2009年12月19日土曜日

Power to the people

これもね、日付を見ると、2007年の11月5日に書いた文章だね。ウガンダに到着したのが8月中旬だから、前回書いた「生まれ変わるぜ宣言」と同じ頃に書かれた文章だね。

今でも似たような考え方は持っているけれど。なんだかこの論文になりきれていないクセにバカにまじめな口調で書かれている文体が、何ともいえないね(笑)。今の私が書いている文章だって、きっと二年後に読み返せば、「あぁ、若かったんだなぁ」と思えてくるんだろうけど。

この堅苦しい(?)文章からは、当時、それはそれはうんざりしていたウガンダ的メンタリティーに対するストレスや、マケレレ大学に対するイライラを、「より冷静に、よりアカデミック(?)に分析しよう」と試みている二十歳の自分の姿が浮かんできます。冷静に、アカデミックになっているのか?という話ですが。これでもあの時はね、それはそれは毎日一生懸命考えて、必死に生きていたんだよ。本当に今思うと精神的に病んでたなと思う(笑)。

そういえば、ここに書いてあるロビーとは、この数ヵ月後から音信不通になってしまったが、元気でやっているのかな・・・。



 Power to the people!!

 ジョン・レノンの歌の中で一番好きな歌だ。Imagineのメッセージも共感するけど、power to the peopleほどに、心にストレートに響いてくる歌はない。アフリカの人々を想う時、必ずこの歌がBGMとして頭の中で流れてくる。そして、オノ・ヨーコさんとお茶でもして、友達になってみたいような気分になる。ジョンとヨーコは、現代アフリカのこの状況をどう捉えて、どんな音楽を作り出すのだろう。

Powerとは何だろう。日本語では権力と訳されるが、powerという言葉には、もっとこう、強くパァッと光るような、そして体の奥底からにじみ出てくるような何かを私は感じる。権力の持つ、いやらしくドロドロしたニュアンスを感じさせない。それがpowerだ。

Powerについて考えるとき、私のイマジネーションはオレンジ色になる。そこには、様々な種類のオレンジ色が存在している。赤に近いオレンジ、黄色に近いオレンジ、朝日のオレンジ、夕やけのオレンジ。そして聞こえるのは、人々の歓声と拍手である。Powerを人々に!!だなんて、素敵だ。

Power to the people!!これを実現させるには、何が必要なのだろう。まずは教育だろう。知識と思考ほど、強いpowerを一人の人間に与えるものは存在しない。一人ひとりに自信を植え付け、意識を高めさせ、権力(この場合はpowerではなくて、権力)のかたまりと戦う勇気とエネルギーをもたらす。ウガンダの人を見ていて気がついた。なぜ、俗に言う「貧しい人」は自分のことを否定的にしか見られないのか。なぜ、農村で暮らす文字の読めない人々は、都会から来た人や外国人をそこまであがめるのか。理由は、お金でも地位でもない。彼らの中に存在する、劣等感と自信の欠如にあるのだ。福澤諭吉は「天は人の上に人を作らず・・・」という有名な言葉を残したが、彼がなぜそれを『学問のすすめ』で記したのかが、最近になってようやく分かったような気がした。学問がある限り、自分の頭で物事を考える限り、そしてそれに対して正直に生きる強さを持っている限り、人間は皆平等なpowerを持ち得る。教育を受けているだけで、それ自体がpowerになる。

人間の持つ探究心は無限であるため、一度何かを知ると更なるpowerが生み出される。このpowerは、一人の人間の生きる希望・人生の意義、または個々人の自信となっていく。ウガンダで学生をやっていると、こういったことを、残念ながら反面教師として学ぶことができる。

しかし、powerの確立のために、教育と同じくらい必須なのは情報だ。情報へのアクセス、それも、ある特定の視点に基づいた情報のみではなく、様々な情報がここでは必要となってくる。それらを分析し、批判し、自分のものにすること。これが非常に大切である。情報が直接powerになるのではなく、知識や思考といった形に一度姿を変えて、そしてそれらがようやくpowerとなって、一人ひとりの中で効果を発揮するからだ。情報がそのままpowerになってしまうようでは、人間と情報の力関係が逆になり、私たちは情報に支配されるようになってしまう。戦時中の日本など、その典型ではないだろうか。

テクノロジーの発達のおかげで、私たちはインターネットという道具を手にした。これは、本当に劇的な進歩である。今までは情報は「受け取る」ものであったが、もはやそうではない。これからは、情報とは「探し出す」ものであり、「発信していく」ものである。そして、その情報へのアクセス権が、社会の隅々まで急激に浸透してきている。それまではpowerのなかったような人々にも、情報を手にする機会と方法が現在ではある。知識と思考を身につけ、自信を高め、powerを自分たちの手で作り出すという環境は、もはや完成しつつある。

先日知り合った南アフリカ人ジャーナリストのロビーは、ネットテレビプロジェクトを通してアフリカに変化をもたらせたいと考えている。これは、まずはアフリカの人々から発信される情報によって、アフリカの人々の内的なpowerを高めることに目標を置いている。それだけではない。ゆくゆくは国際市民社会のアフリカを見る視点も変えることで、世界の、アフリカに対するお決まりの視点を克服し、世界中の人の内的powerのバランスをとろうとする壮大な計画だ。

「この大陸では、一人ひとりの個人が『気づき』、powerを所有しないことには何も変わらない。権力や組織はもううんざりだ。」そう強く言う彼は、20年以上も前からこの案を温めてきた。数年前にようやく友人の技術者やジャーナリストと実質的にプロジェクトを始動させ、今後はこれを生涯の仕事とする覚悟であるという。

インターネットというテクノロジーが人々の意識を変え、それによってゆくゆくはアフリカ全体がダイナミックに変化する――。ノーベルは、人類に多大な恩恵をもたらすことを期待してダイナマイトを開発した。結果的に、それは一部の人々に悪用され、彼の発明品は人を殺す目的で多用されるようになった。インターネットは元々、軍事目的で米軍によって開発された。しかしそれが今では、人類にポジティブな変化をもたらす目的で使われようとしている。当然、間逆の作用も存在するが。だが、何をきっかけとして物事がどこでどうなるかなど、分からないものだ。

私は、ロビーの高い志を尊敬する。彼の言っていることはもっともであり、これはここで実際にある程度の期間生活してみないとつかめない感覚だとも思う。しかし、インターネットによる万人のpowerの形成には、やはり限界があるようにも感じる。例えば、ネットカフェが溢れている都市部と電気さえ通っていない農村部。現在行われているような農村部を置き去りにした形の開発政策が今後も続くようでは、powerの二極化は避けられないだろう。電気を引くのもネットカフェをオープンするのも農村の人々ではなく、政府、またはある程度の資金力を持った人であることを考えると、この時点でpowerを作り上げる土壌・機会が不均衡であり不平等であることは明らかだ。

様々な落とし穴が介在してはいるが、そうは言え、ロビーの壮大な計画は実現すると私は信じている。社会のpowerは個人に属していなければならないし、社会変革を実現することができるのは他でもない、powerを手にした個人であるからだ。汚職にNoを突きつけるのもpowerを手にした個人であるし、自立した国を築き上げていけるのも、そんな強い人々が集まって始めて実現できることだ。

ウガンダは、これから本当に変わっていくのだろうか。

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