

いざ科目登録を始めようと思ったときに、会う役人会う役人が、それぞれ違った「Faculty」と「Department」の理解をしていることに私は気づいた。Facultyの傘下にDepartmentがあると言い張る人もいれば、その逆であると思い込んでいる人もいる。そこにさらにInstituteなるものまで存在するから、余計に話はややこしくなる。マケレレ大学規則集には、Departmentの下にFacultyとInstituteがあるって書いてあるんだけどね。

アドミッション・オフィス、アカデミック・オフィス、登録課、学生課・・・これらの「オフィス」と称する場所には、たいてい意地悪で太ったおじさんかおばさんが1人と、彼らの秘書が二、三人いる。学部・学科レベルでもそう。学部長、学科長、学部コーディネーター、学科コーディネーター。それぞれが、キャンパス中に分散されたオフィスでそれぞれ気ままに仕事をしている。理論上は内線電話やインターネットで彼らはつながっているのだが、そんなの機能しているワケがない。実際に、私がマケレレにいる間には、誰かが電話代のためにあった予算を着服してしまったために料金が払えなくて、二ヶ月間、内戦を含む電話とインターネットがキャンパスから消えてしまったから・・・TIAだ、やっぱり。

 科目登録の際に私が一番苦労したのは、授業料に関することと、留学生の科目登録に関することであった。

本来なら、私が日本で在学している大学とマケレレ大学との間には契約書が交わされており、交換留学生はマケレレでの授業料を払わなくてもいいことになっている。しかし、私がこの交換留学プログラムの第一号(別称:「お試し」または「餌食」)であったがために、降りかかってきた災難は尋常ではなかった。契約を交わした張本人であるマーサは、きっぱりと「あなたは授業料を払う必要はないわ」と初めから言ってくれていたが、この交換プログラムについて知っているのが彼女だけという状態であったために、会う役人会う役人には「授業料を払ったという証明書がない限り、君は授業の登録をすることはできないよ」と言われ続けた。「でも、私の場合は払わなくてもいいんですよ」と言っても、馬の耳に念仏(ウガンダ人の耳に正論?笑)で、まともに立ち会ってもらえない。間違っているのが彼らであることを示す必要があるのだが、プライドの高いTIAな役人相手にそれはなかなか簡単なことではない。まぁ、彼らにとっては自分たちが常に正しいわけだから、仕方がないことと言ってしまえばそこまでなのだが。

授業登録に関してもそうである。そもそも、正規のマケレレの学生と留学生の間には、授業登録に関して違ったルールが適用されるということ自体、役人の間では全く知られていなかった。だから、どんなにマーサに「大丈夫よ」と太鼓判を押されても、手続きはかなり難航した。みんながみんな、「そんなルールは存在しない」と言うわけだからね。しまいには、本当のことを言っているのがマーサなのか奴らなのかが本当に分からなくなる。ここで重要なこととは「本当のこと」ではないことも学んだ。重要なのは、「誰が話しているルールが、実際に機能しているルールなのか」というところであるからだ。

この無知でアホな役人どもを相手に、これまたおバカだった当初の私は、真面目に取り合ってしまった。彼らのプライドを傷つけないようにヨイショの一つや二つでもしてあげればよかったのに、そんな悔しい真似は死んでもしたくなかった。だから、真正面から正論を振りかざし、その度に失敗した。悔しかったよ。「日本や欧米のように、社会がルールに従って成り立っているのって、実は本当は奇跡に近いくらいすごいことなんだな」と、マケレレに到着して数週間で気が付いた。

マケレレでさらに厄介なことには、オフィスで仕事をする人の大多数が、柔軟性と責任感に欠けていることである。私は科目登録中、数え切れないほどの『オフィスたらい回しの旅』に出かけ、様々な人に出会ったが、使える人はほんの一握りだった。そんなこと言うと生意気と思われるかもしれないけど、事実なのだから仕方がない。

臨機応変という言葉は、ウガンダには存在しない。理由は簡単だ。頭を使って考えながら働いている人がほぼ皆無で、マニュアルに書かれていないケースが勃発すると、みんなお手上げ状態になってしまうから。また、本当は解決策を知っているのに、単純に面倒くさいから誰も何もやろうとしない。ルールを都合のいいように利用している面々も、もしも自分の勝手な判断のせいで何かあったときにはいつでも責任転嫁ができるように、たいていは他人任せにしてしまう。要は、みんな結局、組織という大きな存在を前にすると、普段はやりたい放題やっている、自分の勝手なるルールに自信が持てなくなるんだよね。よって、何かあるとすぐに「その件なら、まずは○○さんに許可をとってからにして」「それは、私の管轄下じゃないから」「○○さんのサインはもらったのかい?」とふっかけてきて、オフィスのたらいまわしが始まる。

責任追及を免れたいあたりが日本のことなかれ主義と似ているけど、日本人はまだ、相手に思いやりを持って接することができるからいい。マケレレの人を前にすると、本当に、お腹の底で激辛キムチ鍋をグツグツやっている気分になる。そして、いくら授業のためとはいえ、こんな馬鹿相手にいったい自分は何をしているのだろうかという虚無感に襲われる。今じゃ笑える話だけど、当時はすごく辛かった。助けてくれる人もいなかったし、このイライラを理解してくれる人もいなかったから、一人でどんどん底なし沼であがいている感覚(経験ないけど)になった。

オフィスのたらい回しなら日本にもあるけど、ウガンダのそれと比べたら、日本のそれを「たらい回し」と呼ぶのが申し訳なくなる。

まず、オフィスが見つからない。キャンパス内の移動も、タクシーやボダボダを利用する学生がいるくらい大きな大学構内。そこにオフィスが分散している。やっと教わった通りのお目当ての建物にたどり着いたと思ったら、「ここじゃないよ」とだけ言われて追い返される。誰も、どこに何があるのかを把握していないのだ。

しかも、お目当ての役人がいつでもオフィスにいるなどと思ってはいけない。そうやらアフリカでは(っていうか、日本でも同じか・・・)、彼らのような偉い人は無駄に多くの「会議」をするのがお好きらしく、なにかにつけてオフィスを留守にする。お茶や昼食のために、2時間消えてしまうことも珍しくない。日本なら、きちんと代わりの人が対応してくれるのだが、代わりの人が業務内容を理解していないのだから、本人がいない場合は出直すしかない。また、金曜日の午後はほとんど当てにならない。お昼を食べてからオフィスで少し仕事をしているフリをしたら、みんなさっさと仕事を切り上げて、みんなとっとと帰ってしまうからだ。アポイントメントという文化はそもそも存在しないので、トライするだけ無駄だ。すっぽかされても文句すら言えない。ここでは、アポイントを破る人ではなく、とろうとした人が馬鹿なのだから。

一番確実なのは、朝一で彼らに会いに行くことだ。しかし、出勤時刻も自分の気分次第で変えてしまう彼らである。一般のウガンダ社会では、八時か八時半には仕事を開始して、一時から二時までの間を昼休みとし、五時十分前になったらさっさと仕事をやめてダラダラとおしゃべりをし、そして帰宅するのが通常である。しかし、先述したように、個人単位のオフィスが広いキャンパスに分散しているマケレレ大学では、オフィサーが気分の赴くままにやりたい放題やっているため、それぞれのオフィスでは就業時間に関しては無法地帯となっている。惨事になったらもう帰宅してしまっているという役人もいる。

雨の日はたいてい十時近くにならないとやって来ないものだが、気まぐれな彼らがいつやってくるのかなど分かったものではないから、公式な出勤時間である八時半からずっと待ち構えていなければならない。普段はアフリカンタイムも計算に入れて約束の場所に行くことがとても大切だが、役人の場合、最初からアフリカンタイムを計算して遅く行ってはダメなのだ。例えば、いつも十時にならないとやってこないAさんのオフィスに十時ぴったりに到着したとしよう。すると、その人の秘書に「Aさんは会議に出発するために9時半にここを出たよ。ダメじゃない、ちゃんと時間通りに早く来ないと(←お前がそれを言える立場なのかと怒鳴りたくなるけどね)。明日の朝、もしかしたらAさんに会えるかもね。とにかく出直しなさい」と言われてしまうことがよくある。所詮そんな会議なんて、やるだけ無駄なのだろうけど・・・なーんて思ってても口に出したら即アウトなので、大人しく黙っているしかない。

Aさんが何時になったらオフィスに来るのかを秘書に聞いて、その時間に自分も戻ってくればいいじゃないか。ところが、秘書という仕事はただのパーソナルお茶出し係である場合が多いため、自分の上司の予定をなにも把握していないんだな。普通なら、秘書にことづけを頼めば万事は上手くいくはずであるし、それが秘書という職業のハズなんだけど。彼女たちはそんな面倒なことは断固拒否する。今思い出してもイライラするわ・・・あの愛想の悪くてレイジーで使えないビッチな秘書たち!!そして、不親切な態度でこう言うのがオチだ。「明日の朝戻ってきたら?そしたら多分会えるんじゃない?それか、別のオフィスに行ってよ。」

どんなに上の立場の人と直接会って話をつけても、その人の公式な署名入りの手紙がなければ、他のオフィスに行っても信用してもらえない。「君はそう言うけどねぇ、私は○○から直接それを聞いたわけではないから・・・手紙はあるのかい?」もうお分かりいただいてると思うが、この“手紙”を手に入れるのが一番面倒な過程なのである。そして、手紙の形式に少しでも間違いがあると、受け取ってすらもらえない。また、言われた通りの書類とサインを揃えて出陣しても、態度をコロコロと変えやがる奴らは言いたい放題だ。「○○が足りないよ。出直してきな。」あんたね、さっきあんたに言われた通りの書類を持ってきたでしょうが!!!

本当はそんな書類は必要ないのだが、ただ単に意地悪で言っているだけなのだ。または、面倒くさいことにはタッチしたくないため、頑張って引き受けないような手をあれこれ考えているとかね。

「お前は背中にバッテリーを何本隠し持ってるんだ?」と、よく日本にいた頃に冗談で友達に聞かれていたほどの私であったし、実際にバイタリティーはかなり高いほうだとは自負している。しかし、ウガンダでの最初の10週間は、日に日に心がやせ細っていくのが実感できた。体が細くなったわけではないのが残念だ。

マケレレ大学vsナツノの大バトル 第一ラウンド~科目登録編~①

科目登録がようやく終わったのが、留学開始から十二週目のことだ。期末試験の二週間前に科目登録が完了・・・って、オイオイ、なんだいそりゃ。しかし、時間と忍耐と膨大なエネルギーの末にようやく手に入れた学生証を手にしたときは、涙が出そうになった。

マケレレの管理のずさんさと組織構造の非効率性は、誰もが認識している。だけど、ここまでヒドイとはねぇ。初めてのアフリカ滞在十四ヶ月の間、何が一番つらかったかと聞かれたら、二回のマラリアでも意味のない勉強でも終わりのないバカな役人とのバトルでもなく、迷わず「マケレレのカオス」と答えるだろう。マケレレ大学の組織構造は、もうhopelessとしか言いようがないと留学中は思っていたものだ。今となっては、これがTIA組織構造だから仕方がないと諦められるんだけどね。いやいや、自分で言うのもなんだけど、私も成長したものだ。

そもそもの災難は、留学開始の約半年前の時点で既に始まっていた。留学手続きのために、大学の留学センターの担当者であるIさんから、至急日本の大学に願書を送るようにとのメールが春休み中に来たのだ。

そのとき私はちょうどフランスにいた。当時はカウチサーフィングなど知らなかったので、ネットを使うためにわざわざ高いお金を払ってインターネットカフェに来なければならなかった。しかも、1ユーロが約170円のご時世である。それでも、泣く泣く大金を払ってネットカフェに引きこもり、マケレレ大学に提出するための願書作成に勤しむことにした。夢だったアフリカ留学のためだから、この痛い出費は避けられない。

願書には、希望学部と希望科目を表記する欄が4つあったのだが、いきなりそんなものを選べといわれても困る。とりあえずマケレレ大学のウェブサイトを見てみたが、このホームページは内容がぐちゃぐちゃで整理などまったくといっていいほどされていなかった。授業情報にたどり着くために、どうしてウェブ上なのに、早速たらいまわしにされているんだか。しかも、最新更新歴が二年前だしねぇ、マケレレのサイト。二年前の講義情報から自分が取りたい授業を選びなさいとか、話にならない。今にして思うと、これはその後に次々と起こる嵐の前兆にすぎなかった・・・。

シラバスなんてものは存在しないため、とりあえず講義のタイトルだけで授業を選んで願書を完成させた。そして、まだ日本人の時間感覚の中で生きていた当時の私は、締め切りに間に合うようにしっかりと日本に郵送した。

後日、Iさんからまたメールがあった。「品川さん、先方の手違いで、この願書は間違いだったそうです。申し訳ありませんが、もう一度送っていただけないでしょうか。」

Iさんは謝ることないのにね。それにしてもマケレレさん、郵送費とネット代と大切な時間を返してください。日本の大学生はウガンダの学生よりもお金持ちかもしれないけど、それでも私はこのためにメチャメチャ頑張ってバイトしたんだからねーだ!!!

日本へ帰り、大学の新学期も始まり、留学を目前に控えて相変わらずドタバタする日々が続いていた。私の学部では全員留学が原則であるため、数ヵ月後の出発を控えた新学期にもなると、留学の話題でもちきりになる。ところがどっこい、周りの友達が次々に留学先からの書類を手にしていく中で、私にだけはいつまでたっても連絡が来ない。連絡が来ないどころか、交換留学の締結を結んでいるはずの私の日本の大学とマケレレとの間で、何のコミュニケーションもない状態であるというのだ。まぁね、焦っても仕方がないし。何よりも、留学先の大学と音信不通の状態になってしまうことの重大さに気付いていなかった私は、平和に慌ただしく毎日を過ごしていた。

二年前の情報によると、どうやらマケレレの授業開始は八月中旬であるらしかった。ところが、七月に入っても何の連絡もないではないか。タダでさえ心労が絶えないIさんは更にナーバスになり、会うたびに「マケレレにはメールを何度もしてるんですけれど・・・返事が・・・。電話もしているんですけどね。どうして出てくれないんだろう・・・」と、とりわけ変化のないTIAな状況を泣きそうな顔で報告してくれた。Iさんのせいじゃないのに、なんだかかわいそう。

しつこいくらいに書くが、当時の私はまだまだ日本の時間感覚の中で生きていた。つまり、「大学の授業開始日の数日前には、遅くとも現地に到着していなければならない」という「常識」が、私を支配し続けていたのである。(ちなみにその一ヶ月後には、この「常識」がTIAな世界では通用しないということに気付かされるのだが。)だが、肝心の授業開始日も分からなければ、入寮日などの情報もゼロである。どうしよう・・・早く飛行機をとらないと、大変なことになる。

日本からアフリカに行く場合、ヨーロッパ経由か中東経由が一般的なのだが、値段は中東周りの方が断然安い。というか、ヨーロッパ周りは、学生に手の届く値段ではないので最初から選択肢にはなかった。中東経由の航空会社のうち、カタール航空はウガンダには飛んでいないため、そうなると私が利用しなければならない航空会社は自動的にエミレーツになる。しかし、当時は日本からドバイまでは一日一便しか飛んでおらず、しかも八月のピーク時ともなると、席はすぐに埋まってしまう。ウガンダから入寮開始日などの情報が来たら予約をしようと考えていた私は、結局それを待たずに航空券を買うことに決めた。七月中旬のことだ。キャンセル待ちでようやく席を確保できたが、出発はその日から数えて二週間後になってしまった。学期末の試験や課題に追われ、東京のアパートの引き上げやら何やかんやで、渡航の準備をゆっくりとする時間もないまま、とうとう旅立ちの日はやってきてしまった。

ちなみに私は、アフリカに到着したその日のうちに、人生初の救急車を経験してしまうという伝説(?)を作ってしまっている。(詳しくはこちらを参照。)これは、調子に乗って飲んでしまった私にも非はあるが、マケレレがきちんと事前に情報をくれてさえいれば、もっと計画的に予防接種だってできたのに・・・と思ってしまう。

留学許可書をようやく手にしたのが出発の前日であったのだから、ドタバタもいいところである。まぁいい。とりあえず間に合った。Iさんも嬉しそう。これでようやく留学できる!!

ウガンダにはいつ到着すればいいのかが分からなかったため、マケレレから何かしらの連絡があるまでは、エチオピアで遊んでいることにした。結局エチオピアには二週間いたが、その間に入院したり、飛行機に置いていかれたりとTIAの洗礼を早くも浴びさせられたのであった。ようやくウガンダに到着したあとも、最初の数日間はこの有様だった。

これからいよいよ留学生活が始まる―そう思った瞬間、マケレレ側から、再びTIAな通告があった。「あなたが選んだ授業は今学期は開講されていないから、もう一度選んで登録しなおして。」くっそー。ネットカフェ代のユーロを返しやがれ。

「もう一度登録し直す。」これが、マケレレと私の戦闘開始の合図になるとは。

科目を登録するには、まずは大学の組織図を理解する必要がある。マケレレ大学のルールが書かれた本によると、交換留学生は、二つの違ったDepartmentから好きな授業を自由に選ぶことができると明記されている。マケレレには学部(Faculty)や付属研究機関(Institutes)が二十二も存在しており、それぞれが複数の学科(Department)から成り立っている。ここまでは日本とさほど変わらないし、私がしなければならないことは、二つのDepartmentから面白そうな授業を組み合わせることのみであるから、そこまで複雑ではないはずだった。

日本の大学では、時間割は新学期が始まる前に完成する。学生たちは長期休暇の間に授業登録を済ませ、学期の第一日目から、(授業に出席する人は)きちんと授業に出席する。ところがウガンダでは、時間割がいつまでたっても完成しない。時間割がなければ科目登録もできない。実際にこのときも、時間割を待っているだけで授業開始から三週間も経ってしまった。とはいっても、暦の上で授業開始の日から二週間の間というのは、実際には授業などない。先生も来なければ、学生もまだキャンパスに戻ってきていないからだ。学生の多くは、実家からキャンパスに戻ってくるのに必要なお金がなかなか集まらないがために、戻ってこられないという場合がほとんどだ。だから、物事が少しずつ正常な状態になり始めてから時間割が完成するまでに、一週間かかると考えるのが正解だ。

大学の機能が長期休暇中は完全に止まり、学期が始まっても、機能しているのは半分くらいという有様なのだから、仕方がないと言えば仕方がない。三週間の間、私は毎日のようにお目当ての二つのDepartmentにまたがる各Facultyの事務所に行っては、借金の取り立てならぬ時間割の取り立てに躍起になった。事務所といっても、アカデミックコーディネーターと呼ばれている、実際にはコーディネートも何もしていない人々の個人オフィスに毎日顔を出しているだけだったんだけどね。

あまりにも私がしつこいものだから、途中から「ああ、またこの子か」と言わんばかりの顔をされるようになってしまった。どうして彼女は、時間割ができていないくらいでこんなにヒステリーを起こしているのだろう。できていないものはできていないのに。あと一カ月も経てばどうせ完成するのに、何が一体問題だと言うのだろう。

私はというと、埒の明かない状態に対して毎日のようにがっかりし、とんでもない場所に来てしまったことを実感させられた。だがもう遅い。ウガンダに来てしまった以上、最後まで何が何でも残らなければならないのだから。

この時、肩書ばかりで実際には何もしていない留学課のマーサには、「科目登録が終わっていなくても、授業に行かなきゃダメよ」と言われ続けていた。何言ってるんだこのおばさん。授業に登録していないのに、どうやって出席しろという話なんだ。まだまだ固い私の頭の中では、「科目登録→授業開始」という絶対的な順番があり、登録を済ませていないのに、実際に単位を取るかどうかも分からないような授業にとりあえず出続けるというのは非常にナンセンスに思えた。

ウガンダの非効率さにイライラし始めたのはこの頃だ。あれから三年弱が経ち、大抵のことは「TIAだししょうがないよね~」と笑い飛ばせるようになった今の私でも、マケレレの組織の非効率さにはうんざりしてしまうだろう。ところが、当時の私の周りには、ウガンダでのサバイバル術を相談できる人もいなければ、私のイライラを理解してくれるような人や値観を共有できる人もいなかったために、あれよあれよの間にイライラが溜まってしまった。「郷に入れば郷に従え」の本当の意味を理解していなかったために、日本から持ってきた尺度をそのまま使っていたんだね。そりゃ、イライラも溜まるはずである。

これからアフリカ留学を考えている人へ私がアドバイスできることがあるとしたら、今までのすべてを忘れなさいということしか言えない。リアルな話、あの大陸ではジタバタもがいても溺れてしまうだけだ。疲れてしまうし、現地社会に対して極端に批判的になるし、物事は進まないし、いいことなど本当に何もない。それよりも、ここは思い切って今までの「常識」すべてを捨てて赤ちゃんのような状態になり、throw yourself in the environment(環境に身を投じる)しかないのだ。時間はかかっても、最終的に裏切られるようなどんでん返しが待ち構えていても、これらすべてがTIAな経験であり、留学で学ぶべき事柄なのだ。

私とマケレレのバトル・第一ラウンド~科目登録~は、まだまだ続く・・・・。

2010年6月26日土曜日

「サービスを送る」ビジネス②

このオンラインショップと同じ要領で、例えば教育費の納入も簡単に行うことができる。

ウガンダにいるときにこれは目の当たりにしたことなのだが、授業料を確実に払える生徒が少ないため、かなり多くの私立学校は頭を抱えている。とりあえず授業は受けさせるけれども、授業料が確実に支払われるのかどうかが分からない。もちろん子どもたちは勉強がしたいし、公立学校の質はあまりよくないため、親としては私立に行かせたい。特にウガンダでは、私は子どもを公立学校に行かせているという親に出会ったことがない。どんなに貧しい人も、授業料の未納・滞納など紆余曲折を経ながらも、どうにかして子どもを私立に行かせようとしている。公立学校なんて、質が悪すぎて行かせるだけ無駄だと諦められているからだ。

マケレレ大学でもそうだった。授業料を払える保証はどこにもないけれど、とりあえず授業は受けているというクラスメイトがどれだけいたことか!!お金がきちんと集まるのを待っていたら、いつまで経っても授業は受けられない。「授業料はまだ払ってないよ。でも、たぶん来週にはおじさんがお金を送ってくれることになっているから・・・大丈夫だと思う」だの「両親が、今一生懸命お金を探してくれている」だの、そんな人がかなり多かった。マケレレでは、期末試験の一週間前までに正式に科目登録を済ませれば、とりあえず成績はつけてもらえる。しかし、その科目登録をするためには、授業料の納入を済ませていないといけない。お金がないと、当然成績や単位は来ないわけだから、当然、学期の半ばも過ぎる頃には、呑気なウガンダ人も焦り始める。あんなクソ大学のインチキ学位だけど、苦学生にとっては汗と涙の結晶なのだ。

アフリカにいる親戚や家族の子どものために教育費を払っている海外在住のディアスポラはかなり多い。しかし、ここに来て、また同じ疑問が浮かび上がってくる。ディアスポラが「教育費」の名目で送っているお金は、本当に教育のために使われているのか?

そこでオンラインショップと同様、私たちの会社とパートナーになっている学校に対しては、ディアスポラがオンラインで直接学費を納入できるシステムが存在する。子どもたちにとっては、お金のことを心配せずに安心して学校に行くことができる。学校にとっては、決まった期間内に確実に授業料の徴収が可能になる。そして、アフリカの外にいるディアスポラにとっては、自分たちのお金が教育に姿を変えているという保証になり、安心して送金することができる。

*********************

また、似たような要領で医療サービスなんかも提供することができる。医療の場合はちょっと特別だ。

今アフリカでは、ITを使った遠隔医療が非常に注目されている。専門医のいない農村部でも、テクノロジーさえあれば、都市部や先進国にいる医師たちの診察が直接受けられるというわけだ。もちろん、遠隔医療を実現させるためには、停電のない安定した電気の供給や、それなりに接続のいいインターネットが不可欠なのだ。また、例えばスカイプでヨーロッパにいる専門医の診断が直接受けられたとしても、村に医療器具や設備などがないのでは意味がないため、そうした設備整備が早急な課題となってくる。

私が働いていた会社では、アフリカ各地の病院・診断所やヨーロッパにいる医師と提携してネットワークを構築し、アフリカにいるアフリカ人ディアスポラの家族が病気になった際にも、ヨーロッパにいる家族が治療に参加できるようなシステムを作っている。こうすることで、離れて暮らす家族が治療に立ち会えるようになるだけではなく、互いの健康状態についての理解も深まり、また、より透明でより分かりやすい医療行為をスポンサーであるアフリカ人ディアスポラに見せることができる。

ま多くのアフリカ諸国では、健康に対する知識と意識が未だに低いままである。病院とは病気になってから初めて行く場所であり、病気を予防しようだとか、普段から健康でいようだとかいう気持ちもなかなか生まれない。カロリーのことを「ビタミン」と呼び、油っこい食べ物こそが一番体にいいと思っている人たちだからねぇ。ケニアのラム島で居候させてもらった家のおばさんは、私のためにフライドポテトを買ってきて「たんとビタミンを取りなさい。体にいいのよ。」としきりに勧めてくれた。

しかし、この医療サービスを送るマイクロファイナンスを利用すれば、健康診断や人間ドッグのようなサービスをも、アフリカで暮らす人々に提供することができる。ヨーロッパに移住した人たちは、当然、病気の予防の大切さに気付いている。そこで、彼らがアフリカにいる家族に健康診断をプレゼントしてしまえば、どんなに面倒臭くても、その家族は健康診断を受けることになる。家族からの贈り物なのだから、心理的に健康診断を受けようとする気持ちが生まれるのは当然と言えば当然だ。

病気の予防がどれだけ重要なものかという説明をする際にも、同じことが言える。見ず知らずの人や外国人に言われるのよりも、自分の家族に言われた方が、説得力があるし聞く方も素直に聞いてくれる。何よりも、家族の言葉は心に響く。

****************************

今、アフリカはかなり面白くて、かつてないほどにダイナミックな時代を迎えている。脆弱な平和ではあるけれど、今まで内戦の舞台となってきた地域の多くが復興に向けて立ち上がろうとしている。それに伴い、アフリカ各国間の経済的な結びつきは強まる一方だ。経済的な結びつきが強まれば、当然モノやお金、人の移動も今まで以上に活発になる。(そんな時代だからこそHIV/エイズは本当に気をつけないといけないよね。)ビジネスマンはアフリカ中を飛び回り、勉強や仕事のために外国暮らしをする人や、アフリカ大陸内の出稼ぎ移民、また、アフリカ内の国際結婚カップルも、今後ますます増えるであろう。そうなると、今は先進国からアフリカへの一方的な流れが主流となっているディアスポラ関連サービスだが、これからはアフリカ大陸内でのやりとりの重要性が上がり、動きもますます活発になるはずだ。そういう意味では、非常にエキサイティングなことをしている会社で働いていたなぁと未だに思う。

「アフリカにはモノやお金がないから」と初めからステレオタイプで決め付けるのではなく、「モノやお金の流れが滞っていて、上手くまわり切れていないのはどうしてなのか」というところに着目する必要があるかもね。楽観的すぎるかもしれないけれど、私は、アフリカは自分たちの力でやっていく実力があると心の底から思っている。実際、IMFの統計によると、(サハラ以南のアフリカに関しては)外国からの援助資金より、アフリカの外にいるアフリカ人ディアスポラから公式ルートを通して流れてくるお金のほうが大きな額であることが分かる。

私の好きな言葉の中に、the way you see the problem is the problem(問題の見方自体が問題なのである)というものがある。アフリカを見ていると、まさにそうだなと実感せずにはいられない。国際社会(&時々アフリカ自身)の、アフリカという場所そのものへの眼差し自体がどれだけ大きな問題になっていることか。(このように言っている私自身の問題意識そのものが問題だったりもするわけだから、マトリョーシカ人形みたいなものなんだけどね。)「アフリカ=忘れ去られた大陸」でも、「アフリカ=援助の対象(objet)」でも「アフリカ=さまざまな知識を教えてあげなくてはならない相手」でもないのだ。要は、ここにだって社会があって人がいて日常生活というものが存在しているのだ。だから、何でも外から持ってきてしまうのではなく、どっぷりとじっくりと現地の生活に触れながら、社会の中の元気な部分とそうでない部分の間の流れを食い止めている原因について思いを馳せた方がよほど(本人のためにもアフリカのためにも)役に立つのではないだろうか。実際に日本のような国でも、いいビジネスや政策というのは、いつもこうした着眼点から始まっておるわけだしね。結局は、アフリカも日本も、根本では問題解決への道は同じなワケです。はい。

「サービスを送る」ビジネス①

ここ数年もてはやされているマイクロファイナンスが、マイクロクレジット(小額貸付)だけではないことは前に少し書いた。銀行などの既存の金融機関が、大多数の人のニーズに応えられないこと、、ディアスポラ(移民、出稼ぎ移民)からの送金が、いかにこの大陸において大きな存在であるのかということ、また、送金の思わぬ落とし穴についても、既に書いたとおりだ。

ディアスポラを通した社会貢献型のビジネスが注目されるようになってから久しいが、そんな中でも私の会社はユニークだ。ヨーロッパやアメリカにいるアフリカ系のディアスポラが、送金の代わりに、医療や教育などのサービスをアフリカに残る家族に提供できるようにしているからだ。送金で送られたお金を、もっと有効的に使ってもらいたい―そんなディアスポラのかねてからの願いを、カタチにしたのがこの会社である。(送金の落とし穴についてはこちらをどうぞ。)

例えば、私の会社では、ディアスピラやアフリカに住む人々を対象にしたオンラインショップを運営している。アフリカの内外で暮らすディアスポラがお金を払い、それをアフリカ各国にいる家族がすぐに受け取れるシステムだ。こうすることで、例えばフランスにいるAさんはアフリカにいるBさんの必要なものを直接買ってあげることができる。送金してしまうとお金の使用用途が不透明になってしまうから、Aさんにとってはこの方がありがたい。また、「○○を買いたいのにお金がない!!」「今月は給料が支払われなかった!!」「月末でお金が残っていない!!(お金は計画的に使いましょうという話だが、計画しようにも計画通りにはまずいかないのがTIA)」など、なにかとすったもんだすることの多いアフリカだ。そのため、Aさんがヨーロッパで直接支払いを行うことで、Bさんのためにより簡単でスムーズな買い物ができる。

オンラインショップでAさんが買う商品は、Bさんの暮らす国の地元の店舗や企業の商品・製品であるため、地元の経済のためにもプラスになる。つまり、それこそ本当に、Aさんはフランスにいながら、アフリカで買い物ができるサービスになっている。私の会社がそれぞれの地元店舗・企業と交渉を行うため、オンライン上では実際の店舗価格よりもやや低い値段で買い物をすることができる。これは、ディアスポラだけではなく、インターネットにアクセスできるアフリカの人にとっても嬉しい特典だね。みんな忙しいからなかなか買い物をする暇がないけれど、オンラインショップならいつでも買い物をし、家まで届けてもらうことが可能なだけでなく、実際のお店よりも安いわけだから。

地元の店舗・企業にしてみたら、地元の顧客層の増加はもちろん、海外にまで市場が広がるいいチャンスだ。アビジャンのようにだだっ広く、交通渋滞が激しく、そして市民が割とレイジーな街では、自分の生活圏内を越えた買い物をする人はそう多くはいない。(まぁ、どこで買い物してもお店や品質には特には差がないっていうのもあるんだけどね。)また、何かと情報が錯綜しているTIAなこの街において、注目のお店やレストラン、イベントなどの情報を集めた街情報誌があるハズもない(あるのは口コミと新聞広告ぐらい)。そのため、お店の立地を生活圏内としないアビジャン市民に新しい顧客になってもらうことは、それだけで地元の店舗や企業にとって大きな利益になる。ましてやそれが海外にまで広がるとなれば、決して悪い話ではないハズだ。

特に電化製品は、アフリカでは本当に高い。だから今は、フランスから誰かが来るたびに、あるいは誰かがフランスに行くたびに、持ち運びをしている人が非常に多い。このままだとアフリカの地元の商売も上がったりだし、空港の税関での汚職が終わることもない。そういう意味でも、このオンラインショップは決して悪いアイディアではないと思う。

アフリカの人がオンラインショップで買い物をする際には、現金払いでも、銀行口座のカードでもOK。特に今は、Africardというプリペイド式カードがVISAから出ていて、じわりじわりと浸透しているから、アフリカのビジネスも大きく変化してきている。Africardもマイクロファイナンスの一環と言えば一環だ。最初にお金を積み立てて、それをクレジットカードの代わりに使うことができるのだ。これなら、銀行口座をもてない人でも大丈夫だね。

このオンラインショップから、私はコートジボワールのビジネスや消費の傾向について、色々学んでいる。文化の違いっていうのはこんなところにも現れるのか!!と、いつも新しい発見があるよ。

例えば、クリスマスやラマダン明けのための玩具。福袋のように、「5000フランのパック」「20000フランのパック」といった形で売り出しているのだが、それぞれのパックの中には、3歳児用の玩具も、8歳くらいの女の子向けの玩具も、10歳くらいの男の子向けの玩具も、全部ごちゃ混ぜになっている。私は最初、この案には反対した。こんなに統一感のないものばかりがごちゃごちゃと入ったパックは、誰がターゲットで売り出すつもりなの?―これが明確でなかったからだ。値段をそろえれば、何でもかんでもパックにして売り出せばいいというものではないしね。

ところが、象牙人の私の同僚は、全員口をそろえてこう教えてくれた。ここの人はそもそも、みんな大家族だ。そのため玩具とは、一つが一人に与えられるのではなく、いとこやはとこ同士を含む大家族みんなで共用するものと考えられている。だから、一回の贈り物でなるべく多くの子どもたちを喜ばせられる方が、消費者のニーズに合っているのだ、と。

大家族なんだし、こんなの当たり前といえば当たり前の話だけど、これを聞いたときには目からウロコだったなぁ。

結局これは実現されなかったけれど、イスラム教の犠牲祭の前には、ヤギをオンラインショップで売ろう!!などという話も飛び出した。今はクリスマスに向けて、鶏やら大量の食べ物のパックを売り出している。パーティや親戚同士の集まりが大好きなアフリカの人にとって、これはどんなモノよりも最高のプレゼントだ。ディアスポラもそれを理解しているから、結構売れるんじゃないかな。

もちろん、コートジボワール(というか、一般的に途上国)ならではの難しさもかなりあるよ。

まず、信用の問題。例えば、十二月に売れた商品分のお金は、翌月である一月の決められた日に、私たちの会社から地元の店舗・企業に納入される。この後払い制度がなかなかやっかいで、信用を得るのが非常に難しい。ここでは、何でもその場で支払うのが当たり前だからね。そうでないと、逃げたり、しらばっくれて支払いを拒否する個人や業者が後を絶たない。基本的に、信用というものが社会の中に存在しない。だから携帯の通話料も、後払いではなくプリペイドなのだ。たとえ私たちの会社の本部がパリにあろうと、アフリカ各国で事業を展開していようと、アフリカサッカー界のスターが経営に関わっていようと、信用のない不安定な社会で信用を得るというのは、難しいことだ。本当に根気が必要だね。

コートジボワールでは、細かい書類を準備して会社の信用性を証明しようとするのよりも、メディアにさえ露出していれば、「お宅は信用できる会社ですね~」という感じになってしまうらしい。これ、ものすごくTIAで面白いなと思った。難しいこと言われてもよく分からないから、とにかく目立てばいいんです!!みたいなね。思えば、マケレレの学内選挙のときも、「演説や政策で勝負!!」というよりは、「お金とコーラをばら撒いて、あとはひたすら音楽をガンガンかけて踊りまくる選挙活動をすれば、勝てる」といった具合だったなぁ。

私たちの会社の本部がシャンゼリゼ通りにあるのも、そんなTIAの心理をよく理解してのことだ。パリにいた頃、私はどうして本部がこんなところにあるのかが理解できなかった。シャンゼリゼ一帯のあの辺は、かなり高いはずだ。それなのに・・・なぜ?私たちの会社はまだまだ小さいのだから、同じパリでももう少し安いところに本部を構えればいいのに。何もかもがよく分からないような環境にポーンと放り込まれていた(というか、自分でポーンと身投げしたと表現したほうが正しいね)私は、「身の丈にあっていないことを好むところがマジTIAだな、この会社は大丈夫なの?」とすら考えては一人でイライラしていた。

社長の思惑がようやく理解できたのは、コートジボワールに来てからだった。ここでは、私たちの会社のことを知らない人に対して説明をする際、必ず本部の住所を言っている。すごいよ。「パリ8区シャンゼリゼ」と言っただけで、水戸黄門の印籠のように、今まで面倒くさそうな態度を見せていた人々がハハァーとなるからね(笑)。パワポの会社プレゼンには、資本金やら従業員数などの必要不可欠な会社概要は登場しないくせに、二枚目には早速シャンゼリゼの文字が登場する。初めての相手に電話をするときの手短な自己紹介でさえも、「○○社の△△と申します。私たちの会社は#%*@で本部はパリのシャンゼリゼにあります。」というように、ここで本部の住所を言うのか!?というツッコミをせずにはいられない感じなのである。

「本部がシャンゼリゼにあるからなんなの」くらいの態度を、是非是非アビジャンの人々には見せてもらいたいんだけど・・・なんてたって見せつけ主義&見せつけられたらペコペコする主義が蔓延しているから、なかなかそうもいかない。

アラビア語の学習とTIA(This is Arabia/Africa)

もう既にご存知の方もいるかもしれないが、私は今アラビア語を勉強している。週に三回、二時間ずつのレッスンに通っているのだが、担任であるスーダン人の先生が・・・私は彼のことが好きで好きで仕方がない。本当に愛嬌のある人なの!!彼を見ていると、スーダンでの忘れられない日々がまるで昨日の出来事であるかのような錯覚に陥る。

まず、授業の進むスピードが遅いのなんの。あまり早すぎても問題だし、今はとても忙しいのでアラビア語の復習にばかり時間を割いているわけにもいかないから、私にとっては非常に好ましい。が、それにしても遅い。遅いというか、毎回一貫性のない授業でランダムに次々と違うことをするため、私たちのクラスのメンバーももうすっかり彼の調子に慣れてしまった。

学校が始まった四月の段階では、まだ日の入りの時間が早かったために、授業とお祈りの時間(イスラームでは、一日五回お祈りをする)がかぶらずに済んだ。お祈りをしてから授業に臨んでいたんだね。だが、最近ではだんだんと日照時間が長くなり、それに伴いお祈りの時間も遅くなってきているため、授業の途中で突然、彼は十分ほど消えてしまう。お祈りから帰ってきたと思ったら「これから十分間の休憩だ」と言い放ち、また消えてしまう彼。いいよね、こういうの。私たちも私たちで、みんなTIA(この場合、This is Arabiaになるのかしら)だからそんなの誰も気にしない。お祈りと休憩時間のほうが仕事よりもはるかに重要なのだから、仕方がない。この学校に行くためには地下鉄を利用しているが、私はどうも、あの地下鉄の中ですらみんながせわせわと忙しそうにしているあの雰囲気がダメなんだよね。だから、学校に到着して時間の流れがゆったりとしているのを感じると、とても心地よい気分になる。

あ、でも、ラマダンのときとかどうなっちゃうんだろう・・・。ラマダン中は、日の入りの時間帯になると道路という道路から車が消え、歩行人も消え、みんなイフタ(日の入りの後に最初に食べるご飯)以外のことなど考えられない状態になるのだが、きっとこの学校でも同じ現象が起きるであろうことは安易に予想がつく。まぁ、そうなったら一緒にご飯食べればいいだけの話なんだけどね(笑)。

またこの先生は、疲れているときとそうでないときのギャップが激しい。これが本当にTIA(この場合はThis is Africaのほう)だなと私の目には映る。

特に、金曜日の授業なんてもう意識が教室にないね、完全に(笑)。そもそもこの学校は、イスラームの休息日である金曜日を週末としないで、日本にあわせて土日を週末としているから、そこからして彼にとっては???に違いない。疲れているときは、適当に数字の勉強をして終りになっちゃったり、アラビア語圏内の国と首都、及び地理的位置について話して終わっちゃったりする。この前なんて、動詞の活用の説明をするために、なぜか染色体や遺伝子、細胞分裂の話をダラダラとして授業のほとんどの時間が終わっちゃったしね(笑)。こちらがツッコミを入れても、彼にとってはそんなことはお構いなし。のーんびりとした自分の世界にどっぷり浸かっているのだ。別に、自己中心的とかそういうんじゃなくて、本当に自分の世界の中でのんびりそているというか。全然悪い意味で、というわけではないよ。それにしても、あのときの先生の態度は、スーダンの入国管理のオフィサーを彷彿とさせた(笑)。


スーダンのイミグレにて。これをイス代わりに、仕事をしているかのように見せておいて

オフィサーたちは適当にダラダラと時間を潰しています。

まぁ、ラマダン中だったし、外は五十度だったし、仕方がないね。

イミグレ事務所の奥の方で「勤務中」の入国管理官。
お布団代わりに使っているのは、お祈りのときに使う神聖な敷物です(笑)。
まぁ、このダラダラ感が本当にスーダンだよね。ちなみに黄色の服の東洋人は、
旅の途中、面倒なので私の夫ということにしておいたヒロシ君です。
でも、エチオピア人やスーダン人にはヘロシと呼ばれていました。



思えばマケレレの先生もコートジボワールの同僚も、疲れているときはあからさまな態度を見せた。まだ私たちのスーダン人の先生は、疲れていることを理由に教室からいなくなっちゃったりすることなど絶対にありえないからいいんだけど。ウガンダの教授の中には、やたらめったら「村にいる親戚の葬式」を理由に夜の授業に来なかった人もいたし、コートジボワールの同僚たちは、「お腹がすいているから」「疲れたから」「気分が乗らないから」「眠いから」というものを、会議中止と早退の正当な理由として認識していた。そしてそれが本当に許されちゃうから(というか、許可せざるを得ないから)素敵である。コートジボワールの会社のお局的存在だったデニーズ(体も態度も声も大きい、典型的な象牙女性)なんて、上司がいちいち自分のオフィスに入ってこないことをいいことに、お昼ご飯を食べ終わったら毎日ゴザを敷いて昼寝してたしね。中からイスと机を押し当て積み重ね、外からは絶対にドアが開けられないような工夫も忘れていない。こういうところだけはしっかりしてるんだから。もうまったく。

あとはね、このアラビア語の先生は、絶対に細かい文法を教えようとはしない。質問をしても「これは後でまた習うから。インシャッラー(神がそうお望みであるのなら)」「今はこれを知っている必要はない」と言い、先生なのに(?)質問に答えてはくれないのである。最初はそんな彼の態度にイライラしたりもした。コートジボワール人やウガンダ人は一応、こういう状況では、完全とは言えなくてもそれなりの答えをくれたものだ。

しかし、だんだんと彼のスピードに巻き込まれていくにつれ、彼がどうしてこんなあいまいな態度をとるのかが理解できるようになった。彼の中には彼なりの物事の順番というものがあり、どんなに時間がかかっても、それを平和にこなしていくことが何よりも重要なのである。それを裏付けるように、彼はいつも「私は今はこれを教えない。なぜなら、あなたたちを混乱させたくないからだ。今はやらない。後でやるからいいのだ。」と言っている。決して悪気があるわけではなく、面倒くさがっているのではなく(もしかしたらそうなのかもしれないけど)、心の奥底から素直にそう信じているのがはっきりと分かるような声でこんなことを言われてしまうと、こちら側としても「ああ、そうなのか。じゃあその時に習えばいいか」という気持ちになってしまうから不思議だ。

言語を習得するために、膨大な時間がかかるのは仕方がないことだ。もちろん、その言語の難易度や本人の努力によっても、習得までに必要な時間の長さは大きく左右される。しかし、スワヒリ語のときも思ったのだが、その言語が話されている地域の人々の文化や価値観によっても大きく左右されるよね、きっと。アラビア語の教科書は間違いだらけだし、スワヒリ語に関しては、辞書でさえ穴だらけであった。辞書が間違っているなんて、もはや誰を信用していいのか分からないだろという話だが。

しかし、そんなことはどうでもいいことなのである。なぜなら、その言語を話している人たちにとってはそんなことは些細な問題であるからだ。それよりも、お昼寝をしたり、お茶を飲んだり、おしゃべりをしながらご飯を食べたりしている方がよっぽど大切なのだから、言語を学ぶ者もそれに倣わなければならないと私は思っている。こうした時間の流れの違いを学ぶのも、その土地の言語を学ぶ過程の一部だもんね。そうじゃないと、アフリカやアラブ諸国ではきっと生き残れないのではないだろうか。

はぁ、いつになったらアラビア語をマスターできる日がやって来るのかしら。別にアラビア語ができても今ドキみんな英語ができるのだから、労力と時間を考えると、そこまでメリットのある言語だともあまり思えないけど。それでも、なぜか心から離れてくれないアフリカという場所についてもっと深く知るためには、アラビア語は極めて重要な言語であるから仕方がない。やるしかない。あまり期待しすぎず、あまり絶望しすぎず。このように書くと、アフリカとの上手な付き合い方の心構えに似ているなと感じてしまうのは私だけであろうか。

しばらくは、アラビア語を諦めずにダラダラと続けていきます。インシャッラー。

2010年6月23日水曜日

汚職見聞録2

去年の十二月に一度書き始めた「汚職見聞録」。ごめんなさい、今さらですが、半年たった今、この情報を更新したいと思います。


* 役所*
出生証明書、パスポート取得、ID取得・・・などなど、もちろんbusinessをしないとどうにもならない書類の数々。それでも、この書類がないと、学校にも行けなければ仕事も見つけることができない。これをいいことに、役所勤めの公務員はものすごく稼いでいます。ちなみに、ワイロを払うことはなかったけど、参考までに私の涙ぐましいビザ物語を読んでみてください。TIA式お役所仕事はこのように進みます。

例えば、外国人。経済的に豊かなコートジボワールには、周辺の国々から、出稼ぎ労働者やビジネスマンが大量に流入しているの。法律上は、両親のどちらかがコートジボワール国籍であれば子どももコートジボワール国籍が取得できるし、1971年以前にコートジボワールで生まれた人は、全員コートジボワール国籍を取得できることになっている。これらの条件が当てはまらないとしても、コートジボワールで生まれた子どもには、象牙人の子どもと同じ権限(教育の権利、予防接種などの公衆衛生の権利、etc)が与えられることになっている。

うん、公式にはね。

ところがどっこい。On dit n’importe quoi et on fait n’importe quoi(ヤツラは言いたい放題のやりたい放題)なワケですよ。ほら、前にも書いたように、à Abidjan, on fait rien pour rien(アビジャンでは、誰もタダでは何もしちゃくれない)だからね。

だから「払え」ない人は、法律で与えられた権利すら得ることができない。そもそも、書類がないと、法律で与えられた権利の恩恵にあやかることなどできないからだ。

先日、両親ともにコートジボワール生まれのナイジェリア人で、自分もコートジボワールで生まれ育ったというタクシー運転手と話した。1971年以前にコートジボワール内で生まれた子どもには、コートジボワール国籍が自動的に与えられる法律が存在していた。彼曰く、彼自身は本来はその対象内であるのだか。書類上の彼の祖国であるナイジェリアは、コートジボワール以上に評判の悪い汚職大国だ。(しかし、汚職ランキングを見た限りだと、なぜかコートジボワールの方が下なんだよねぇ。どうして!?)だから、ナイジェリアのパスポートを取得したり、あれをしたり、これをしたり・・・がこりゃまた面倒いし、そのためにナイジェリアに行くのもいちいち時間とお金がかかってしまう。だからといってナイジェリア国籍のままだと色々生活に不便であるため、できればコートジボワール国籍を取得したいと言っていた。

しかし、法律上は可能であるはずのコートジボワール国籍取得も、実際には役所にいる役人がやりたい放題でなかなか進展しない。マケレレ大学でもそうだったんだけど、ここではルールなんてものは存在しなければ遵守もされておらず、全てはカネと権力とコネなのだ。

結局彼は、外国人滞在許可証を持ってはいても、ナイジェリアのパスポートは持っていないというヘンテコリンな状況に置かれている。何かあった時に、これだと不安だよね。

* 警察*

警察ネタに関しては、このブログでは書きすぎているくらい書いているから、もう今さら新しい情報を付け加える必要はないね(笑)。これからも、どんどん警察ネタには尽きないと思いますのでお付き合いください。

* 就職*

日本も今、就職氷河期だなんて言われているけれど、アフリカのそれに比べれば甘ちゃんだ。日本でも一部そうかもしれないけれど、TIA式シューカツには、ワイロと根回しが必要になってくる。こう書くと悪の権化のような印象を与えてしまうかもしれないが、実際の感覚としては、「おじさんの会社で働いている」とか「知り合いに頼みこんで、お店で働かせてもらっている」といった感じなんだけどね。あとは、いい成績や卒業認定を得るために学校や先生にも余分に「ギフト」を払うことに慣れてしまっている彼らにとっては、就職のときに積むお金など、もはや「ワイロ」という感覚ではないのかもしれないとすら、たまに感じてしまう。お中元やお歳暮みたいなものなのかしらねぇ。

こんなんだから、本当に実力のある人がなかなか登用されず、いつまで経ってもサービスの向上や業績の向上が望めないなどという企業や店舗が後を絶たない。

これに関係しているのかしていないのかは置いておいて、ウガンダに住んでいたときに忘れられない出来事があった。

マケレレの学生街であるワンダゲヤで、軽く晩御飯を食べようと思った時のことだった。そのお店には、とんでもないビッチ店員がいた。彼女、私が注文をしている時にケータイをいじり、注文したものとは別のものを持ってき、更にはお釣りをごまかそうとしたんだよ。ウガンダビッチに飽き飽きイライラな毎日を送っていた私は、もちろん彼女の態度にカチーンときたため、「何なの、客に対するその態度!!」と食ってかかった。すると彼女は、ハァーとわざと大きなため息をつきながらぶすくれ、こちらの神経を逆なでする行為に出た。こういう状況でぶすくれ&逆ギレをするのって、プライドだけは高いウガンダビッチがよくやる、お決まりパターンなんだよね。

あまりにもこの女がムカつくものだから、私は彼女の上司を呼んで苦情を言った。この上司である四十代くらいのセボ(男性)は、たかがハタチの留学生に、ひたすら平謝りをし、「彼女にも厳重に注意しておきますので・・・」の言葉を繰り返した。別に彼が悪いわけではないから、少し申し訳ないなとは思ったけど・・・でも、彼女がこのお店で働き続ける上で、こんなことを他のお客さんにもするのは、決して許されることではないからね。言いたいことをすべて言い切った私だが、セボの横で未だに知らんぷり&ぶすくれている彼女を見て、一気に怒りが再燃した。テメーにそもそもの原因があるんだろうが、BITCH !!!

そこで、その上司に向かって、私の目の前で彼女に厳重注意とやらをするように言った。こうなったら、栃木出身のハタチの女子大生も、道頓堀を闊歩している大阪のおばちゃんも、同じ人種である。クレーマーと化した私を前に、困った時のウガンダ人に特有の笑顔を浮かべ、オロオロするばかりのセボ。「あのー、そ、それだけはどうかご勘弁を。またあとで私からきちんと注意しておきますので・・・」「だから、後でやっても今やっても同じでしょう。どうせなら、私の目の前で注意してくださいよ」「えー、えー・・・・はぁ・・・」

と、途中まで話が進んだところで、このセボとビッチの力関係が私には分かったような気がした。このビッチは、上司であるセボよりも上の立場にある人とつながっているに違いない。それが援助交際相手のsugar dadyなのか、親戚なのか、パパの知り合いなのかまでは推測できないけど・・・。だから、現場で直接的には上司である彼も、彼女にはなにも言うことができないのだろう。

異常なほどに空しい感覚に襲われながら、この日は家路に就いた。


* イミグレ*

先ほど登場したナイジェリア人の運転手さんに聞いた面白い(?)話。そんなこんなでパスポートを持っていない彼は、ナイジェリアに帰る際にはこんなことをしているそうです。

もちろん飛行機は高くて乗れないし、お金があったところでパスポートがないからチケットの予約すら取れないよね。そこで、当然のことながら、里帰りの際には陸路で行くしかないのです。里帰りといっても、彼の場合故郷はコートジボワールなんだけどね。

陸路で行くには、ガーナ、トーゴ、ベナンを越えなければならないけれど、パスポートのない人が、「どこの国のどの国境の役人にいくらぐらい支払う必要があるのか」という闇相場がきちんと決まっているらしいよ。すごいね。一番安上がりなのは、トーゴなんだって。そして、一番お金がかかるのは、ガーナからトーゴに抜ける際の、ガーナ側のイミグレなんだって。こうして、要所要所でお金をばらまくことでパスポートがないことは黙殺され、何事もなかったかのように通してもらえるらしい。また、ガーナもトーゴもベナンも、コートジボワールの警察のように幹線道路に関所をもうけることがほとんどないため、違法入国者も安心して(?)bon voyageできるらしい。むしろ、こうしてお金をばらまいたほうが、パスポート取得にかかる費用よりも安上がりなんだってさ。



汚職なのか、「贈り物」なのか。これを見分けるのって、文化によって全然違ってきちゃうから、一口に「これは汚職だ11」と言い切れないところが非常に難しい。ただし、確かなことが二つある。

まず一つ目は、これがなくならない限り、アフリカからは「努力なんてしても無駄」なファタリズム的諦めモードが消えることはないだろうということだ。努力と勤勉を美徳とする日本人にとっては、この諦めモードの中で生活するのって、すごくストレスが溜まるんだよねぇ。

しかし、これと矛盾しているように見えるのが二つ目の点だ。それは、当初はあんなに汚職に対して過剰に反応していた私だが、TIAの波に飲み込まれるTIA生活が長期化するにつれ、だんだんとこの融通のきき易さに居心地の良さというか、便利さを感じるようになっていったことだ。今、日本のあまりにもきちんとしすぎた制度に戻って来られて安心する自分がいる半面、交渉の余地もなければ「ビジネス(=ワイロ額の値段交渉)」をふっかけることなどとんでもない!!という雰囲気に、「融通が利かないな」と不満に思う自分もいる。

そう、こんなこと書くと怒られてしまうかもしれないが、ワイロを欲しがっている相手との対峙こそが、アフリカ生活の醍醐味の一つであったりするんだよね。

2010年6月22日火曜日

TIA式運転免許取得大作戦!!

日本の運転免許の仮免の試験にすら受からなかったという、まさに人間失格の烙印を押されたも同然な私であったが・・・。(これには深いワケがあります。詳しくはこちら

なんとかしてリベンジを果たすべく、コートジボワールでの免許取得に踏み切ったのであった。理由はただ一つ。日本の免許取得は高すぎるから。コートジボワールでは、教習所の料金が平均で12万FCFA(約2万4000円)する。教習所に行かないと運転免許が取れない仕組みになっているから、これは必要経費として割り切るしかない。一人当たりのGNPを考えると、この値段は高すぎるとしか言いようがないけど、それでも都市部に暮らす中産階級のホワイトカラー層には、払えない額ではない。その人の役職や職業にもよるけれど、だいたい月収の2~4割くらいだもんね。

村から出てきたようなタクシーの運ちゃんなんかは、どこかのカカオのプランテーションや街中で、一年か二年くらい汗水たらしながら働き、ためたお金で運転免許を取得して、次のキャリアにつなげていく。一方で、アフリカにいる外国人はよく、運転免許を「取得する」ではなく「買う」という言い方をする。まあ、お金ですべてが買える場所だもんね・・・。分かりやすいと言えば分りやすい。ちなみに、「追加料金」を支払うことで、学校に通うことなく免許証がもらえてしまったりする。忙しい人向け(?)の、闇商法だ。

こんなんだから、人によって運転免許の意味合いが全然違う。

さてさて、私はというと、目的はただ一つ。コートジボワールの免許証を、日本の免許証に書き換えることであった。しかし、日本では本当の道路すら運転経験のないこの私が、アビジャンの無法地帯と化しているような道路で少し練習をしただけで、交通ルールの厳しい日本という国の免許書き換えの実技試験に合格するとは到底思えなかったため(さすがのTIA的お気楽楽観主義者の私でさえ、これは無理だと直感した)、まずはコートジボワールの免許を国際免許に書き換えて、少し日本の道を運転してから書き換え試験に臨もうと考えた。

完璧な作戦。今回こそは、日本で絶対に免許を取ってやる。

ところが、仕事が忙しかったのと、私のTIA的「『明日こそは教習所の申し込みをしよう』『ああ、今日こそ行くぞ』『まあ、来週でもいいか』シンドローム」のせいで、あれよあれよの間に時間が経ってしまった。その間なんと二ヶ月半。どんだけTIAなんだか、まったく。自分でも呆れてしまう。

アビジャン生活も二ヶ月半が経った頃、当初の予定では二ヶ月間であった私のアビジャン滞在が、どうやら半年以上に延長されるかも知れないことが判明した。会社そのものがTIAだったから、いつもそれもかなり直前(というか、むしろ時間切れ後)に、あいまいでいい加減な方向性が明らかになるのであった。まぁそれはいいとして。そこで、いよいよ私の免許取得が現実味を増してきた。コートジボワールにこれからまだしばらくいるのなら、この際に本当に免許を取ってしまおう!!

ところが、日本の道路交通法について調べていくうちに、喜びは消えて私の心は打ちのめされてしまった。どうやら、日本で外国免許を書き換えるためには、免許取得日から数えて三ヶ月間、その国に滞在しないといけないらしいのだ。同僚には、免許を取得するには最低でも一カ月から一ヶ月半はかかると見たほうがいいと言われていたため、単純計算してももはや手遅れということになる。

一週間ほど、免許のことは忘れようと自分に言い聞かせる日々が続いた。こんなにオイシイ話があるわけないじゃないか、自分。目を覚まして現実的になりなさい!ところが、ある夜それをポロっとシャカに話したら、こんな答えが返ってきた。

「お前は本当にアホだな。アビジャンでは、金さえあればすべてが可能なこと、もう忘れちまったのかよ?」

はいーーーーー、その通りです。すっかり忘れていました。

シャカ曰く、コートジボワールの運転免許は手書きだから、お金を少し積めば、日付の偽装など簡単にできてしまうというのだ。手書きの運転免許証・・・でも、確かに。ウガンダの学生ビザは、パスポートのページに直接ボールペンで日付を書きなぐっただけのものであったから、別に今さら運転免許証が手書きだろうと何だろうと、私は驚いてはいけないのだ。日付の変更は、1500FCFA(約300円)もあれば足りるであろうとのことだった。安っ!!これで、十一月ではなくて九月くらいに免許を取ったことにしてもらっちゃえば、日本でも問題なく書き換えの申請ができる!!完璧なプラン。

更に、教習所は常に込み合っているらしい(というか、練習用の車の数が足りないだけ)のだが、更に「志」を渡すことで、二週間ほどで免許証が届いてしまうらしい。金さえあればなんでもできるって、こういうことなんですね。ようやく、免許証を「買う」ことの意味を実感する私であった。

教習所に電話をしてみると、わざわざ校長先生の息子さんが、私の職場まで説明をしに来てくれた。日付の改ざん作戦について彼に念を押して質問をしたところ、「問題ない」との返事が返ってきたので安心した。本来なら、アフリカの人の「問題ない」ほど怪しい言葉はないのだが、私はすっかり安心しきってしまった。これが、のちに大きなドッキリにつながるのだが。

とりあえず学科の授業を受ける。毎日一時間ずつのコースを一週間ほどだ。教室には、オシャレスーツを毎日着ている常にノリノリな先生(イメージとしては、『ミラノmeetsアフリカ』な雰囲気。意味わかるかな?)と、反応が遅そうな五十代くらいのおっさんと、あとは日替わりでおばさんや若造がちょこちょこしていた。それから私。奇妙な組み合わせである。


クラスメイトだったおっさん。Bon courage(がんばって)!!

ミラノmeetsアフリカな先生。どう?この白いパンツといい、オシャレめがねといい・・・。


学科の授業が始まった途端、私はマケレレへ戻ってきた感覚に襲われた。授業というか、このような空間では、アフリカはどこでも詰め込み式の聞き写し教育しかないのではないかと思わされる瞬間だった。とにかく、先生が言う道路標識や交通ルールの定義を、書き写し、一文一句逃さぬように頭に叩き込むしかないのだ。

先生は、書き写したポイントの内容に関する愉快な質問(?)を私たちにしてきた。これは、実際に試験にも出るような問題らしいんだけど・・・ここでは、そのいくつかを厳選してご紹介したいと思います。

Q1:追越には何段階あるでしょうか?

A:三段階。それは、追い越し前・追い越し途中・追い越し語のことである。

Q2:アビジャンからアクラ(ガーナの首都)まで車で行く際に、何種類の曲がり角があるでしょうか?

A:二種類。右折と左折。

Q3:事故の周囲には三種類あります。車が壊れるタイプの事故、人が怪我をするタイプの事故、それから、死亡事故のことです。この中で一番マシなのはどの事故でしょうか。

A:どれもマシではない。

Q4:la carte grise (直訳すると、灰色カード。車の保険の証明書のことである)は、何色でしょうか。

A:灰色。

ちなみに、このQ4に関しては、例の反応が遅そうなおっさんが何度も間違えてた。「赤?」ブー。「青?」ブー。「黒?」ブー。「白?」ブー。「・・・・・うーん、えーっと、えーっと・・・」だって。かわいいね。

フランスの何もかもをコピーしてきたコートジボワールでは、交通ルールから道路標識まで、すべてがフランスと全く同じだ。だから、「降雪時のチェーン装着義務」の標識がきちんとあるらしいことを、学科の先生から聞いた。灼熱低地のこの国で、どこに雪が降るのかという話だ。先生は、「ホラ、我々は、いつ何時も準備を怠ってはいけないから・・・」と言っていたけど。まぁね、備えあれば憂いなしだけど、「雪って何?」と聞いてくる人に対してこういうことを理論で教え込もうとしてしまうのがさすがTIAだなと思った。

「降雪時のチェーン装着義務」の道路標識。


ちなみに、この学校には一度、日本大使館の領事さんであった吉本系外交官のKさんもいらっしゃったことがある。教習所に通っている旨を伝えると、興味を持っていただいたため、連れてきたのだ。こんなコアなことに対して「おもろいなー、ええやんなー」と言うのは、趣味がぬか付けであり、日本からわざわざコートジボワールまでぬかを送ってもらっているというKさんならではだと思っている。外務省は、もっとこういう人材を登用するべきだよね。

さてさて、肝心の免許取得であるが・・・。

実はこの後、例の校長の息子のMaman(お母さん)にあたる校長先生が、ヴァカンス先のトーゴからアビジャンに帰ってきた。そのときに彼女に言われた一言で、私の壮大な計画は見事におじゃんになった。

「あのね、今年の後半から、免許証は手書きじゃなくてコンピューター管理になったの。だから、もうそういうことはできなくなっちゃったのよね。」

ほへ?でもさ、どうせちょっと多めに払えばどうにかなるんでしょ?

「それがね、この免許証の管理をしているのがフランス人たちの会社なのよ。彼らにはそういうのは通用しないでしょ?ごめんなさいね、うちの息子ったら・・・・もう叱っておくわね、ちゃんと。」

出た出たFrançafrique(フランスに支配され続けるアフリカ)!!うぜー。おフランスの奴らは、アフリカの政治や経済だけではなく、私の免許証取得すらも邪魔しようとしているのか!!!

ちなみにこの校長先生は、直ちに息子を呼び、私の目の前でタラタラと説教を始めた。息子は、三十近い男性である。アフリカの母ちゃん恐るべし。そして、母は偉大なり。あまりの迫力に、こちらが仲裁に入ってしまった。

という訳で、私は未だ免許を取得できずにいます。でもいいんです。次にどこか安い国に住んだときにでも、免許を「購買」すればいいだけの話だから・・・。次回こそは、道路交通法の三ヶ月滞在ルールに十分気をつけます。

2010年6月21日月曜日

コートジボワールに住む外国人の苦労

コートジボワールにいる外国人の中にも様々なバックグランドを持った人が混在しているから、一般論を振りかざすのは非常に難しい。

フランスの統治時代、資源が豊かな現在のコートジボワールには、たくさんの労働力が必要だった。そこで、植民地経営的視点から見て何もないサヘル地域から、ドル箱的存在であったコートジボワールに向けて、労働力の移動が行われた。もともと人の移動が激しく行われていたアフリカだけど、今のコートジボワールあたりにおいて、ヨーロッパの政治的な力による人の動き(奴隷を除く)が始まったのはこのころである。

独立後も今日のコートジボワールにいるサヘル系の人々の中には、「生まれも育ちもアイデンティティーも、完全に象牙人だ!!」という人がたくさんいる。というか、彼らはもうコートジボワール社会に溶け込んでいて、サヘル系の人々をあえてカテゴリー化すること自体がナンセンスになっているんだけどね。

ところが、どんなにコートジボワール社会に同化していようと溶け込んでいようと、書類上は「外国人」扱いされてしまう彼ら。彼らを取り巻く環境は、決していいものとはいえない。

コートジボワールで外国人絡みの話をするときは、気をつけないといけない。なぜなら、「アイツは外国人だ」というときには、政治的なニュアンスが含まれてしまう(感じられてしまう)場合が多いからだ。例えば、最大野党のリーダーであるワタラ。彼の地盤は、コートジボワール北部(現在は反政府軍が支配している地域で、ブルキナファソに近い)だ。これがね、フクザツなんですよ。本人はコートジボワールで生まれたと言っているんだけど、それを疑う人(別の政党の支持者)がいて。こういう人たちは、ワタラが生まれたのはブルキナファソ国内だと言っているんだね。外国で生まれた人には当然、立候補の権利がないけれど、きちんとした出生照明やなんやかんやが曖昧になっているからこそ、こんな事態が発生してしまうんだね。実際に彼は、IMFでエコノミストとしてワシントンDCで働いていたんだけど、その前にはペンシルヴェニア大学を出ている。そしてそして、このアメリカ留学のために、彼はブルキナファソ人として奨学金をもらっているようなのです。これが決定打(?)となって、彼は大統領選挙の正当な立候補者として、認められなかったんですね。めちゃめちゃTIAな展開。ちなみに、彼に反対している人々は、ワタラがブルキナの中学校を卒業していること(小学校はコートジボワール)も理由の一つに挙げて、彼がブルキナファソ人であることの正当化を試みているよ。コートジボワールでは、もう数年前から大統領選挙が延期されているけれど、こういうすったもんだで立候補者がどんどん立候補できない状態に追いやられているのも大きな原因の一つだ。アフリカの選挙やら民主政治の難しさはメディアでもよく言われていることだけど、実際に起きているのはこんな些細な(?)ことなのです。

ワタラの政党の地方事務所に張ってあった新聞記事。
見出しは、「神は私に、Ado(ワタラ)こそが次の大統領であるとおっしゃられた」。
この人は、政治的にアクティブな神父さん。こういう、社会的・心理的に影響の強い人が
宗教の力を使ってこんなことを発言し、またそれを新聞が大真面目に取り上げることで、
人々は簡単に「ああ、そうなのか」と納得してしまう。
ここで疑問に思ったりできる人が多ければいいんだけど・・・
なかなかそうもいかないんだよね。みんながこの発言を受け入れてしまい、
事態はさらにややこしくなるんだな。
ところで、この事務所にたまたまいたおっさん達(ワタラの支持者)と面白い話をしたよ。
彼らがワタラを支持する理由はいくつもあるけれど、どうやら、
ワタラは集会にも会合にも遅れることなくやってくる男だから信用しているんだって。
「ワタラ以外の政治家ときたら・・・会合は自分の都合で数日遅らせたり、
始まる時間が予告なしに五時間くらい遅れたり・・・人のことを何だと思っているんだ。」だそうで。
マジTIAだなと思いました(笑)。
ワタラの支持基盤であるコートジボワール北部の、小さな小さな町にあるレストランの壁画。
「Ado(ワタラのこと)大統領」と書いてある。気が早いんだから、まったくもう・・・。


また話がそれちゃうけど、この95年の大統領選挙には他に、立候補者としての健康診断書が原因で候補者として不適切だという烙印を押されてしまった人もいるんです。なんでも彼は、アメリカの病院で受けた健康診断の結果を選挙管理委員会(はてはて、公平な機関として運営されているかいないのか・・・)に提出したところ、色々とイチャモンをつけられて結局認められず、書類不備扱いで候補者としての権利を失ったのだとか。私がアビジャンにいた時も、ラジオで似たようなニュースを聞いた覚えがある。

これだから、アウアは「アフリカには民主主義は根付かない。アフリカに必要なのは、公費を横領しても着服しても、とりあえずは国民の生活の向上のために貢献できるいい独裁者が必要だ」という思想を持っているんだね。まあ分かる気もいたします。

私がさっき「政治的」って言ったのは、こういうことなんです。普段の生活では、もうみんなごっちゃに混ざっていることを承知の上で仲良く生活しているのにもかかわらず、いざ学校だだの仕事だだの昇進だだのいう事態になったら、「象牙人・非象牙人」「象牙人の両親のもとに生まれた人・親の片方が外国人である人」という二極構造になってしまう。結局は、都合がいいときにだけ外国人ネタを持ち出して相手を叩くという作戦なわけですよ。


今、コートジボワールの成人には、コートジボワールの国民であることを証明する身分証明書の取得・携帯が義務付けられている。そして、何かあるたびにこの身分証明書を提示するのだ(例:ワイロを欲している警察官に、身分証明の提示を求められた時)。しかし、そんなときに見せられる証明書がないと、面倒なことになる。

象牙人にとっても、この証明書をとることは結構面倒なことなのだ。

例えば、出生証明書のない人々。出生照明を届け出るのが「高すぎる」から、届け出たくてもできない人が多いのだ。なぜ高すぎるのか、もう説明する必要はないですよね。そう、以前にも書いたけど、当然のことながら役所に届け出る際には「ビジネス」をする必要があるからなんです。だいたいチャージされるのは2000FCFA(約400円)ぐらいらしいんだけど、田舎に行くと、これすらなかなか払えない人がそこらじゅうにいるわけでして。こうして、400円が払えないような家に生まれて生きた子どもは、法律上は存在しないことになり、さらなる不平等に拍車がかかっちゃうんだね。

日本でサラリーマンをしている象牙人の友達であるアマドゥーの実家に遊びに行ったとき、お父さんがこのことについては色々と教えてくれた。なんでもお父さんの知り合いで、お兄さんが亡くなったときに死亡届を出さないで、その代わりに故人の出生証明書を自分がもらって、成人に携帯が義務付けられている身分証明書を役所に手再発行してもらった人がいるのだとか。ちょっとフクザツだね。つまりは、お兄さんの出生証明書を手に持って役所へ行き、お兄さんの名前で自分の顔写真入りの身分証明書を作ってもらったということ。この弟さんは、出生証明書が出されなかった故に、身分証明書も手にすることができなかった人なの。それくらい、みなさん苦労されているのです。

さてさて。自国民でさえこんな状況だから、外国人の苦難は想像できますよね。

1955年以前は、特にこんな政治的なワダカマリもなければ外国人証明証なるものも存在しなかったため、誰がマリ人で誰がブルキナ人だかがかなりあいまいだったらしい。当たり前だよね、もともとブルキナもマリもコートジボワールもへったくれもなかった場所に、政治的な境界線が引かれたのだから。

その後、外国人滞在許可証が導入されたが、最初のうちは今とは違って無料で手にすることができた。ところが、それをいいことに(?)どんどん出稼ぎ労働者が入ってきてお金が国外に流れてしまったこと、外国人滞在許可証ができてしまったが故に、それをダシにして不当にワイロの要求をする警察官が増えたこと、あとは財源の確保なんかの目的もあったりで、発行の際にはお金が徴収される運びとなった。実際に私の滞在許可証も、一年間有効なもので10000FCFA(約2000円)したよ。この額は、貧しさから仕事を求めてアビジャンにやってくる外国人労働者にとっては、なかなかそう簡単に払えるものではないから、この時点で外国人の流れは少しは収まるのか・・・と思いきや、そんなことが起こるはずもなく、今では不法滞在者が大量発生する事態になっている。いっそのこと、どうせ出稼ぎ労働者は後を絶たないのだから、合法にしちゃえばいいのにね。

また、かつてのコートジボワールには、コートジボワール国内で生まれた子どもは誰もがコートジボワール国籍を持つことができるという法律があった。しかしそれが撤廃され、今では両親のいずれかがコートジボワール人なら、子どももコートジボワール国籍を持つことができるというルールに変わった。これがすごくトリッキーなのだ。

たとえば、ブルキナ人のお父さんと象牙人のお母さんの間に生まれた子どもがいるとしよう。そして、その子どもがブルキナ風の名前を受け継いだとする。すると、それだけで役所からなかなか書類が貰えず、コートジボワール国籍取得を断念せざるを得ない・・・なんてことはよくある話だ。ちなみに、この問題をテーマにした歌があるんだよ。(詳しくはこちら。)更にやっかいなのは、ブルキナ側に登録をしようにも、コートジボワール国内にいる限り、なかなかその手続きすら複雑であるということだ。アビジャンの外で暮らしている人にとっては、ブルキナの政府代表機関まで行くのになかなか時間もお金も労力もかかってしまう。アビジャンに住んでいるブルキナ人にとっても、これは大変な出費だ。なぜなら、広いアビジャン市内を移動するのに十分なお金すら、持っていない人が圧倒的に多いからだ。ブルキナ人が多く住むポブウェ地区からプラトー地区に移動するだけで、片道1200FCFA(210円)の出費は覚悟しなければならない。往復なら2400FCFA、更に、書類不備だのなんだかんだでイチャモンをつけられて何度か往復しないといけないことを考慮すると、その日暮らしで精いっぱいの出稼ぎ労働者の彼らにとってはとても払える額ではない。

さらに、今ではコートジボワールとブルキナファソのクォーター世代がどんどん生まれてきており、更に事態は複雑になっている。コートジボワール国籍を持ったお母さんとブルキナ国籍保持者のお父さんの間に生まれた男の子(国籍は一応コートジボワール)が、在コートジボワールのブルキナ人の女の子と結婚をして子どもが生まれたとしよう。すると、法律上はこの子にもコートジボワール国籍が与えられてしかるべき所なのだが、なかなかそうはいかない。「四分の三はブルキナ人なのだから、この子はブルキナ人だ!!」というのが役所の言い分である。(もちろん、そうではない優しい役人さんもいるけどね。)理屈でものを考えないのがTIA式だから、どんなに法律を振りかざして、この赤ちゃんのコートジボワール国籍取得の正当性について述べても意味がない。法律なんてあってないようなもの。結局は、現場の役人一人ひとりの裁量によってきまってしまう場合がほとんどなのだ。だからこそワイロが必要になってくる。

法律が存在しない―この意味は、きっと日本の皆さんにはなかなか伝わりにくいニュアンスだと思うけど。例をあげよう。私は、外国人滞在許可証を常に持ち歩いていた。ところが、田舎道にある警察の「関所」にひっかかり、運悪く悪徳警官にあたってしまった。通常なら「日本のパスポート+女の子であること+笑顔で警官をヨイショするテクニック」の三種の神器があれば問題ないのだが、コイツにはそれが通用しなかった。私のパスポートにあるコートジボワールのビザはもう切れており、代わりに別に携帯していた滞在許可証のみが、「私はコートジボワールに合法的にいますよ」ということを証明する書類だった。

が、しかし。

コイツは、「お前のビザの有効期限はもうとっくに切れている。なのにどうしてここにいるんだね?」と吹っかけ始め、「こんな紙(滞在許可証のこと)は自分は見たことも聞いたこともない。偽物に違いない!!」とでっちあげ、なんともまぁ、それはそれは面倒くさい展開になってしまったのだ。最終的には一緒にいた友人が助けてくれたからお金は払わずに済んだのだが、現場の気分と気まぐれ次第で、法的な書類は何の価値も持たなくなってしまうことを示すいい例だと思う。

どうかな?少しは、外国人(ほかのアフリカ諸国出身者)がどのような苦労を強いられるのかがなんとなくリアルに感じられたのではないだろうか?

2010年6月16日水曜日

コートジボワール社会の中での移民・外国人問題

フランスで、フランス人がやらないような安い賃金の仕事をしているのが、主に旧植民地からやってくる移民である。北アフリカ出身者が圧倒的に多いけど、サハラ以南のアフリカだと、カメルーン、コートジボワール、セネガル、マリの出身者が一番多いかな。

メディアが移民の問題をたくさん取り扱うようになり、「ヨーロッパにいる移民=危なくて、薄給な仕事をしている人々」というイメージが出来上がってしまっている感がある。しかし当然ながら、全ての人がそのような暮らしをしているわけではない。専門職に就いている人やエリートもたくさんいるよ。

ところで、アフリカの中にも移民や出稼ぎ労働者による「人の流れ」があるのを、みなさんはご存知でしょうか?

国が壊滅的状態に陥っているジンバブエから、お隣の南アフリカに人がどんどん流れていることは、メディアでもたくさん取り上げられている。おかげで南アフリカでは、外から来た出稼ぎ労働者とのトラブルが絶えない。

スーダンに滞在したときに驚いたのは、スーダンに出稼ぎに来ているエチオピア人の多さだ。アディスアベバのスーダン大使館は出稼ぎに行くためのエチオピア人で溢れ返っており、スーダンへ入国する際にも、大きな荷物を抱えたエチオピア人グループの姿が印象的だった。ハルツームに着いてからも、至る所でエチオピア人に遭遇したし、エチオピア人女性がハルツームの道端でお茶やコーヒーを売っている姿も、ちょくちょく目撃した。(ちなみに、スーダン人男性の間では、エチオピア人女性は大人気だ。美しさではピカ一のエチオピア女性は、日本女性と似ていて、「男性の三歩後ろをゆくひかえめな女性」というイメージが強いからね。)

コートジボワールは、西アフリカ一の先進国だ。最近は若干不安な部分もあるが、社会も経済も、周辺国と比べると非常に安定している。そして、そんなコートジボワールの周辺には、サヘル諸国(通称:世界最貧国。でもさ、国際機関やNGOは、何を基準にして「世界最貧国」だなんて失礼な言い方をしているのかしら)のブルキナファソ、ニジェール、マリや、内戦や社会不安定で一時は大変なことになった(というか、今でもそう?)リベリア、ギニアが名を連ねている。だから、コートジボワールの社会の中に、周辺国からやってくる出稼ぎ移民がたくさんいても、別に驚くべきことではない。

象牙人がやりたがらないような仕事を進んでやるのが、こうした外国からの出稼ぎ労働者だ。彼らは、象牙人にとっては受け入れがたいような賃金でもよく働くし、「生活環境が少しくらい悪くても耐える強さを持っている」と、一般の象牙人から評価されている。「彼らの国の状況は我々の国のそれよりも劣悪で厳しいから、ウチラにとってはhors de question(問題外)な環境も、彼らにとっては天国のようなものなんだろうね~。」といったところだ。皮肉なことにこれは、フランスにいる象牙人出稼ぎ労働者に対するフランス人の眼差しと若干似ている。

最近は象牙経済も下向き気味だから、象牙人もぜいたくを言わずにどんな仕事も引き受けるようになったのだとか。ただ、「イボワールの奇跡」と呼ばれていた70~80年代の絶頂期には、下請けの仕事はほぼ全部外国人にやらせていたというのだから驚きだ。3Kの仕事はほぼ全て外国人にやらせていた、バブルのころの日本みたいだね。

ちなみに、サヘル地域の人というのは、涙が出るほど「穏やかでいい人」タイプが多いんだよね。どうしてここまで優しくなれるの?と、逆にこちらが聞きたくなってしまうくらいだ。忍耐強くて、常に心の平安を求めていて、つつましやかで、シンプルで・・・。やはり、厳しい環境で育つと、人というのは優しくなるのかしら。優しくて穏やか過ぎるから、自分勝手な権力者の思うがままにされてしまうくらいだ。私のパリでの同僚であるママドゥー(ニジェール人)がまさにその典型例でした。(ママドゥーは、カメルーン人のトンデモ社長の不当な扱いにも、それからうちの会社の劣悪な労働環境にも文句ひとつ言わず、常に微笑を浮かべながらひたすら耐えていたの。見ているこちらが泣きそうになってしまうくらい!!)そんな彼らだから、どんなに厳しい試練が降りかかろうと、じっと耐えて耐えて耐えまくってしまうのです。

ここで少し、コートジボワール社会でどのような人がそのような事をしているのかを紹介したいと思いま~す。

*ブルキナファソ人
コートジボワールにいる出稼ぎ外国人の中でも圧倒的に多いのは、隣国であるブルキナからやってきた人々。ブルキナ人を見分ける方法の一つに、顔の引っかき傷がある。エチオピア南部やスーダンでも、顔に引っかき傷のある人は目撃したよ。この傷は、その人がどこのクランに属しているのかを示すためのもので、伝統が強く残っているサヘル地域の一部では、今日でも守られている習慣だ。アビジャンの市場や道端では、このような引っかき傷のある女性が、卵やら小物やらを売っていたのが印象的だった。そして、彼女たちの多くは*フランス語があまり喋れないため、とにかくスマイルで値切り交渉を乗り切るしかなかった思い出があるなぁ。




近所のブルキナおばさん。卵をいつも安く売ってくれてたの。

でも言葉がなかなか通じなくて残念だったわ。




*コートジボワールでは、今やフランス語しか話せない子どもが出現しているくらい、フランス語が普及している。母語が違う人同士が結婚して家でフランス語を話しているのならともかく、母語を共有する夫婦が、あえて家庭内での会話をフランス語で統一している場合もあうぃ、個人的には少し残念に感じている。コートジボワールの場合、村に行ってもフランス語が通じるからビックリだね。反対に、サヘルの国々やセネガルでは、フランス語が分からない人がまだまだたくさんいる。これには、フランスの植民地運営の方法や教育の普及率、言語政策の影響など、様々な理由がある。

ある日、道端で近所の人と立ち話をしていたときに、若い男性が「携帯電話を持っていますか」と私に尋ねてきた。電話をかけたくても、持っていなかったらしい。そこで、私の電話を出すと、彼は持っていた女性用の財布の中に入っていたカードを取り出して、そこに書いてあった番号にダイヤルした。どうやら、道端に落ちていた財布の持ち主に電話をかけたようなのだ。ここは、東京ではなくてアビジャンである。物を落としたら最後、絶対にそれが手元に戻ってくることなどありえない場所である。

私は本当に感動した。TInA(This is NOT Africa)じゃないですか!!それとも、こんな天使に思わぬところで出会えてしまうということ自体がかなりTIAだと言ったほうがいいのかしら?

「もしかして?」と思い、その若い男性に聞いてみると、やっぱり彼はブルキナ人だった。象牙人が悪いヤツとは言わないけれど、こんなにバカ正直なのはやはりサヘル出身者ならではだなぁ・・・と、つくづく実感させられるようなエピソードだ。

田舎っぺなブルキナの人、私は結構好きだよ。ウガンダ人と少し似ていて、挨拶するのにいちいち時間がかかるところもチャーミングだしね。「結構長い間立ち話したなぁ」と思って会話の内容を思い出してみたら、実は挨拶ぐらいしかしていなかった!!なんてこともよくあった。


ただし、彼らは一見穏やかそうに見えて、話すべきこととそうでないことをよくわきまえている。これは私が受けた印象だけど、ブルキナの人は、象牙人に比べるとあまり政治の話をしたがらない(というか、避けている)傾向にあるように思えた。こちらからサンカラ(私が大好きな、アフリカ版チェゲバラ。急進的すぎてみんながちょっとついていけてなかったけど、こういうリーダーがこの大陸には必要だ。ちなみに彼は、ブルキナ出身)の話をふっかけようとしても、すぐにはぐらかされてしまい、気付くと話題が変わっていた・・・なんてこともしばしば。おそらくこれは、厳しい環境の中で暮らす人々の知恵なのかもね。余計なことは口にせず、ひたすら心の平和を求める・・・・そんな感じ。

ちなみに、サッカーの国際試合がある日には、アビジャンでは一日中、社会の機能が停止する。それくらい、サッカーは象牙人にとって大切な生活の一部だ。これがね、コートジボワール対ブルキナファソの試合だと、ちょっと面白いことが起こるの。マキ(飲み屋)に集まって飲んで踊ってドンチャン騒ぎをしながらテレビに釘付けになる象牙人と、地味に地味に、なるべく目立たないようにコソコソと集まるようにして試合を観戦するブルキナ人の、このコントラストがなんとも言えないほどシュールなんだよね(笑)。コートジボワールとブルキナファソなら実力の差がありすぎるから、結果なんて最初から誰の目にも明らかなんだけどね。


コートジボワールがアフリカ杯で勝った、ある夜のアビジャン。みんなこのおばちゃんのようになり、道という道を老若男女問わず走り続け、朝までドログバ・ビールを片手にパーティは続きます。





*ニジェール人
ニジェールは肉関係の産業が有名だ。そのせいか、アビジャンの道端や市場で肉を扱う仕事をしている人の多くはニジェール人だ。

オフィスの近くの道端には、私がよく行く焼肉屋台(?)があった。ここでいつもニコニコしながらお肉を焼いていたのは、ニアメ(ニジェールの首都)から車で一日半かかるという村出身のおじさんだった。私が通りかかると、いつも「試食していきなよ」と言っては次から次へとタンだのハツだのをくれたものだ。「オラは、初めてアビジャンに出てきたときのこと、未だにそ~りゃ鮮明に覚えてるでぇ~(彼の話すフランス語を、日本語に訳すときっとこんな感じ)」と言っていたのが印象的だった。ニアメでさえ都会なものだから村から出てきた彼にとってはそれだけでカルチャーショックだったのに、アビジャンはきっと異次元だったんだろうね。それはそれはぶったまげてしまったのだとか。

この焼肉屋台でいつもダラダラしているおじさんがいたのだが、彼もどうやら同郷出身者らしい。他にお客さんがいないときは、二人で仲良くお昼寝をしているか、黙ってニコニコしながらポカンとしているか、チャイをすすっているかのどれかだった。喧騒的なアビジャンの中心街で、そこだけ時間の流れがニジェールだった。

たまに、コートジボワールの北部に向かう長距離バスのターミナルに行くと、伝統衣装を着た美しいニジェール女性に出会えたりする。かつて、エチオピアから現在のニジェールに向かって人の大移動があったせいなのか、彼女たちの服の雰囲気や肌の色、顔の感じなどは、エチオピア女性そのものだ。

綺麗なニジェールの女性。本当に美人!!アビジャンの長距離バスターミナルの近くにて。




* マリ人
フランスにいるマリ人コミュニティーは、独自の強いコネクションとシステムで結ばれている。フランスのアフリカ人コミュニティーの中でも、マリコミュニティーはその他のコミュニティーとは少し一線を画しているというか、離れているというか。そのせいもあってか、あれだけマリ人がたくさんフランスに移住しているというのに、私の働いていた会社では、マリだけはなかなか手をつけられない状態だった。

マリ女性には美人が多いというのがアビジャンでの評判だ。コートジボワールのスターであるドログバも、奥さんはマリ人。そんなマリ人女性だけれど、少なくとも私は、アビジャンに滞在していた間には一度も遭遇しなかった。出会ったのは全て男性陣。そして、彼らにもブルキナ人やニジェール人同様、サハラの人に特有の、あの優しすぎるくらい優しすぎる傾向が見受けられた。

去年の暮れあたりから、アビジャンの私の家の近くの大通り沿いで、マリ人のお兄さん二人が突然パイナップルを売り始めるようになった。車がビュンビュン通るすぐそばで、彼らは山のようなパイナップルを前に一日中座っているのである。売る気ゼロ。ひたすら座り続けて、客が来るのをただただ待っている・・・客が来たとしても、あまり売ろうとはしないでただただ客に話しかけられるのを待っている。そんなTIAな商売です。彼らは、パイナップルを売っていた場所のすぐそばにあった薬局の警備員(?)をしていて、副職としてパイナップルを売っていたんだけどね。

私は、彼らと仲良くするようになってから初めて、コートジボワール国内にいる出稼ぎ移住者の暮らしの実態を目にしたような気がする。結構衝撃的だったよ。

まず、家がない。だから彼らは、薬局の屋根の下の部分で寝起きしている。盗まれるものがないとはいえ、さすがにこれは危ないし、警察が来たりしたらもう大変だ。しばらくは、近所の人の家から水をもらって何とか生活していたが、水道代が高いアビジャンで、ホームレスのマリ人に大量の水を与え続けるような天使はなかなかいないだろう。そして、薬局の人には彼らは完全に動物扱いされている。労働者の権利もすったくれもない。お給料は支払われないまま、それでも彼らは、「来月こそはきっと御金を貰えるだろう」と信じて、この薬局の人の言われるがままに働き続けている。もしかしたら、彼らも心の中では、いつまで経っても給料など貰えるはずがないということに気づいていたのかもしれない。それでも黙ってニコニコしながら耐えているところが、とてもサハラ的だなと思った。

私にできることがなにもないというこのジレンマ。今でも思い出すたびにイライラする。

こういうときに、住所不定者や闇で働いている外国人は、立場が弱いよね。日本のような国に住んでいると、社会生活において必要な自分の権利というものを意識する機会がなかなか少ないけれど。そう思いながら、今日も東京の街中にいるホームレスの人の横を通り過ぎた私なのであった。

*モーリタニア人

モーリタニア人男性は、アビジャン中でキヨスクを経営している。キヨスクとは、コートジボワール版のコンビニのようなものだ。朝は6時過ぎから、夜は11時くらいまで開いている。バゲットや粉ミルク、コーラを始め、歯みがき粉や石鹸、文具に至るまで、ちょこまかとしたものを売っているのだが、これがすごく便利なの!!

象牙人が経営するキヨスクもあったんだけど、これはちょっとダメダメね。まず、品揃えがモーリタニア人のキヨスクとは比べ物にならないほど悪い。しかも、モーリタニア人キヨスクでは、あの小銭不足のアビジャンにおいて奇跡的ともいえるほど、少額貨幣が常に充実している。だいたいどこのお店からも、マルシェで野菜を売っているどのおばちゃんからも、「お釣りがないからアンタには売らないよ」な雰囲気が感じられるのがアビジャンだ。(TIA,売り手が神様で、売り手に絶対的な権限があるわけです。客は犬同様です。)

たとえお釣りが店になくても、モーリタニア人は独自のルート(アビジャンには、少額貨幣を取引するための闇市も存在するよ。詳しくはこちらを参照。)を駆使して、なにがなんでもお釣りを見つけてくる。最初は「面倒くせー」なダラダラ感を出してくる彼らだが、なんだかんだできちんと最後には対処してくれる。カスタマーサービスの質が違うから、アビジャンに行く際には是非、モーリタニア人のキヨスクで買い物をすることを私は強く勧める。

ところがどっこい、このモーリタニア人コミュニティーには、とんでもない秘密が隠されているのです。それは、モーリタニア人女性。

アビジャンにいるモーリタニア人の多くは、モーリタニア北部出身のアラブ系の人がほとんど。そして、アラブとアフリカの間には色々な心理的いざこざがあったりしているせいか、アラブ系とアフリカ系が結婚するということは、極めて貴重なケースなのです。そこで、在コートジボワールのモーリタニア人男性がどうしているかというと、五、六人くらいでモーリタニア人女性をpartager(共有)しているのだそう。

モーリタニアの人は本当に親切でフレンドリーだけど、同時にモーリタニア人コミュニティーは閉鎖的で、象牙人にとってはかなりミステリアスな存在だ。「彼らは閉鎖的で、自分の国の女としか寝たがらないんだ」と私に教えてくれたのは、象牙人のエリクソンとジェローム。だからこんな噂が囁かれるようになったのかもしれないけど・・・。イスラムの教えがかなり強いからなのか、確かに女性の姿は一度も見なかったなぁ。エリクソン曰く、モーリタニア辺りの女性は、家の外になかなか出たがらないのだとか。

いずれにしても、HIV/エイズ関係の団体の中には、この、モーリタニア人コミュニティー内でのHIV感染拡大を本気で憂慮しているところもあるくらいだから、この噂は本当なのかも。信じられない話だけど、TIA,これが事実だとしても、私はもはや驚かない。何があっても不思議じゃないからねぇ、アフリカは。だから好きなんだけど(笑)。

*リベリア人

先述したエリクソンと一緒に、コートジボワール西部のサンペドロという町に行く機会があった。ここは、リベリアとはもう目と鼻の先。シャリーフさん(アフリカ初の女性大統領)が頑張っているおかげで、なんとかリベリアにも希望が見え始めている今日この頃だけど、それでも長期にわたる内戦と社会不安定で痛めつけられたこの国には、問題が山積みだ。

パワフルなリベリア難民のおばちゃんと過ごした週末についてはまた別の機会に書くことにして・・・。

サンペドロでは、少なくてもリベリア人難民は、象牙人やコートジボワール社会からの差別に苦しんでいた。「苦しんでいた」と書くと、いかにも苦しんでいるかのように聞こえるから、「差別と闘っていた」と書いたほうが正しいかな。リベリアでの内戦は残虐であったため、どうやら象牙人の間では「やつらは野蛮で危険だ」というデマが広く浅くではあるが信じられているようだ。そのせいで、就職時や学校で、様々なinjusticeが起きているのだとか。

言語の壁も大きい。これが、同じフランス語圏出身の難民であったなら、話は少しは違っただろうけど。ちなみに、リベリアの英語は世界で一番難解だと言われています。確かに、私はリベリア人とはフランス語で話したほうが楽に通じ合いました。彼らの英語は、本当に何を言っているのかさっぱり!!

どこの国でもそうだとは思うけど、難民と難民を受け入れる国の地元の人の間には、いつも確執が起こるのは避けられないことなのかな。リベリア難民の多くは、もうコートジボワール社会に表面上は溶け込んでいる。もともと失業率が高かったところに難民が流れてきて仕事を持って行っちゃったり、難民にばかり支援をする国際機関やNGOを見て、やっぱり地元の象牙人にとっては面白くないよね。嫉妬してしまうのも分からなくもない。

次回は、こんな象牙社会で暮らす外国人が、どのような行政上の問題を抱えているのか、そして彼らがそれに対してどのようなユーモアで対処しているのかについて、書きたいと思います!!

2010年6月9日水曜日

better baby?なんじゃそりゃ

もしもいつまで経っても結婚できないと嘆いている大和撫子がいたら、今流行りの婚活などに無駄なお金と時間と労力をかけずに、私はアフリカへ行くことを薦める。

こんな私でも、アフリカ各国の道を歩いていると結婚をよく申し込まれた。私でさえこうだったのだから、ほとんどの日本人女性はそれ以上であろう。

ヤギ四十頭と引き換えに息子の嫁になってくれと言ってきた、マンゴー売りのおばさん。警察署のお偉いさんだから何をしてもいいと勘違いし、私と結婚して日本で新生活を始める壮大な計画を延々と話して聞かせてくれたおっちゃん。「俺の村には、大きなカカオ農場と畑があるから心配するな!!」と言ってくれたおじさん。(ちなみに、彼に「一夫多妻制は嫌だよ」と言ったところ、「じゃあ俺のかみさんと別れる!」という予想外の一言を、彼は吐き捨てていました。喜んでいいのやらなんなのか。)スワジランドでは、牛十二頭と引き換えに、第三夫人になってくれと頼まれたこともあったかな。

牛十二頭・・・かなりいいオファーである。どうして断ってしまったのか、未だにあの日の自分の言動が信じられない。きっと、マラリア明けで、脳が正常に機能していなかったのであろう。

なぜこんな私に結婚を申し込んでくるのか。私と結婚すれば当然、「逆玉の輿にのれる」だの「日本に行くビザがもらえる」だのと考えている人が大半であることは、今さらこの場で述べる必要もないと思うので割愛する。それよりも私が驚いたのは、生まれてくる子どもを大きな理由に挙げている人の多さだった。結婚の意味合いが少し日本のそれとは違うので、彼らにとっては、子どもというのは結婚の際に非常に大きなキーワードとなってくるんだね。いい子どもをたくさん産んでくれる人こそ、理想の結婚相手なのだ。

そんな風に、子どもを理由に結婚を申し込んでくる人と話していると、やや頻繁に会話に登場するある言葉がある。そしてこの言葉を聞く度、私は失望と怒りを感じずにはいられなかった。

「better baby(より良い赤ちゃん)が欲しいんだ」

おそらくこの言葉を発している本人には深い意味はないのだろうけれど、こんな発言を無意識のうちにしてしまうということ自体がおかしい。Betterとは、何と比較したときのbetterなのか、何を基準にして考えたときのbetterなのか、どうして私との子どもだとbetterなのか――。問い詰めなければならない事やハッキリさせておくべき点はたくさんあるよね。私があまりにも真面目な顔をして次々と質問をするものだから、逆に相手の方が困ってしまった・・・なんてことはよくあった。「軽いノリで言っただけなのに、なんだいこの女は、こんなに真剣になりやがって」状態である。

彼らがなぜbetter babyと言うのか――その理由は簡単であると同時に、ちょっぴり悲しい。多くの人とディスカッションをしていくうちに見えてきたもの、それは、Better babyという発言を私の目の前でした人の多くが、「混血の子どもは、二つの人種の優れている点を受け継いでいる」と考えていることである。

それぞれの人種の優れている点??

人種という概念そのものに疑問を抱いている私にとっては、一番最初にツッコませていただきたいのがこの「優れている点」に関するエトセトラである。納得できないものの言い方だけど、とりあえずこのように考えている人の意見を聞こうじゃないですか。

彼らに言わせてみると、黒人の優れている点とは身体能力とパワーであり、白人の優れている点とは頭の良さ(intelligence)やメンタリティーであるというのだ。もちろん、「黒人にも頭のいい人はたくさんいるし、白人にもバカな奴らはいる。黒人でも身体能力が低い人もいれば、白人でもパワーの強い人もいる。」とみんなが付け加えていたけど。

アフリカの人にとって、「身体的な強さ」は非常に大きな意味を持つ。男も女も、強くて力がある方が尊敬を集める。伝統的な価値観が強く残っているようなところにそのような考え方が残っているのかと思いきや、ウガンダでもコートジボワールでも、これは現代社会全体に浸透している。街にあるオフィスで働いているホワイトカラーの人にとっても、力の強い人はやはり憧れの存在らしい。

私はよく、面倒なことを避けるために既婚者として話を通していたが、私の夫に関する質問の中でもとりわけ典型的なのは、以下のようなものである。

「夫の名前は?」
「夫の職業は?」
「夫の国籍は?」
「子どもはいるのか?」
「その夫は強い男なのか?」

うん、そうなんです(笑)。それくらい、彼らにとっては「強い」ということが、社会的にも重要な意味を持っているのです。でも、intelligenceやメンタリティーは白人の方が優れていると思っていることは、遺憾の一言に尽くね。

更に話を深めると、「だからオバマは大統領にふさわしい人物である」ということらしい。これは、アビジャンの道端で靴の修理屋をしている、二十代後半くらいの男性との会話の中で実際にあったやりとりだ。「アメリカの大統領と言えば世界の大統領だ。こんなに重要な役職に就いたオバマは、アフリカの強さと白人の頭脳が合わさっているからこそ、あのような立派な器になったんだ。」

しつこいくらい何度も繰り返すが、アフリカの人のみんながみんな、このような考え方をしているわけではない。この社会心理の病気とも呼べそうな状況を嘆き、見えない敵を相手に必死に闘おうとしている人を、私は何人も知っている。ただし、残念なことに、無意識のうちに人々の心の中にこのような白人至上主義的考えが蔓延してしまっていることは、認めざるを得ない事実なのだ。

2010年6月8日火曜日

高学歴の大量生産工場

マケレレのシンボルである、通称「象牙の塔」。かつては、本当に名門校だったらしいマケレレ。
未だにこの大学を、「アフリカのハーバード」と呼ぶ人が後を絶たない・・・がんばれ(笑)。



マケレレ大学の一日は長い。朝は七時から一限が始まり、休みなしに夜の十時まで授業がある。ちなみに一コマは一時間だ。

なぜそんなにスケジュールを詰めないといけないのか。答えは簡単だ。大学の持つキャパシティーを考えずに、お構いなしに大勢の学生を入学させるからだ。ワイロがあれば誰でも大学に入れちゃうもんね。まさに、「高学歴の大量生産工場」である。だからこそ、朝の七時からノンストップで教室をフル回転させないと、回しきれないんだね。

その昔、アミンがまだ大統領だったころ、マケレレに入る学生には全て奨学金が給付されていた。少人数のエリート教育が徹底され、教育の質も学生のモチベーションも、現在とは比較できないほど高かったらしい。古き良き時代のマケレレとして、当時を知る人たちは懐かしそうに私にそう教えてくれたものだ。

ちなみに、マケレレにはかなりの割合でケニアやタンザニアから留学生が来ているよ。彼らの多くは、自国の大学に入れなかった子たち。だから、みんなマケレレに対して文句を言ってはいるけれど、ちょっと負い目を感じている部分も少なからずある。私も私でそれはよく承知していたから、「ケニアではこんなことは絶対に起きないのに!!」と言っているケニア人学生がいても、「だったらケニヤッタ大学(ケニア一の名門大学)に行けばよかったのに」とは決して言わなかった。マケレレの堕ちぶりは、東アフリカでも有名な話だから、正直な話、マケレレに来ても文句をたくさん言いたくなるような環境に身を置くことになるであろうことは、事前にいくらでも予測できたはずだ。それでも彼らがマケレレに来る背景には、家族からの強い希望や「とにかく学歴さえあれば、なんとか人生やっていけるかもしれない」という期待がある。

ウガンダに留学していた当時はマケレレに対する批判的な意見しか持てなかったし、何よりもマケレレという、「自分の良心に反する地獄のような場所」とまで言いのけては毛嫌いしていた場所に私自身がどっぷりと浸かっていた。そのため、このような期待をマケレレ大学という場に求めている人たちを見ては、彼らやアフリカの将来を嘆きたくなるような感情に駆られてばかりいた私であった。「こんなにふざけている内容の教育を受けて!!社会的にはエリートかもしれないけど、中身が伴っていないじゃないの、中身が!!!これだから、何も考えられない、何も生み出すことのできないエリートがどんどん増えていって、この国はダメになっていくんだ!!!」

この気持ちは今でも変わらないけれど、マケレレの怒涛の日々から解放されて約二年がたった今だから思う。これって、日本も状況としては全く変わらないよね?少なくとも、大学の環境は日本のほうが断然上だけど・・・。

なんていうかな。やはり、「教育こそが貧困から脱出するためのカギだ!!」という認識が広まったのはいいことだけど、ウガンダ人非ウガンダ人を問わず、マケレレには「学士さえ取ればとりあえず人生安泰だ」という考えの人が多いような気がする。これは、私の日本の大学にも同じことが言えるね。ただし、少なくとも私の大学は、本気で勉強したい人にはそれなりの環境が整っている。マケレレは・・・日本の私立大学とウガンダの公立大学を比較している時点で間違っているのかもしれないけれど、それでも、「君たち!!!なにか勘違いしていない?ちょっと世間知らずすぎない?この状況で、本当に学んでいるとでも思っているの?」と、学生全体に叫びたい気持ちでいっぱいだった。これは、教育関係の問題を取り扱う諸団体や国連、政府にも同じことが言える。ただ単に学校を作ればいいのか。学校に行く子どもたちや、大学に行く人の数が増えればいいのか。中身が伴っていない教育など、教育と呼んでいいものなのか。

「学位の大量生産工場」は、日本の大学全入時代とかなり似ている。このように表現するとおそらく、これを読んでいる皆さんにも、ウガンダで起きている高学歴者と社会構造の問題をすんなりと想像していただけるのではないだろうか。(結局は、どこの国で起きている問題も根本は同じであるということ。アフリカだろうと、日本だろうと。)

そして、学位の大量生産工場では、さまざまな歪が生まれている。

学位が珍しくなくなった時代、マケレレを出ていたって仕事がそう簡単に見つかるわけではない。だからこそ、学士取得後に実は自分が何の知識もスキルもないことに気づいて大学院に進学する人や、就職活動に失敗して、仕方なしに修士課程を始める人が後を絶たない。院を卒業した人でも、メイドさんやゴミ拾いの職に就く人もいるくらい、この国の就職難は厳しい。

もっとも、修士号を持つメイドさんやゴミ拾いさんたちは、多くのsnobなマケレレの学生・卒業生よりも賢い生き方をしていると私は思うけどね。日本以上に社会格差が大きくて、かつその格差が目に見えるウガンダ社会では、自分の置かれたレベルよりも下のことを行うことは、心理的にout of question(問題外)であり、プライドが絶対に許さないのである。だから、どんなに生活が困窮しようと、道端で果物を売りながら食いつないでいくという発想はどこにも起きない。そんなことするくらいなら、売春をしたり、親戚に頼ったりするほうを彼らは選ぶであろう。(日本でもそうなのかな?)そんな中で、修士号を持つメイドさんやゴミ拾いさんは、struggleしながらも自分の力で生きようとしている。根性我慢物語が大好きな日本人の目には、こちらのほうがカッコイイ生き方に映る。

マケレレにいた当時に院生の友達もそれなりにいたが、彼らが教えてくれたマケレレ大学院の実情で驚くべき点がいくつかあった。そして、それらの話を聞いた後、大学院も結局は学位の工場であることを私は悟った。

マケレレの大学院の授業のレベルは学部と同じくらい(つまり、日本の中学校と同じレベル)であり、授業中の書き写しと教授へのご機嫌取りがメイン。そして、上に行けばいくほど、教授から不正な評価を受ける確率が高くなるという。AやA+はまずは取れない。時々、学位の取得でさえ、教授に邪魔をされて困難になることもある。全ては、「卒業した後の学生は、自分の職業的地位を脅かすライバルになりかねない」という恐れからきている(と、少なくともマケレレの院生は推測している)。

私は、大学院生のこの推測を、単なる勝手な推測として笑い飛ばすことがどうしてもできなかった。何でもあり得るTIAでは、こんなことは日常茶飯事だからだ。

いろいろ考えてみると、最終的には「大学とは何か」という疑問にたどり着く。私自身、大学に入った一番大きな理由は、将来のために「学位取得者」という社会的地位がどうしても必要だったからであることを認めざるを得ないから、「何も学べなくても、とりあえず大学に行けばなんとかなるかもしれない」という考えのマケレレ生の気持ちが分からなくもない。もちろん、大学で出会った人や学んだことはかけがえのないものだけれど、人や知識と出会うために大学に在籍している必要があるとは私は思わない。

結局のところ、何を大学に求めるかということは人それぞれ違うから一概には言えないのですが。それでも、高学歴大量生産工場としての意味合いしか持たない大学には大きな疑問を抱いてしまうね。井の中の蛙じゃないけれど、自分たちは国際水準の一流教育を受けている!!と信じ込んでいる、プライドの高いマケレレ生のことを考えると、他人の国の事情なのに頭痛が始まるのはどうしてなんだろう・・・。

マケレレ後期には、私は夜間部の授業を中心にとっていたが、夜間部の学生には様々なバックグラウンドを持った人がいてなかなか面白かった。昼間部の学生は、プライドの高い中産階級出身者が多い印象を受けたし、クラスメイトと話していても面白くも何ともなかったというのが正直な感想だが、夜間部には働きながら学んでいる人や、一度社会に出てから大学に行く必要性を痛感した人、それから、子育てが終わって一段落したお母さんたちがたくさんいた。みんな忙しい人たちだったからなかなかゆっくり話をする時間がなかったのが残念だけど、この人たちを見ていると、教育の質や制度に問題は山積みでも、ウガンダとウガンダの大学生を応援したい気持ちになる。

みんな今頃どうしてるのかな。

そう思うと同時に、本当に勉強がしたいと思っている学生のためにも、マケレレの状況が一日でも早く改善されることを願ってやまない。とりあえずは、努力が正当に評価される大学になってもらいたいね。ワイロやセックスがないといい成績が来ない高学歴者の大量生産工場なんて、こんなに志が高い人たちにはもったいなさすぎる。

外国製品への憧れ

同じものを現地の人と外国人が持っていたとしても、どうやら外国人が持っているものはカッコよく、お値段も高めに見えるらしい。

ウガンダでは、ウガンダで買った中国製の使い捨て腕時計を使用していた。すると、市場のおばちゃんやクラスメイトには「わー、素敵な時計。日本で買ったの?」「これ高かったでしょ?いいな、私にちょうだい。ちょうど時計が壊れちゃったんだよね(←物をねだるためによく使われるフレーズ。ちょうどこの前○○で・・・のパターン)」とよく言われた。彼女たちにしてみたら、とりあえず言ったもん勝ちだから、別にもらえなかったとしても何ら問題はないんだけどね。「とりあえずおねだりしてみて、本当にもらえちゃうようならそれはそれでラッキー」程度の感覚だ。

コートジボワールに到着して間もないころ、アビジャンのアジャメ市場で買った、これまた中国製の使い捨てサングラスをつけていたら。すると、街行くイケイケファッションに身を包んだ男の子に「それ、超クールだね。どこで買ったの?」と言われた。コートジボワールでは、外国製品に対する人々の意識はどのようなものなのだろう・・・これを知るために、私はちょっとこの男の子をからかって試してみた。

「これは、アメリカで買ったんだよ。」と私。
「やっぱり!!!そうだと思ったよ。だって、そんなにクールなサングラスは、ここでは手に入らないもの。俺さ、すぐそこでメガネの売ってるんだけど、お姉さんのそのサングラスを売ってくれないかな。」

おっと!!買い取るとまで言ってのけたぞこの彼。彼のお店についていくと、なるほど。彼は本当にメガネやサングラスに関しては、プロ(?)だったんですね。だったらますます、どうして私が身に着けていたというだけで、アジャメのサングラスが「ここでは手に入らないクールなサングラス」に思えてしまったのだろうか。しっかりしてよ、もうまったく。

それにしても・・・ボロい服を着て、中国人だのチンチョンだのシントー(安物の中国製品のこと)だの言われては街ゆく人々に指差される私でさえ、身につけているものは高価に見えるらしいのだから面白い。考えようによっては、外国人である利点を生かして一儲けできるよね。

というか、これで私は一儲けしました(笑)。

スーダンとエジプトの国境(といっても、砂漠の中にポツンとあるだけの町)にあるワディー・ハルファで、夕方出発のエジプト行きのフェリーに乗るため、朝早くから出国手続きだのなんだのかんだのに勤しんでいた私たち。スーダンのお役所作業は毛虫よりもノロい挙句、その日はラマダン真っ最中。普段からノロノロしている毛虫さんがさらにノロくなっていた。しかもスーダンといえば、とんでもなく複雑極まりない(&まったくもって意味のない)手続きを強要することで有名な国。その日も待ち時間をつぶすべく、私たちは躍起になってアクティビティー探しに励んでいた。

ちなみに、アフリカで学んだことの一つに、「何もなさそうな場所でいかにしてアクティビティーを創り出していくか」というものがある。小さな町のバス停で出発まで五時間待たなければならないなどということが、頻繁に発生するのがアフリカ大陸だ。常に発想を転換させ、ほんの小さなことにも興味と面白さを見出す能力が求められるし、また、この大陸に長くいれば、嫌にでもそうした能力は身に着くものだ。人生、得したような気分になるよ

でもさ・・・・摂氏五十度の砂漠の町during(しかもラマダン中)では、アクティビティなんか見つかるわけがない。ちょうどそのころ、私のバックパックは不必要なもので溢れ返ってすごいことになっていたため、出国までの待ち時間を使って荷物の整理をしてみることにした。

案の定、次から次へと出てくるジャンキーの数々。キリマンジャロの頂上で拾ってきた石、スワジランドで買ったコショウ、ナイフ、未開封の正露丸、モザンビークの市場で見つけたハイキングシューズ、エチオピアの寒さ対策のために用意したジャケット(当然、海外からやってきた援助衣類の垂れ流しね)、石鹸、etc…. 貧乏性のアドレナリンが働き、これら全てを捨てるのはもったいなすぎて私にはできなかった。そこで、道端に布を敷いてどこででもお店を始めてしまうアフリカン精神にヒントを得、とりあえず冗談半分で売ってみることにした。気分はすっかり寅さんだ。

商売を始める前からすでに、道端でゴロゴロしていたおっさんたちがこちらの様子を興味深そうに見つめ始めた。通りすがりの人に英語で「見てってよ!!安いよ!!」と言っても、???な顔をされるだけだったが、だんだんと好奇心旺盛な子どもたちや若者が集まりだしてきた。ひとたび人が集まると、私たちのスイッチは完全にオンになる。「これ、全部五ポンド(約二百円)!!五ポンド五ポンド五ポンド!!!」だんだんとお祭り騒ぎが始まり、やる気のやの字もないようなスーダン人が、ようやく重い腰を上げて集まりだしてきた。こうして、どう考えても売り物になんかなりえないようなシロモノの数々が、次から次へと買われていった。当然、みんな最初は「これ、大丈夫なのかよ・・・」といった表情を浮かべるのであるが、それでもお金を出して買い取ってくれるのである。

もしも私たちが外国人では無かったら、こんなことはまずは起きなかったであろう。

私たちが商売をしていたときに、非常に親切なおじさんが二人現れた。

最初のおじさんは、黙って私たちに大きな傘を貸してくれた。言葉が通じなかったのが残念だが、容赦なしに照りつける砂漠の太陽を指差し、傘を使うようにしきりに勧めてくれたのである。

二人目のおじさんは、私たちの露店周辺に集まっていたヤジ馬と買い物客から少しずつお金を集め出した。最初はてっきり、彼は私たちが商売をしているまさにその土地の所有者か何かなのかと勘違いした。「これは俺の土地だ!!」と勝手にぶちまけては、お金を集めようとする手のTIA商法には何度も遭遇してきたため、心の中では「ああ、この人はきっと、このあと私たちにもお金をせびるつもりなんだ・・・面倒くさいなぁ」とグレーな気持ちになっていた。ところが、みんなから集金を終えた彼は、それをそっくりそのまま私たちにくれたのである。見せ物の出演料みたいなものなのかしら?外国人が露店を開いていたのが、そんなに物珍しかったのかしら?金額も相当なものだった。当時の換算で、約三十ユーロはもらったのだから。スーダン・ポンドは、隣国エジプトでさえも両替ができないという話を聞いていたので、そのお金を使い切るほうに頭を使ったけどね(笑)。おかげで、エジプトまで行く船の中では、かなり豪華なご飯にありつくことができましたよ。

アフリカでいつももったいないなと感じていたのは、現地の人の多くが、自分たちがどんな「いいもの」に囲まれて生活しているかということに気付いていないことであった。

たとえば、コートジボワールの市場。私の目には、コートジボワールの地元の市場は宝の山にしか映らなかった。欧米や日本で買うとかなりお値段の張るシアバターが、ここではなにも加えられず、百パーセントそのままのピュアな状態で売られている。色とりどりの美しい布地と、自然のものから作られた化粧品。ここでは、石鹸も油も、何もかもがすべてオーガニックである。一部、中国の工場やインドからやって来た安物が紛れてはいるが、それでも市場が宝の山であることに変わりはない。特に感動的なのは、伝統薬品と薬草である。今後、米の製薬会社がどんどんアフリカの植物市場に介入してくるだろうが、そんなことはつゆ知らず、ボーっとしながら薬草を売りさばくおばちゃんたちを見ていると、行き過ぎた資本主義の波が、彼女たちを直接襲わないことを願わずにはいられない。

魚から植物に至るまで、市場には先人の知恵が詰まった宝物がいっぱい!!

市場の様子。

伝統薬品や薬草を売っているおばさん。


白い石鹸(体や洗濯物用)、黒い石鹸(洗濯のりのような役割を果たす)、そして、赤油。
これらは全て、パームの木から採れたオーガニック製品。市場ではよく見かけます。


ところが、現地の人の多くが求めているのは、あるいは、多くの人が理想としているのは、地元の市場で手に入るような安くて質の高いものではない。もしも可能なら、大型のスーパーで手に入るフランス製品を消費して生活したい・・・これが彼らのホンネである。だから、少しでもお金があれば、値段が高くて質の劣る商品を選択する人が多い。これがトレンドであり、こうすることで、自分たちが社会的にも経済的にも豊かな生活をしているような気分に浸れるからである。

外国人が持っているものならなんでもかっこよく見えてしまうのは、日本人も同じことが言えるよね。もう少し自分たちが本来持つ「いいもの」に目を向けて、そこに価値を見出すことができればいいのだけれど・・・。とくにアフリカの場合、そうしないとどんどん搾取されるだけ搾取されちゃうからねぇ・・・。


2010年6月4日金曜日

コートジボワールの嫉妬と呪い

去年の十二月上旬、シャカとマリーが私たちの家に突然引っ越してきた。ちょうどその頃私はマラリアにやられており、朦朧とする毎日を過ごしていたため、最初はてっきり、二人が私の看病のために一時的にやってきたとばかり思っていた。

この二人は、引っ越してくる前から我が家に結構遊びに来ていた。お互いのことはもうよく知っていたので、彼らが引っ越してきても違和感は何もなかった。二人は、アビジャンから車で一時間半くらいの村に住んでいたんだけど・・・どうしてまた急に我が家に来ることになったんだろう?

マラリアが治り、普通の会話ができるようになったところでその質問をしてみると、こりゃまたTIAなぶったまげアンサーが返ってきた。感情的になって最初に答えたのはマリー。出生届のすったもんだのせいで、「実際は二十六歳なのに書類上は十八歳」な女の子だ。

「このまま村にいると殺される!!私たちの命が狙われているの!!」

アフリカでは、呪術や伝統医療というものが強大な力を持っている。前回のキベキのところに少し書いたが、スピリチュアリティーが人々の生活や社会に与える影響は大きい。そして、ちょっと気に入らないことがあると、悪霊を人の体に投げ込んだり、呪いをかけたりする人が結構いる。魔女狩りも健全だ。これは冗談ではないよ。

よくあるのが、人の顔やら身体を変えてしまうものだ。新聞を読んでいるとよくあるね。「ブタになった女性」だの、「口が突然ひんまがってしまった子ども」だの。それから、信じられないかもしれないけど、とある人の目の精霊(視力)に影響を与え、実際の目がある場所ではなく、後頭部や耳のところにその精霊を動かしてしまう・・・なんていう方法の呪いもあるみたい。どういう状態に陥るかというと、顔に目はあってもそこにはもう目の精霊はおらず(そこからものを見ることはできず)、代わりに、目の精霊が後頭部に移動させられる(なにもないはずの後頭部から、ものを見るようになってしまう)・・・ということね。彼らは、目そのものには見る力はないと思っているの。おもしろいね。

突然ブタの顔になってしまった、フローレンスさんという女性の記事。




私は一度、コートジボワールの小さな町の市場で水を売っていたおばちゃんがあまりにもしつこいものだから、怒って「水なら買わないってさっきから何度も言ってるでしょうが!!!」と言ってしまったことがある。そのとき、おばちゃんが何かを私に言ったのだが、一緒にいた友達曰く、そのおばさんは悪い精霊が私の邪魔をするように、おまじないの言葉を吐き捨てたらしい。そのせいなのかな?その日は車の故障やら渋滞やらで、アビジャンに帰り着くのにとんでもない時間がかかってしまった。

マリーがヒステリーを起こしてしまうのも分からなくもない。シャカがマリーに何が起きたのかを説明してくれた。マリーはその前の週に村で料理をしていたところ、突然倒れてしまったらしい。そして、高熱に数日間うなされ、挙句の果てには病床で叫び出すようになったのだとか。「これはただ事ではない・・・これは悪霊に違いない!!このままでは、あと二日もしないうちに彼女は死んでしまう!!」というワケで、悪霊の除去をする力のある家系出身であるフィリップが家に呼ばれた。

と、ここまで聞いたときに私がツッコミたかったのは、フィリップのことだ。私も何度か村には遊びに行ったことがあったため彼のことは知っているが、いつも、人の話を聞いているのか聞いていないのかよく分からないような感じの人なんだよね。突然イミフなことを会話の途中で切りだしてきては、私を翻弄させる中年のおじさんこそ、私の知っていたフィリップだった。「フィリップって、あのフィリップでしょ?そんな家系の出身だったの!?意外すぎるんだけど(笑)」

フィリップは、普段はあんなだけど、村の人にとっては大切な存在なんだって。村の人たちは、普段は仲良くしているように見えても、そこはやはり狭いコミュニティー。こういった、呪いをかけてしまうだとか、悪霊を誰かの中に投げつけてしまうだとかいうことは、かなりの頻度で起こるらしい。ちょっとした事が大騒動につながったり、嫉妬の炎が水面下でメラメラ燃えていたり・・・。コテコテで深い人間関係こそ、田舎やアフリカの大きな醍醐味であり、魅力でもある。ただ、やはり私は、長期的に住むなら、もうちょっとさっぱりとした人間関係のある場所のほうが気が楽でいいかなぁ。

ただ、悪霊にもいろいろな種類があるから、フィリップが除去できるものとそうでないものが当然あるみたいだけどね。

マリーが狙われたのも、村人の誰かが彼女に嫉妬していたからだ。

Binguiste(コートジボワールのフランス語で、「ヨーロッパから来た人・帰ってきた人」という意味)であるシャカは、コートジボワールに十五年ぶりに戻ってきた際、ある程度予想はしていたが、村の人たちの「金くれ攻撃」に辟易してしまった。でも、やはりそこは、アフリカ男の気質に満ち溢れている彼だ。最初だけは、村の人にお金を少しだけばらまいたりしていたらしい。コートジボワールでは、お金のある人がこういうことをするのは当然のことと見なされているから、お情け頂戴に負けてお金をあげたとか、慈悲に満ちた施しというよりは、シャカはシャカなりに、男としてのけじめを見せたかったんだね。

それでも、やはりだんだんと村の人との物質主義的な関係に疲れてきて、彼らとの距離を置くようになったシャカ。そんな中で、幼馴染であり姪っ子であるマリーとよくつるむようになったのは、彼女が唯一、お金とか関係なしに、本当にシャカと仲良くしたがっていたからなんだって。「マリーが唯一の」って、喜んでいいのか嘆かわしいことなのか・・・。ところが、いつも一緒にいる二人を見て、村の人はマリーがシャカからお金をもらっていると勝手に判断。本当は何も貰っていない彼女からお金をせびり始めたから、今回の騒動は始まった。

もちろん、そんなの火のない煙なワケだから、マリーにしてみたら迷惑な話だ。「お金なんてもらってない」と言い続けても、村の人には「コイツは俺たちと、シャカからもらっているお金を共有しようとしない!!」というように勝手に解釈されてしまう。そして、挙句の果てがこの呪いだ。

ウガンダにいたころ、とんでもない(と当時は感じたが、今となっては普通すぎて特に驚かなくなった)話を聞いたことがある。とあるNGOが、ある村人の鶏小屋の改築だか何だかをしてあげたのだそうだ。といっても、ある特定の個人に対してあからさまな援助活動を行うと、コミュニティー内の人間関係に良くないことなど初めから予想がつくことなので、この鶏小屋のエピソードでは

1.この人が本当に経済的に困窮しており、助けを必要としていた
2.そのNGOが行うプロジェクトで結果を出したから、ご褒美のような形で鶏小屋を改築してもらった
3.その0NGOが単なるおバカなNGOで、援助のその後のその後まで考えないで鶏小屋を改築してしまった

のどれかが実情だったに違いないけど。この結果、今まで(表面上は)仲良くしていた近所の人が嫉妬のあまり、せっかく改築した鶏小屋を放火したというのだから、村社会の嫉妬文化はある意味非常に恐ろしい。

マケレレの学生寮でも、新しいスカートを見せびらかしていた隣の部屋の女の子のまさにそのスカートが、翌日何者かによって切り刻まれていた・・・なんてことがあった。以前にも「見せびらかす文化」について書いたが、目につく分かりやすいポイントというのは特に注意が必要だ。

話を戻そう。(いつも途中で話がそれてしまってごめんなさい)

フィリップが呼ばれると、マリーの治療(?)が始まった。すると、フィリップがマリーの尾てい骨付近に何かを感じ取った。そこにフィリップが口をあてて空気を口の中に吸い込むと、次の瞬間、マリーの肌をスッと通して、フィリップの口の中に小さな石が三つ入っていた。

と、ここで私は、自分のフランス語の会話力がまだまだ足りないがために「マリーの肌を通して」の部分を聞き間違えたのかと思ってしまった。ん??石が人の肌を通るって、どういうこと??

しかし、聞き間違えたのはどうやら私の方ではなかったようだ。本当に石が、肌を通してスッとフィリップの口の中に出てきたというのだから。そして、その瞬間今まで高熱にうなされながらも病床で叫び続けていたマリーが、急に大人しくなって眠ってしまったらしい。

私はその石とやらをこの目で見たよ。一円玉よりも少し小さいくらいの石が、本当に三つあった。この話を信じるか信じないかは人それぞれだと思うけど、シャカはこんな幼稚な嘘をつくようなタイプの人ではない。

シャカのお母さんはパリに住んでいるのだが、パリに住んでいる象牙人コミュニティー内でいざこざがあった際に、やはり異物を体の中に投げつけられたらしい。体調がすぐれない毎日が続き、病院に行ってX線検査をしたところ、お腹になにかの影がはっきりと写ったんだって。そこで、手術をすることになったが、開けてみると、医者は何も見つけることができなかった。仕方がないので、在仏象牙人コミュニティーの中でフィリップのような力を持っている人を見つけ、それを除去してもらったとか。

離れているところから、そんなものを投げつけられる可能性が高い・・・。おまけに、悪霊にもとりつかれるかもしれない・・・。

こういったことの存在を完全に信じることは私にはできないが、あるかないのかと聞かれれば、私はあると思っている。そう考え出すと大変だ。誰がいつどこでどのようにどのようなものを私に投げつけてくるかわかったもんじゃないから、もはや迂闊に、人の機嫌を損ねたりできないではないか!! ってことは、店のおばちゃんの態度が悪かろうと、しつこい人が道端にいようと、もうニコニコして黙っているのが一番・・・ってことになっちゃうのかな?

シャカやアウアやそのほか大勢の象牙人いわく、フランスの大統領がアフリカに来る際にも、彼らには彼ら専用の呪いを解く人(日本語で何て言えばいいのでしょうか)がつくらしいよ。フランスは相当恨まれてるからね。それをフランス政府も自覚しているからこそ、「大統領がこんなので暗殺でもされたら大変だ!!」というわけで、大統領のアフリカ訪問の際には、テロ対策のほかに呪い対策もされるんだって。事実かどうかは知らないけどね。

人間の信じる力というのはものすごいパワーを持っている。マリーやシャカのお母さんの例をあげると、彼女たちの呪いに対する「畏れの力」が強すぎたせいで体がそのように反応してしまったのではないかと私は思っている。アフリカだけではなく、こういうことは世界中いろんなところにあるしね。いつか、これを科学的に証明してくれる人が現れないかな。

多くの外国人は、こういった事象をを単なる「非科学的で原始的かつ子どもじみた迷信」の一言で片づけてしまうが、私は、それは間違っていると思っている。国際機関やNGOがプロジェクトをやる時も、こういった社会的・文化的事情を真剣に考慮した上でやっていかないと絶対に失敗する。

世界は面白い場所だね。まだまだ知らないことが多すぎる!!

2010年5月26日水曜日

ザンジバルのキベキ

小学生の頃こそ、こっくりさんだの学校の怪談だのを信じては本気でビビっていた私だが、今ではそういう類のものは一切受け付けない、典型的な二十一世紀型人間となってしまった・・・ハズだった。そのハズだったんだけどね。ところが、アフリカ大陸で次々に目撃する、科学や「常識」では到底説明のつかないような出来事を目の前に、(スピリチュアルな面で)今日の私はあの頃の自分にかなり近づいた。今は、こっくりさんも学校の怪談も結構信じていたりするよ。こういうのがあったほうがこの世界は面白いしね。

ちなみに、個人的にはスピリチュアリティを再獲得できたことは、それなりにいいこと思っている。畏敬の念とか、何かをおそれる気持ちというものがないと、人間中心な考え方のエゴイズム街道をまっぐらに突き進んでしまうような気がするからね。

インド洋に浮かぶタンザニアはザンジバル島にいたときのこと。結局この島に三週間も滞在してしまった私だが、三週間もいると、島のあちこちに友達ができ、旅行という非日常的な時間をすごしているはずの自分にも、日常生活に近い生活パターンというものが形成されるようになってくる。その日の夕方もいつものように、シューという女の子の家でレバノンポップ(なぜかザンジバル住民の間で大人気)のビデオを見ながら、家族に紛れて団欒していた。すると、叔母さんとお母さんから、「今日の夜はキベキがあるからあんたもいらっしゃい」というお誘いを受けた。

左から、シューのお母さん、シュー、シューの叔母さん



キベキ?キバキ(ケニアの大統領の名前)?カブキ?まあいいや。とにかく行こう。

という訳で、夜の*saa tano(スワヒリ語で「五時」という意味。ということは、私たちの時間感覚では何時になるでしょうか?下記参照)にぞろぞろと家を出た、シューとお母さんと叔母さんと私。きちんと、ザンジバルの伝統衣装に身を包みます。向かったのは、村の外れのほうにある集会所のような場所。男子禁制(らしい)のその場所には、すでに何かの植物の葉(魂の浄化のため)で飾り付けがされており、デデデーンとした体格のおばちゃんたちが、お揃いのカンガ(タンザニアの布。実際はインド製がほとんどだってことはナイショ)を着て煙を炊いているではありませんか。

* スワヒリ語では、私たちの時間と比べて六時間の時差があるの。朝の七時がsaa moja(直訳すると一時)、夜の九時がsaa tatu(直訳すると三時)・・・という具合にね。これは、スワヒリ語では、「日の出の時間が一時(saa moja)だ」という感覚があるからなんですね~。素敵でしょ?でも、スワヒリ語ネイティブの人と約束の時間を確認するときは要注意。Saa ya Kiswahili(スワヒリ時間)なのか saa ya mzungu(ムズング時間)なのかを念押しして何度も確認しないと、ただでさえ二時間遅れてくる人たちなのに、加えて六時間も待つことになる・・・なんてことが本当にあるらしいので。ちなみにちなみに、東アフリカと日本の時差は六時間だから、日本の時間と東アフリカのスワヒリ語時間がまったく同じということになる。スワヒリ語圏を走っている車のほとんどが日本からの中古車である事実を踏まえると、日本車の中にある時計がどれも正確なスワヒリ語時間である理由が分からなくもないね。そう、彼らは、日本から輸入した車に設置されている時計の時刻を、現地時間に直す必要がないってこと。楽チン!!

ムズング時間の私の腕時計と、スワヒリ時間の公共の時計。




しかも、煙の隣には大量のアルコールが!!インド洋交易時代にオマーンの支配下にあったザンジバルは、今でこそ観光地化したせいでお酒の入手が可能になったが、住民が飲酒をすることは絶対にないという話を聞いていたために私は少し驚いた。(あ、でも、ザンジバルで居候させてもらっていた家のお兄ちゃんたちは、金曜日以外は毎晩ビール飲んでたよ。)でもね、アフリカのキリスト教やイスラム教は、現地古来のアニミズムと混ざったりしているせいで結構曖昧だし、そもそもイスラム教は個人と神の契約に基づいている宗教だから、彼らがお酒を飲もうと、なにをしようと、理解できなくはないんだけどね。

とりあえず座って待つこと一時間半。だんだんと人が集まりだしてきて、私のムズング時間の腕時計で深夜の一時をまわったところでいきなり雄たけびが始まった。アフリカやインドを旅した人なら分かると思うんだけど、女性の独特の裏声を使った「オロロロロロロロロ~」のように聞こえる、あの雄たけびだ。太鼓のリズムと、マラカスのような楽器の音も入ってくる。すると、もう既に泥酔してトランス状態に陥っているおばさん三名が、文字通り「お腹の底から」声を振り絞りながら踊り始めた。この踊りがね、もうなんというか。少し離れていても、彼女たちのエネルギーと熱がひしひしと伝わってくるような、そんな踊りだったの。私の周りに座っていた人々も、手をたたきながら一緒に歌っている。ムンムンとする場内。汗で私のカンガもぐしゃぐしゃになってくる。

ザンジバル風の服を着た日本人の図。




一時間経っただろうか。気がつくと、真ん中で踊っているおばさんの人数が、十人くらいにまで増えていた。お酒は次から次へと振舞われるため、だんだんと会場全体がトランス状態に陥ってきた。熱気と汗のせいで、狭い集会所内部の湿度と温度が上がりっぱなしだ。普段お酒など飲まないから、ゲロゲロの人も出てくる出てくる。それでもみんなは歌い踊り続ける。そのうちに居眠りをする人も出てくるのだが、そんな仕草を少しでも真ん中にいるおばちゃんに見られたら大変だ。すぐにお酒を浴びかぶせられ、平手打ちを食らう。そんなおばちゃんたちの意識だって朦朧としている。みんなが一生懸命酔いと眠気と戦いながら、キベキは続く。

隠し撮りに成功した一枚。午前三時半。キベキは盛り上がってきています。



私も何度かお酒をかけられたし、平手打ちだって食らった。そのお陰か、朝の三時や三時半を回る頃には、眠気のピークも超えてハイテンションになってきた。お酒も少し飲んだのだが、気持ちが悪くなる味だったので一口だけにしておいた。だんだんと私のテンションが上がってくると、周囲の人の間にも新たな変化が見えるようになってきた。

魂やら精霊やらが、彼女らの体に乗り移ってきたのだ。

乗り移る??ハイ本当です。本当に乗り移ってくるんです。

こう書くと、おそらくほとんどの日本の方には信じてもらえないかもしれないが、私はウガンダやコートジボワールでも、人が魂やら精霊やら悪霊やらにとりつかれる瞬間を何度か目撃している。厳密に言えば、どの魂がそんな場面で人間に乗り移るかで少しずつ違ってくるようなのだが、原則として、魂が乗り移るときに人がどうなるかというと・・・

1. だんだんと寡黙になり、表情が顔から消える。
2. 焦点が合わなくなる。たまに白目になる。
3. 痙攣を起こす。
4. 痙攣を起こしながらも、何かにとりつかれたかのように(というか、とりつかれているんだけどね)踊るか暴れるかする。
5. たまに、「アーッ、アーッ」だの「ギャーーーーー」だのの叫び声もセットでついてくる。
6. 魂が体から出て行った瞬間に、眠ってしまうか、何事もなかったかのように元の本人に戻る。でもちょっとお疲れ気味。

で、周りにいる人はたいてい、その人の体を押さえつけようとするか、薬草の煙を炊くか、魂を沈めるための各種植物をうちわのようにして扇いで風を送るかするのだ。

この凄みをみなさんとも共有したい気持ちは山々なのですが、このような状況をビデオに撮ることは硬く禁じられている場合が多かったので、ビデオらしいビデオがありません。もしもご興味がありましたら私でよければ再現しますので、メールしてください(笑)。

このキベキの会場では、私以外の人はほぼ全員乗り移られたんじゃないかな。それも、一人ひとり、交代制(!!)で順番が回ってくるのだ。こんな場所に一晩中いたら、スピリチュアルな事象を否定することはもはやできなくなるのも無理はないだろう。事実、私は、自分がいつ乗り移られるのかが怖くて怖くて仕方がなかった。怖かったのは、みんなの体に入り込んでいる魂が、いい魂なのか悪い魂なのかがよく分からなかったからという理由もある。周りにいた人に聞こうとしても、みんなトランス状態でそんな質問に悠長に答えている場合じゃなかったしね。

お酒を飲んでいなかったから大丈夫かな・・・とは心のどこかで思っていたものの、同じくあまり飲んでいなかったシューまでもが乗り移られたときにはビビッたよ。最終的には私には何事もなしにキベキは終わったが、やはり、信じる力というか念じる力というか、人間の心理ってすごいね。私が乗り移られなかったのは、単純に、他の人よりも魂やスピリチュアルな事柄への畏怖の念が弱かったからに他ならないだろう。「病は気から」ではないが、この世界には、科学が説明できないことがまだまだたくさんある。

それにしても、儀式終了後の集会所のカオス加減といったら!!ゲロリンチョとお酒と汗の匂いに、湿気と温度と眠気と疲労と手のひらの痛み(一晩中手をたたいていましたので、トーゼンです)が加わった感じをご想像ください。そして、さっきまで私に酒をかけたり平手打ちを食らわせたりしていたシューのお母さんは普段のお母さん(でもやっぱり疲れている 笑)に戻り、四人で仲良く家路に着いたのでした。

その日の夜、居候先の家に帰ってことの一部始終をザンジバル兄ちゃんたちに話すと、まずはみんなから「え!?なんだよお前、キベキに行ってたのかよ!?sindiyo!? (本当に?)」という反応が。と、ここでようやくキベキに関する説明を英語でしてもらえることになったのであった。

キベキは、もともとコモロ諸島(ザンジバルとマダガスカルの間にある島。今は政情不安定が続いている国の一つ)から伝わる儀式で、精霊を体の中に入れて、浄化をするためのものなのだとか。ザンジバルにイスラム教が伝わる前からあるものだから、この儀式中に飲酒をするのは許される行為であると判断されるんだって。ただし、今は本当は禁止されている儀式の一つ。どんな精霊なのか、いつ行われる儀式なのか、どうして女性だけなのか・・・聞きたいことは山ほどあったが、ザンジバル兄ちゃんたちはあまり知らないようだった。ということは、コモロにいつか行くべきだというご啓示でしょうかね(笑)。

先ほど人間の信じる力のすごさについて少し触れたが、あの儀式が浄化のための儀式であると知った瞬間、なんとなくだが、ムンムンとした集会所から出た瞬間のフレッシュさや、家に帰ったときに体を洗ったときのさっぱり感が、私自身の魂を浄化してくれたような気分になった。まあね、この世界、結局全ては心持次第・・・だもんね。

2010年5月13日木曜日

アミおばさん一家との交流を通して

いつもパパイヤを特別価格で売ってくれている、近所のアミおばさん。彼女の娘のハワは、いつも『ここ』を出る方法について話している。「ここ」というのは、近所のコミュニティーのことであり、アビジャンのことであり、コートジボワールのことであり、そして、彼女にとってはアフリカそのもののことであるらしい。「ここは毎日が同じことの繰り返し。だから私は、l’autre côté du monde(世界の反対側)に私はどうしても行ってみたいの。」へぇ、行ってどうするの?と聞くと、「まずはとにかく、違う世界を見てみたい。」だって。私にはこの気持ちが痛いほど分かる。周りの女の子がジャニーズの雑誌に夢中になっていた中学時代、私はというと、草野仁さんが宣伝していた「週刊ユネスコ世界遺産」なる渋い雑誌を購読しては、毎晩空想の中の世界旅行に出かけていた――栃木の田んぼにいた頃の私は、そんな子でした(笑)。

ハワの母親であるアミおばさんと私は、なぜか知らないけどすごく気があう。彼女はいつも、近所では一番大きくて質のいいパパイヤやパイナップルを売っていた。仕事をしていた時は結構ストレスを溜めていた私だが、毎晩仕事帰りにアミおばさんのところに寄って、パパイヤを食べながら色んな愚痴を聞いてもらうのが日課となっていた。もはや彼女は、そこらの銀座のママよりも何枚も上手だよ。



パイナップルをむいてくれるアミおばさん。コートジボワールでは、パイナップルは桂剥きにします。



もともと彼女は、リベリアとの国境近くの出身なのだが、2002年に始まった内戦中に、旦那さんが突然蒸発してしまったらしい。よくある話だ。彼が反政府軍に騙されて連れて行かれたのか、洗脳されて行ってしまったのか、自ら志願して行ってしまったのか、果ては誘拐されたり殺されたりしてしまったのか。本当のことは誰も知らないし、知る術もない。とにかく彼女は、内戦を逃れて・・・というよりは、旦那さんが突然いなくなったせいで生活に困窮してしまい、子どもたちと一緒に仕事を求めてアビジャンへ流れ着いた。アビジャンへ来る交通費とこの街の物価の高さは、彼女にとっては相当な負担だったに違いない。まずは物乞いから初めて、少しずつお金が貯まったところで彼女は果物を売る商売を始めた。今では小さな家もあるし、扇風機やテレビだって持っている。

彼女いわく、生きることとは基本的には苦しいことであり、その中でいいことがあれば、その人は本当にラッキーなだけらしい。最初から幸福な人生を送ることが前提となっていて、思うようにことが進まなくなった途端に絶望してしまう日本人とは、考え方がだいぶ違うね。「やりたいことができた」「食べたいものが食べられた」「終わらせたい手続きが終わった」これだけですごくラッキーなのだから、それ以上は望んだらいけないし、このうまくいっている状態を「当たり前の状態」と思うなんてとんでもない。本当にうまくいかないと思ってら、とりあえず笑いながらうまくいかない方向にとことん流されてみるのが一番の方法。結局はアッラーの意思によってしか事は進まないのだから。

この彼女の言葉は、仕事ごときでイライラしていた私にはかなり大きく響いた。なんというか、すごく強いというか深いというか逞しいというか。

ただし、彼女に関することで、私が最後までどうしても理解できないことが一つだけあった。それは、ファンタのこと。アミおばさんには六人の子どもがいて、そのうち、冒頭に登場したハワと、七歳のナストゥーがアビジャンで一緒に暮らしている。他の子どもは自立したか、村にいる親戚の家に預かってもらっているんだって。ファンタは十一歳で、アミおばさんの妹さんの子どもらしい。ただし、アフリカの人が意味する「妹」が、必ずしも日本人の意味する妹と意味が一致しているわけではないので要注意だ。ここでは、従姉妹も姪も、みんな「妹」扱いになる。

ハワは、幼いころにファンタの母親に当たる人の元に預けられ、そこで八年もの時間を過ごしたそうだ。学校にも行っていたし、家でもファンタの兄弟姉妹と同じように扱われ、みんなで一緒に育ったとハワ本人が言っていた。「だから今度は」とアミおばさん。「だから今度は、en échange (その代わりに)ファンタがウチに来ることになったんだよ。もうかれこれ二年になるね。」

ところが、「en échange」とは言っていたものの、アミおばさんのファンタへの扱い方に、私はいつも疑問を抱かざるを得なかった。なぜなら、まるでファンタを取り巻く日常が、漫画やドラマみたいなんだもん!!

まず、ファンタは学校へは行っていない。これについては「二年以内には必ず行かせるよ。ファンタも学校に行きたがっているし、ちゃんと教育は受けないとね。」と、アミおばさん。「でも、今はお金がないし・・・それに、あの子の村の役所では、なかなかファンタの出生証明書を発行してくれないんだよ。書類がないと、入学の手続きができないくらい、あんたも知ってるでしょ?」

心なしか、ファンタはいつも、ちょっと影のある顔をしていた。元々シャイな子なんだけど、たまに本当にね・・・私の考えすぎかもしれないけど、こう、人を心配にさせるような表情を浮かべるの。ナストゥーがお昼寝をしたり友達と遊んでいる間には、ファンタはアミおばさんの果物売り場で店番をしたり、掃除をしたりしている。ナストゥーがハワやアミおばさんの腕に抱かれて甘えているときには、ファンタは無表情にその光景を眺めている。お菓子を食べているのはいつもナストゥーで、ファンタがビスケットや飴を頬張っているのを私は見たことがない。それに・・・それに、外向的で近所のアイドル的存在のナストゥーが、ファンタに対してちょっぴり意地悪というか、無意識のうちに二人の間に「お姫さまと付き人」のような関係が出来上がっていることに、私は気付いた。

よく働くね、ファンタ。

店番中のファンタ。



周りに大人がいないタイミングを見計らってファンタに事情を聞いてみようとしても、彼女はいわゆる模範解答しか私に話してはくれなかった。「学校に行きたくないの?」「私はここで果物を売っているほうがいいの」「ナストゥーとは一緒に遊んだりしてる?」「ナストゥーはすごくいい子よ」「村には帰りたい?」「・・・でも、今はここにいる方がいいから・・・」 余談ですが、こういうセンシティブな質問の仕方や人の心をオープンにする方法、もっと勉強したいです。

でも、こんなファンタもやっぱり子どもだなぁと、安心させるエピソードが一つだけある。クリウマスが近づくある日、こっそりと彼女は私に、プレゼントのお願いをしてきたのだ。ファンタはウスリムだけど、アビジャンでは、宗教の違いを超えて、クリスマスにプレゼント交換をする人が増えているみたいね。

他人の家の事情にあまり首を突っ込むのはよくないし、アミおばさんのような強い人を相手には無意味なことであるから何もできなかったけど、私のような立場の人間は、ああいう場面ではどのように振舞うべきだったのだろう。今でも考えてしまう。ファンタが実際に家の中でどういう扱い方をされているのかは、私には本当に分からないことだった。近所の他の人は、みんな知っていたのかな?何でもオープンなアフリカンコミュニティだけど、暗黙の了解の存在感が高いのもまた事実である。私には、この「ファンタ問題」が、近所のコミュニティー内での「触れてはいけない部分」の一つであるような印象をずっと受けていたのだが・・・考えすぎかな。

親戚の家で育つ子どもや「とり替えっ子」は、決して珍しい存在ではない。マケレレ大学の留学生担当(←名前ばかりの担当者)の職員も、エイズ孤児である自分の甥や姪を引き取って自分の子どもと一緒に育てていたし、今や日本の大学で勉強しているR君も、ウガンダにいた頃は友達の家族のところに居候していた。居候っていう言葉とは少し違うような気がするのだが、日本感覚でいうとそんな感じであるため、あえて「居候」という表現を使った。実際は、もうその家族が彼にとっての「家族」であり、その家族の大黒柱であるお母さんはR君のことを「自分の息子」と呼んではかわいがっていたけどね。

スワヒリ語をはじめとする多くのアフリカ言語では、叔父さんや叔母さんという単語がなく、みんな「お父さん」「お母さん」と一緒になてしまう。この例からも分かるように、この大陸では、「子どもはみんなで育てる」「みんなが子どもの親&どの子どもも自分の子」が基本である場合がほとんどだ。あの広い大陸のだいたいどこに行ってもこの傾向にあるらしいから、結構素敵だよね(笑)。ただし、今は都市部の中産階級を中心に、アフリカでも核家族化が進んでいる。彼らの多くは、一人ひとりの子どもにきちんとした環境や教育を提供したいと考えており、子育ての方針もかなり西洋的だ。コートジボワールで一緒に働いていたデニーズは、自宅に、二人の息子の個別の部屋を設けている。一つの部屋で大家族が一緒に寝るのが当たり前という社会で の彼女の方針に、最初私は驚いたが、よくよく考えてみると、ウガンダにもいましたいました、こういう人。anywayこうした新しい子育て方針のもとでは、一人ひとりに莫大な投資をすることが必要となってくるから、たくさんの子どもを育てるという選択はあまりしたがらない。(とは言えども、やはり文化的にはアフリカンなので、日本よりもそういう部分ではかなり寛容的だ。)

典型的なアフリカの元気なおばちゃんであるアミおばさんは、中産階級でもなければ(統計上は貧困層とまではいかなくても、貧しいほうに分類されるはず。家にテレビあるけどね)、価値観は完全に「うちの子どもはみんなの子」タイプの人である。それでも、あれほどまでに、自分の生んだ子とそうではない子を分けている。もちろん、世の中には色々な人がいるから、彼女のような人が少なからずいるのは当たり前のことだけど。

どんなに地元の人と仲良くなっても、こういうときに突っ込んだことを何も聞けない自分は、所詮は部外者なんだなと実感せざるを得ない。聞けたとしてもどうせ、あのようなシチュエーションでは、場を取り繕うような嘘の答えが返ってくるだけ・・・なんてのは簡単に予想できたし。たかが半年の付き合いではなかなか心の奥の奥まで開いてもらえないものだ。複雑に絡まった家庭事情を、そしてその背景にある社会と文化を理解するなんて、短期間では到底無理ね。

もっと時間をかけて信頼関係を作り上げれば、アミおばさんタイプは、裏のウラまで「もういいよ・・・」ってぐらいにぺちゃりくちゃりと何でも話してくれるものなのですが(笑)。

私にできることは、ファンタが幸せになってくれること・・・そして、アミおばさんが本当にファンタを学校へ行かせることを願うだけ。やるせないです。

2010年5月12日水曜日

地名とポストコロニアリズム

ビクトリア湖、ビクトリアの滝、リビングストン、シャルル・ド・ゴール大通り、ミッテラン通り―。これらの共通点に気づいた方は手を挙げてくださーい。

これらはすべて、実際にアフリカ大陸に存在する地名です。シャルル・ド・ゴールに関しては、ほとんどの旧仏領の国の主要都市には必ず存在しているんじゃないかな。今、世界中で少しずつだけど、「外国人によって押し付けられた地名を現地語の名称に変えましょう」運動が起きているよね。インドでは、マドラスがチェンナイになったり、カルカッタがコルカタになったりしているし、エベレストも、サガルマータだのチョモランマだの色々呼ばれるようになってきている。果たしてアフリカは・・・名称変更する気はあるのでしょうか(笑)。ビクトリア(イギリスの女王)、リビングストン(イギリスの宣教師)、シャルル・ド・ゴール、ミッテラン(ともにフランスの大統領。別名、フランスのネオコロニアリズム政策の中心人物)・・・これって全て、かつての支配者側の名前をそのまま使っているだけだよね?いいのかアフリカ、こんなんで悔しくないのか!!

もしも浦賀が「ペリータウン」で、厚木が「マッカーサーシティ」になっていたら、私は毎日デモをしていることであろう。

たかが地名ごときで、そこまで神経質にならなくても・・・とお思いになる方もいらっしゃるかも知れないが、名称って、アイデンティティを構成したり、自己を認識する上で、本当に重要だと私は信じている。前にも少し書いたかもしれないけど、私は「アフリカのスイス(ルワンダのこと)」やら「日本アルプス」に見られるような「○○の△△」という名称があまり好きではない。どうしてスイスが「ヨーロッパのルワンダ」で、アルプス山脈が「ヨーロッパの木曽山脈」だとダメなのか、という話だ。

という訳で、今回は珍しく(?)手短に、アフリカの地名に関することを書きたいと思います。最後の部分が少し本題から反れるけど、笑って許してくださいね。

西アフリカのギニア湾には、「黄金海岸」「穀物海岸」「象牙海岸」「奴隷海岸」とヨーロッパ人に呼ばれる場所があった。何という自分勝手なネーミング(苦笑)。「この辺は穀物をたくさん輸出できるから、今日からここは『穀物海岸』だ!!」みたいな?ふざけてるね。ガーナはイギリス植民地時代に「黄金海岸(Gold Coast)」と呼ばれていたが、独立の際に名前をアフリカ風に変えようということになって、ガーナになった。一方のコートジボワールは、「象牙海岸(Côte d’Ivoire)」がそのまま、しかもフランス語のまま、国の名前になってしまった。アフリカの植民地解放・独立運動のリーダー的存在だったガーナと、おフランスをそのままコピーしようとしたコートジボワール。隣国同士だけど、
考え方によって国名がこんなにも変わるものなんだね。ジンバブエやブルキナファソも、かつては「ローデシア」「オートヴォルタ」と、植民地時代から受け継がれていたヨーロッパ言語による地名が国名に採用されていたけど、ムガベ(言わずと知れた、ジンバブエの現大統領)やサンカラ(ブルキンファソの元大統領。アフリカのチェ・ゲバラ的存在)が力を握ってからは、「アフリカ風にしようぜ!!」ということで変わった。国名が変わっていないのはコートジボワールくらい。こんなこと言うと怒られちゃうかもしれないけど、私はコートジボワールというネーミングはかなりセンスの悪いものだと思っている。まぁ、今更国名の変更ってのも微妙だけど。

コンゴ民主国の首都であるブラザヴィルや、ガボンのフランスヴィル。これも、マジで最低な名前だよ。ヴィル(Ville)とはフランス語で「街」という意味だから、直訳すると、ウラザヴィルは「ブラザの街」、フランスヴィルは「フランスの街」っていうことになる。ブラザっていうのは、コンゴ民主国を「探検」し、後のブラザヴィルとなる村を「発見」したフランス人の名前。うーん・・・。ちなみにブラザヴィルには、今日もブラザの銅像がたっているらしいです。この話を聞いて、「ウソやん!!」って思ったけど、どうやらこれは本当の話のようです。


ブラザヴィルにブラザの銅像についてネットで調べていたら、こんな写真を発見しました。
なんなんでしょう、このセンスの悪さ&この無駄に大きなサイズ。
コンゴ民主国は今年の8月に独立50周年を迎えるわけだけど、どうして片づけないのかしら。


お隣のコンゴ民主共和国の首都であるキンシャサは、植民地時代はレオポルドヴィルと呼ばれていた。レオポルドというのは、あの広い国土のコンゴを「私有地」化したベルギーの王様の名前ね。コンゴの近現代史は相当なドロドロ具合でも、この名前にnonを突きつけたのが、モブツだった。私の知る限り、この名称変更が、彼の行った数少ない(というか、唯一の??笑)良い政策のうちの一つである。

ブリュッセル郊外には、王立中央アフリカ博物館という最低の博物館があるの。ここね、本当にひどいよ。展示の仕方や説明の仕方に植民地主義の色が強く反映されまくっているし、何よりも、レオポルド二世の銅像が堂々と建っているところにツッコミだね。あまりにひどすぎて、行く価値大です。是非とも、コンゴの歴史についていくらか知識を得てから行ってみてください。面白さが100倍になります。

最低の博物館といえば、パリにあるケ・ブランリ美術館もひどかったなという印象を受けた。去年の夏に初めてここに行ったとき、les arts des civilisations primitives(「原始文明芸術」って訳せばいいのかな?)の衝撃の文字が、この美術館の名前の横にデカデカと書いてあるのに非常にショックを受けた。ただし、この前改めてケ・ブランリのホームページを見たら、どこにもそんなことは書かれてなかったから、きっとこの名称をやめたんだね。アビジャンの家で一緒に住んでいたシャカは、「あの泥棒美術館は、シラク主義の総本山だ!!俺たちは見世物ではないし、シラク主義の色眼鏡を通した世界なんてインチキだ!!」と酷評していた。この言葉に私も同感だ。この美術館の主催者や表現者が、そこに展示されている展示品の多くをかつては(というか、今でも)野蛮なものとしてしか見なしていなかった事実を考慮すると、ケ・ブランリにまつわる議論が白熱するのも理解できる。

しかもね、ここ、展示物が陳列されているだけで、説明がかなり不足しているというか。だから、一周して見終わっても、「ああ、エキゾチックな美術館だったね」で終わってしまう。あんな並べ方で、この美術館の訪問者のうちの一体何割が、展示品を芸術として鑑賞し、展示品についての理解を深めることができているのだろう。

地名もそうだけど、美術館や博物館の表現の仕方って、すごくセンシティブで政治的な問題だ。ただ、特定の文化や勢力間の「ホンネの事情」を感じ取るために、イライラはするけれどもこれほど面白い場所はないね。

アフリカ各国でも、博物館には結構足を運んだよ。中には管理の状態が悪くて、クモの巣がかかっている展示物も紛れているけど、博物館のスタッフが提供してくれる情報量は、やはり、ヨーロッパにあるアフリカ博物館なんかよりもずっと豊富だ。ヨハネスブルグにあるアパルトヘイト博物館やキガリにあるジェノサイド祈念館、カイロ博物館は、かなり評判いいよね。個人的には、コートジボワールのGrand Bassamというところにある「衣装博物館」や、アジスアベバにある国立博物館、南エチオピアのJinkaというところにあるSouth Omo Museumが結構好きだった。なので、これらの場所に行く機会があったら是非行ってみてください。衣装博物館には、アントニオというおっさんが働いていて、去年の秋に生まれた彼の娘さんの名前はアキちゃんです。っていっても、コートジボワールに秋もへったくれもないんだけどね。常夏なので。アントニオに「ナツノを知ってる」って言えば、ビールと魚とアチャケ(キャッサバでできたクスクスのような食べ物。ハマります)を奢ってくれるかも??笑