2008年11月16日日曜日

言語について

首都では看板だって全部英語。地方に行けば、少しは現地の言葉も増えてくる。
この信号、日本政府の援助したものらしいんだけど・・・よく見ると、行き止まりなのにまっすぐ方向に矢印のランプがついてる!!
近所の市場の人々。英語も話せたけど、ガンダ語をたくさん教えてくれた。

ウガンダの公用語は英語だ。しかし、他のどのアフリカ諸国と同様、ウガンダには多くの言語が存在する。中央部のガンダ語、北部のアチョリ語、西部のニャンコレ語、といった具合だ。ウガンダ全土から人が集まってくる首都カンパラでは、誰がどこの民族出身だかが分からないため、みんなお互いに英語で話す。市場のおばちゃんやスラムに住む人々など、ローカルな人々はガンダ語を使うが、首都では英語もある程度はみんな話せる。お店も役所も学校も、英語が使われている。

我がマケレレ大学では英語以外の言語を全くもって聞かなかった。授業はもちろん、学生同士の会話も英語だけなのである。ルームメイトのジョアンとヴィッキーは、二人ともガンダ語が話せるはずなのに、この二人がガンダ語で会話をしているのを私は聞いたことがない。ヴィッキーはよくお母さんと電話で話していたが、聞いた限りでは家族内の会話も英語である。彼女の家族はお金持ちであるからなのだろう。ヴィッキーに理由を聞いてみたところ、幼いころから親が徹底して、家では英語を話すようにしていたのだとか。

このウガンダ英語、発音にあまりにもクセがありすぎて、最初は苦労した。フランス人が話す英語よりも分かりにくい。以前、フランス人の友達に「アシコー前で会おう」と言われて頭の中が???になったことがあったが、ウガンダ英語は?の数が三つではなくて、百個ぐらいだったのではないだろうか。(ちなみにアシコーとはハチ公のことであった。HACHIKOと書いて、確かにフランス語読みではアシコーと発音するのである。)例えば、「キャ・キュ・キョ」の音が「チャ・チュ・チョ」になることが多く、TOKYOがトチョーになるのだ。「トチョーはどんな場所だい?」と聞かれて、最初は、「おお、このウガンダ人は都庁のことを知っているのか!!すげー!!」と感激したものだ。また、Gの音にもクセがあるために、NGOを「エヌギーオー」と発音したりもする。

特徴的なのは発音だけではない。言い方や言い回しも独特だ。「You are lost」と言われると、アメリカやイギリスでは「あなたは迷子になっている」という意味になる。ところがウガンダでは、これは「しばらく会ってないね」という意味なのだ。三日も会っていない友達に会うと、「アイヤイヤイヤイヤー。You are lost!!」と言われたものだった。

また、レゲエのようなテンポ(上手く説明はできないが、私は常に、ウガンダ人の英語のテンポは、ボブ・マリーの名曲“No Woman No Cry”のそれであると思っていた。)でとてつもなくゆっくりと喋る。そして、そのクセにものすごく話している内容が失礼なのだ。これは失礼になろうと思って失礼にしているのではなく、西洋や日本の感覚で彼らの話し方を聞いていると失礼に聞こえるだけなのだが。現地の言葉を直接英語に訳すると、どうしてもこうなってしまうようだ。例えば、Pleaseをあまり言わないし、命令的で押し付けがましい。お店に行って、探しているものが見つからなかったとしよう。店の人に聞いてみても、こんな返事が来るのがオチだ。「We don’t have that. You go to another shop and buy it.(ここにはないよ。別の店にでも行きなさい。)」私は高校時代にオーストラリアに留学していたが、オージーは決してこんな言い方はしない。日本ほど丁寧ではないにしろ、在庫がないことに対する謝罪の言葉を述べ、そして探し物が見つかりそうな別のお店について教えてくれるのが普通だ。また、ウガンダ人が私から何かをもらいたがっているとしよう。普通は何かをくれとお願いしているのだから、お願いする人が腰を低く、丁寧になるものである。ところが、全てのウガンダ人ではないものの、多くの人はこう言う。「You give me your ○○○.(その○○○を私によこしなさいよ)」Youの部分を一番強く読むことがポイントだ。

正直ムカツクのだ。例え相手に悪気がなくても、それが現地の言葉の直訳であるから仕方がないと頭では理解していても、こんな言い方をされ続けるとムカツクものはムカツク。しかし、それをボブ・マリーのテンポで言われると、怒っているのが馬鹿らしくなってきて、もはやどうでもよくなってくるのだから不思議だ。

エリート層の英語は植民地時代のイギリス風だ。私は植民地時代のイギリス人についてなにも知らないが、常に格式ばって、やけに難しい語彙や文法ルールを会話中に使うエリートに対しては常に疑問を抱いていた。それをあるアメリカ人に話したら、彼は、植民地時代から英語があまり変わっていないからだと教えてくれた。

日常生活の中の会話であれば、分からないところはその場で質問できるから問題ないが、授業中に先生が話す英語にはお手上げであった。特に留学当初、「郷に入れば郷に従え!!」をモットーに現地の授業に溶け込もうとしていたころ、先生の英語がまったく聞き取れなくて書き写しができず、おかげで私のノートは空白だらけになってしまった(こちらでの授業は先生の言葉の書き写しオンリー)。当時書き写したノートを見てみると、livingがleadingに修正されていたりしている。木を見るよりも森を見よ。少しぐらい分からなくたって、大まかな意味が理解できていればそれでいいはずである。しかし、書き写し中心の授業ではそんなことは言っていられない。なにせ、コンマやピリオドひとつにこだわるような授業なのだ。単語を間違えていたら、もう大問題だ。留学生活の途中からは、そんな無駄極まりない授業中のノートテイクをあきらめ、最初からクラスメイトにノートをコピーさせてもらうようにしたが。

私は当初、スワヒリ語が学びたかった。留学先を決めるときにウガンダ社会でのスワヒリ語の位置づけを知っていたら、タンザニアに間違いなく行っていただろう。外務省のホームページを見てみると、ウガンダの言語は「英語・スワヒリ語・その他言語」と書かれている。あんなの大嘘だ。

ウガンダ北部に行ったとき、バスで隣に座っていたおじさんにこんな話を聞いた。

かの有名な恐怖政治を行い、ウガンダを混乱のどん底に陥れたイディ・アミンの時代、彼は「アフリカ化」を目指してウガンダ国内にいたアジア人(インド人など)を追放した。そして、人だけではなく言語もアフリカ化しようとし、英語からスワヒリ語へと国語を変えようとした。この政策、モブツ時代のザイール(現在のコンゴ民主共和国)でもあったようだが、人々にとっては迷惑な話である。第一、スワヒリ語とはもともとアフリカ大陸のインド洋沿岸地域の言葉であり、ガンダ語などのバンツー系のほかの言語と少し似ている部分があるとはいえども、ウガンダの人にとってはまったくの外国語であるからだ。アミンは、まず自分の軍隊の言語をスワヒリ語とした。軍隊から徹底させようとしたのだ。しかし、彼の軍隊は人々を虐殺したり略奪したりとやりたい放題だったため、人々はスワヒリ語に対して嫌悪感を抱くようになった。現在でも、その時代を知る人は特にであるが、ウガンダ人はスワヒリ語に対してあまり良いイメージを持っていない。 まぁ、スワヒリ語を東アフリカの共通語として肯定的に捉えている人も多いけどね。


内戦が終わったばかりの北部ウガンダや、未だに混乱の渦中にある東部コンゴや南スーダンでは、今でも一部でスワヒリ語が使われている。これは反政府勢力の影響があるようだ。実際に北部ウガンダに行ったときにバスで隣に座ったおじさんがスワヒリ語を話す人だったが、彼は若いころに反政府勢力と関わりを持っていたらしい(上に書いてあることも、このおじさんをはじめとするいろんな人に聞いたこと。専門知識のある方から見て、これが本当なのかどうかは疑わしいけど・・・)あまり詳しくは話してくれなかったが、そのときにゲリラ軍の中でスワヒリ語を学んだのだとか。

アフリカについての本を何冊か読んでいくと、言語がエリート層とそうではない人々を分ける要素になるという話がよく出てくる。これがどういうことを意味しているかというと、エリートや都市部の人々は英語やフランス語を使い、その他の人は現地の言葉を使うため、社会が分断されてしまうということである。これは本当だ。日本にいた当時はこれがどういうことを意味するのか実感できなかったが、アフリカで生活をしていて、これが本当に大きな問題であると感じずにいられなかった。まず、英語やフランス語が話せない人は、自分を表現できる場面が限られている。こうなると、様々な事態が発生してくる。議会はエリートの言語で行われるため、それが話せない人々は政治に参加できなく(参加しにくく)なる。極端に言えば、人々はエリートに言われるがまま生活しなければいけなくなるので、受動的な態度になりがちだ。そして、心理的にも社会的にも、英語やフランス語を話さない人々は、ますます中心から疎外されてしまう。また、国際的に何かを訴えていくときにも、彼らが直接スピーカーとして発言できるチャンスは少ない。


情報のインプットのときにも差は生じてくる。ウガンダでは、新聞は英語が主流だ。ガンダ語などの多言語のものもあるが、規模は非常に小さい。テレビも英語か、少ないながらもガンダ語だ。しかし、国民のほとんどはテレビを見ることすらできないことを忘れてはいけない。その代わり、ラジオ局は非常に多い。様々な言語で放送されている。人々の生活にとってラジオは必需品だが、残念なことに、中には信憑性が疑わしいものも結構あるようだ。また、ラジオを聞いているからといって、人々に与えられている情報量が十分かといわれたらそんなことはない。エリート層は、英語を駆使してアルジャジーラやBBCワールドを見ており、インターネットで世界中の情報を集めることができるが、言葉の話せない人々にそんなことはできない。こうしてますます差は広がっていく。

こうして広がる差は、富の分配に比例しているのだから余計に話はややこしくなる。つまり、金持ちや権力者は、彼らの言語を駆使して更なる富と権力を得ていく構造が出来上がっているのだ。むしろ、わざとそういう構造に仕立て上げているのだろうか。

うーん、内容が難しくなったところで、今回は終わりにします。また次回、なるべく早くブログ更新しますね!!もうすぐ自宅にインターネットが開通するので、そうしたら写真もアップします。

2008年10月29日水曜日

Africa Hall

ルームメートのジョアン。彼女たちが来たあとは、部屋はこんな風になりました~。
私の部屋。掃除した後。 これから荷物を運ばなきゃ・・・。

今にして思うと奇跡であったが、現地に着いたら住む場所が私のために確保されていた。住居の申し込みをしても事務所に忘れられてしまう場合が非常に多く、住むところがなくて困っている学生に何度も会ったので、私はラッキーだったと心から思う。私は、ホステルではなくホールに住むことになった。その名もアフリカホール。メリー=スチュアートホールやリビングストンホールとか、イギリス風の名前のホールが主流な中で、アフリカホールに入ったのにはワケでもあるのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、芝生の中庭が美しいアフリカホールの門をくぐった。

自分の部屋となるC8に入ったとき、驚きがなかったといったら嘘になってしまうだろう。それよりも、ここで本当に一年間生活できるのかという不安が一瞬頭をよぎった。ホコリのたまったコンクリートの床。壊れかけているベッドが三つに、木造の古い机。電気は通っているのに電球はなかった。そして、ドアの横にはひびの入った小さな蛇口と鏡があり、収納は、小さな本棚が二つあるのみだ。
私が以前に東京で暮らしていたアパートは、四畳の中に小さなキッチンがあって、トイレとお風呂は他の人と共同で使っていた。私はそのアパートが大好きであったし、生活に何一つ不便を感じなかったが、アフリカホールのC8はさすがにキツイだろうなと感じた。
アフリカホールの共同のトイレは流れないし、第一便器のパーツから鍵に至るまで盗まれてしまっている。衛生的にもどうなのかと首を傾げてしまうような有様だった。よって、トイレに入って前の人の汚物があってももはや驚かなくなったし、何よりも、アフリカホールのトイレのおかげで足の筋肉が発達したと思う。あまり便器に触れたくなかったし、座るところもあってないようなものだったので、常にお尻を浮かせていたからだ。また、トイレの中ではドアを閉めても手でずっと押さえていないといけなかった。そうでもしないと、ドアが開いてしまうのだ。
シャワーも、あれがシャワーと呼べるのであればの話であるが一応あった。まず、実質使用できるシャワー二つ(この二つを三十人以上で共用しているのだからすごい)の間に一応壁はあるものの、ドアもカーテンもないために、シャワー室の通路から丸見えになっている。お湯が出ないのは当然であるが、よく水も出なくなった。普段の状態でさえ、ちょろりちょろりという弱々しい音を立てながら、弱冠茶色のかかった水が頭上に設置してある水道管からそのまま頭にかかってくるという状態。どんな虫がいるのか、どんなバイ菌がいるのか非常に怪しいために、毎回ビーチサンダルを履いてシャワーを浴びなければいけなかった。そうしないと、足の裏から病気になると多くの友人に後日警告された。夜になるとシャワー室は大変だ。ハエも蚊もどんどん入ってくる。ゴキブリのすぐそばでシャワーを浴びたこともしばしばだ。今となって考えると、すごいアドベンチャーだったなぁ。

忘れられない入寮の日。この日は、四時間遅れでやって来たマーサに連れられて、彼女の娘たちとともに生活必需品の買出しに出かけた。


このとき初めてカンパラ市内をよく見ることができたが、緑が豊かで小ぢんまりとしていたという印象が強かった。実際に当日の日記にもそう書いてある。それまでいたエチオピアが乾燥していたからなのか。2年前に少し滞在したインドのような、カオスに満ちたごちゃごちゃ感を期待していたからなのか。人も動物ものんびりと歩いているし、道端で昼寝をしている人もいる。少々退屈に見えたが、初めてのアフリカ生活をするにはちょうどよい街だと思った。マットレスに毛布、バケツや洗濯ばさみ、そして電球などを購入したあと、部屋の合鍵を作りに行った。このときは、まさかその鍵でアフリカホールのどの部屋も開いてしまうなどとは思いもしなかった・・・トホホ。

さて、「到着直後の留学生の生活ため」という名のもとにマケレレの車withマケレレの運転手で出かけたマーサであったが、私の買い物が一時間弱で終わったら、その後の3時間は自分の娘たちの新学期の準備のために車を使用していた。彼女たちの全寮制の高校は、市内からだいぶ離れた小高い丘の上にあり、庭から建物まで英国風であった。広々とした敷地は、いかにもお金持ち学校といった感じである。寮もアフリカホールのようなものではなく、五人で一つの建物をシェアするタイプのものであった。キッチンもあればリビングもあったため、私は正直、この学校に留学したかったと思った。娘たちの引越しを手伝い、掃除をして、家路につくころには夕方になっていた。

ルームメイトがまだ入寮していなかったため、一人で夜遅くまで荷物の整理と部屋の掃除をしていたところ、向かいの部屋の子達が私を訪ねてきた。なんと彼女たちは、一人で眠るのは怖いだろうからと、自分たちの部屋でしばらくの間は眠るようにと言ってきたのであった。アフリカの家庭では、相当のお金持ちではない限り、個別の部屋など存在しない。大家族が小さな家で一緒に暮らしているからね。特に女の子たちは夜に一人でいることをとても嫌がる。東京のような大都会で一人暮らしをしていたという話をすると、みんな目を丸くして驚いていた。私よりも年上の女の子たちが、みんなで一緒に寝たがるのだからかわいらしい。この、個人の空間とプライバシーの問題に関しては、その後のウガンダ生活で私を大いに苦しめることになったが・・・。

特に何もしなかったのに、この日はすごく疲れた。結局向かいの部屋で眠ることにした私は、映画を見ながら寝てしまった。

大学生の住居事情

寮の中では、結婚式が行われたりしている。また、左下に見えるのは、洗濯物。ウガンダでは、下着以外はこのように干される。
私の寮。外観はとてもきれい。


マケレレ学生の住居には、大きく分けて三つの選択肢がある。

一つは自宅から通うタイプ。これは、カンパラ出身の学生のみに与えられた特権であるが、実際にはカンパラ出身でも自宅から通学している学生は非常に少ない。市内の終わりなき交通渋滞を見れば自宅通学をしたくない気持ちもよく分かる(歩いて一時間かかる距離が、車に乗ると三十分かかってしまうこともざら)し、厳しい親の目から逃れて楽しいキャンパスライフをエンジョイしたいという思いもあるのだろう。親から独立するのが当たり前、というわけではなさそうだが、大学生になったらキャンパス内、あるいは近くに住むというのが普通だ。

二つめは、キャンパスの周りのワンダゲヤ地区に無数にある学生ホステルだ。これは、ピンからキリまで様々な種類・値段のものがある。一人部屋もあれば相部屋もあり、学生たちはそれぞれの経済状況や生活スタイルに合わせて部屋を選ぶ。私の親友のシンシアは二人部屋であったが、部屋には二段ベッドが二つ並んでおり、その間にテーブルがおいてある。非常に質素な部屋で、シャワーとトイレは共同。キッチンはないらしい。仲良くしていたケニア人の双子の姉妹は、東京の一般的な1Kのような部屋で暮らしていた。壁はアメリカの歌手やハリウッドスターのポスターで埋め尽くされており、床には、たんすに収まりきらなかった服やら化粧品やらアクセサリーやらが溢れている。テレビに冷蔵庫、ミキサーだってあるのに、キッチンにはガスがなかった。その代わりに、アフリカでは非常に一般的な小さなガスコンロがあり、火を使う料理をする際にはベランダに出て、しゃがみながら料理している。都会的でモダンな部屋と、村にいるニャボ(女性)のような調理法とのコントラストが面白かった。また、マケレレに研究などで来たムズング(白人、外国人)やお金持ちウガンダ人学生がみんな暮らしているのが、アカムウェシ・ホステルだ。ここには二度だけ来たことがあるが、(ウガンダの感覚では)とにかくすごかった。お湯こそ出ないものの、きれいなシャワーが全ての部屋についており、床はタイルで広々としている。トイレだってきちんと流れるし、運がよければ無線のインターネットもつながるらしい。

三つめは、大学構内にあるホール(学生寮)だ。学部生男子の寮が六つ、女子寮が三つ、それに院生用の寮がある。これは、ケンブリッジやオックスフォードなどのイギリスの伝統的な高等教育機関を模したのか、寮ごとの性格や特徴がまるで違う(らしい)。そして、どの寮に入るかによって、その後のキャンパスライフが大きく左右されるようだ。ウガンダ人のエリートにマケレレでの青春時代についての話を聞くと、必ずみんなが寮生活の思い出話を懐かしそうにし、そして「自分は○○寮にいたんだ」と自慢するほど、学生寮は重要なのだ。「まるで違う『らしい』」とつけたのは、私の目にはどの寮も同じようにしか映らなかったからだ。「ここの寮はパーティー好きな子が集まっていて、ここの寮には勉強好きな子が集まっていて、ここの寮はいつも大学当局に反抗ばかりしている子が集まっていて・・・」だとか、「あいつは○○寮にいるからガリ勉なんだ」だとかみんな話しているが、そう大してどこも変わりはない。

また、カンパラ市民はマケレレと関係のない人でも、それぞれの寮についてよく知っている。マケレレでは、学生運動が暴徒化することがしばしばであるが、その際に事の発端になるのが常に寮であるため、嫌でも覚えてしまうらしい。自宅通学やホステルに住んでいる学生も、寮には所属しなくてはいけない。

2008年10月12日日曜日

カンパラ第1日目

典型的なカンパラの風景。

マトケ。食用バナナ。ウガンダの主食。


例のマケレレゲストハウスでは、一睡もできないうちに朝になってしまった。

夜通し、ジャンジャカジャンジャカとBongo Flavor(東アフリカで人気の音楽のジャンル)とかリンガラ音楽(コンゴの音楽)が外から聞こえてきたからだ。金曜の夜だし、まぁ仕方がないといえばそうなのだが。それを近所迷惑もお構いなしにやってのけてしまうのがウガンダ人である。ちなみに、当時の私は、日記にこんな走り書きをしている。








うるせーーーーーーーーーー。眠れねーーーーーーーーーーー。でも、貧しいとか物がないとか思ってたけど、クラブは一応あるんだなぁ、ウガンダ。




そりゃ、ウガンダの人だって日本人と同じで娯楽大好きだし、人生エンジョイしたいのは誰だって一緒に決まっているだろう。しかし、お堅い経済の本やらニュースやらでアフリカの勝手なイメージが出来上がっていた私にとっては、こんな基本的なことが大きな驚きであったのだ。アフリカの庶民は、人生を楽しむ以前に、生きていくのに最低限のことだけでいっぱいいっぱいになってしまう。このように考えていたため、夜通し流れる音楽を聴きながら、少しだけ恥ずかしくなった。



翌日の土曜日は、夕方まで眠ったり、本を読んだりして過ごした。外に出ようとも特には思わなかったが、お腹が空いてきたので、散策をしてみる事にした。



前日の夜は暗くて何も見えなかったが、この日、外に出てみてまたもや私は驚いた。そこは、私達がメディアからの情報でイメージするようなアフリカではなく、楽園のようなところであったからだ。花は咲き乱れ、木々は青く、鳥のさえずりが止むことなく聞こえてくる。学生はみなオシャレで、イベントの案内などのポスターがあちこちに貼られている。よく見てみると、聖書の勉強会や祈りの時間の案内など、キリスト教団体関係のポスターが半分くらいを占めていた。みんな、熱心である。他には、ムスリム学生団体の案内やパーティーの案内が多かった。

しかし、その感動もつかの間。キャンパスの敷地を出ると、やはり、ごちゃごちゃの道路がそこには広がっていた。ワンダゲヤという名前のこの大学周辺地域は、さしずめウガンダの高田馬場である。飲み屋からカフェから服屋からパソコンショップ(パソコンを持っている学生が少ないため、タイプをして印刷ができるお店が大人気)からケータイのお店まで、学生のニーズに合ったものがわんさかしていた。

とりあえず中に入ったお店で魚を注文したら、魚は今日はないとのこと。じゃあチキン・・・と思いきや、それもないといわれてしまう。ヤギか豆しかないと言われたので、ヤギ肉を注文した。

すると、のんびりしているウェーターのお兄ちゃんに「全部ほしいですか?」と聞かれた。質問の意味が理解できなかったので意味を聞いてみると、一瞬困ったような顔をしてもう一度「全部ほしいですか?」と聞いてきた。隣に座っていたセボ(ガンダ語で男性という意味)が親切にも意味を教えてくれた。ウガンダでは、ちょっと高めの高級なレストランに行かない限り、注文は非常に簡単なのだそうだ。まずはたんぱく質を選んで(大体、牛肉か鶏肉かヤギの肉か魚か豆かピーナッツソースの中から選ぶ)、次に数ある炭水化物の中からほしいものを選ぶのだ。選択肢は、だいたいマトケ(食用バナナ)、ポショ(とうもろこしの粉をお湯で溶かして固形にしたもの)、油ギトギトのお米、さつま芋、カボチャ、ジャガイモ、それにキャッサバやヤム芋である。セボ曰く、何種類頼んでも値段は変わらないのがポイントらしい。

ウェイターのお兄ちゃんに「全部」を注文して、値段を確認したところ、Ush3500(210円くらい)だと言われて思わず値切ろうとしてしまった。インドやエチオピアでは、恐ろしいくらい食費が安い。特にインドなんて、30円も払えばかなり量のご飯がかなりの質で出されるのである。しかし、例のセボに、その値段が正当なものであると教えられた。

出てきたご飯を描写しようとするとこうなる。てんこ盛りの炭水化物の山に、油でドロドロのスープの川をかけるのだ。そして、中に入っているヤギの肉の2切れは、川の中の岩である。

半分食べるのもやっとであったこの一人前のご飯を、時が経つにつれてぺろりと平らげてしまうようになったのだから、人間の環境への適応能力は恐ろしい。そして、これら炭水化物を食べた後は、必ずお腹に鉄でも入ったような感覚になるのである。とにかく重いのだ。

食べ終わった所で、近くのマーケットに行ってみた。新しい国や街に行くと、私は必ずローカルマーケットに立ち寄るようにしている。ワンダゲヤのマーケットでは、ありとあらゆる野菜と果物が、文字通り山のように売られていた。これから生活していくにあたって、物の値段の感覚を身につけておく必要があったので、ニャボやセボとお喋りてがらに色々聞いてみた。トマトは大きいのが6個でUsh500(約30円)。パパイヤも一つだいたいUsh500。虫食いの野菜も多かったが、それだけ薬も使われていないという証拠である。

それにしても、これだけ野菜が溢れているのに、ウガンダ人があまり野菜を食べているのを見たことがない。ウガンダ滞在中に常に疑問に思っていたこと、それは、あの青々とした野菜たちは、どこへ消えてしまうのか??ということである。もしかしたらスープに溶けているのかもしれないし、ほうれん草やキャベツの料理はたまに出される。しかし、他の野菜は・・・?不思議だ。

ババという名のおじさんと、この日は仲良くなった。ババのお店ではいつもおまけをしてくれたから、その後も随分通ったものだ。周りで働いているニャボたちも、面白い人が多かった。みんな、一生懸命英語を話してくれる。私の苗字の品川をとって、ナガワと名づけてくれたのも彼女達だ(ちなみにナガワは、ガンダ語ではよくある名前らしい)。この日は結局他にすることがなかったので、近くで働いていた19歳の女の子の家に遊びに行くことになった。

大学の周りにあるスラムの中を進んでいくと、細い路地を何度も曲がった所に彼女の家はあった。電気はもちろん、水道もなければトイレもない家だったが、ぼろぼろのベッドといくらかの食器、それに壁に貼られたイエスキリストの絵が印象的だった。私をベッドの上に座らせると、彼女はどこかへ行ってしまった。待っている間、近所の子ども達が私を見物しに次々と集まってきたが、私が子ども達と遊んでいるうちに、彼女は赤ちゃんを抱えて帰ってきた。まさか!?と思って聞いてみると、やはりそう。息子さんだそうだ。赤ちゃんの父親はどこにいるのか分からないそうだ。

貧困が原因なのか、援助交際なのか、レイプでもされてしまったのか。彼女があまり話そうとしなかったのであえて何も聞かなかったが、NGOの支援を受けながら子育てをしていると言っていた。マーケットで働いている間は近所の人に子どもを預けるのだそうだ。

後にも書くつもりでいるが、ウガンダの同世代の女の子が直面する問題は、平和ボケしたどこかの島国のそれとは比べ物にならない。でも、それを大変そうに見せないのがウガンダ人の女の子だ。気にしていないのか、諦めているのか、苦難を隠しているだけなのか。とにかくヘラヘラとのんびりしているように見えるのである。彼女もそう。一人で子どもを育てているなんて、絶対に相手に気づかせない。いつも冗談ばかり言ってゲラゲラ笑い、ケイータイに入っている音楽をかけてマーケットの中だろうとどこだろうと踊りまくる。強いのかなんなのか。

暗くなってきたので彼女と赤ちゃんに別れを告げ、私はマケレレゲストハウスに戻っていった。1日目なのに、考えさせられる事が多かった。

2007年8月17日金曜日

エチオピアで飛行機においていかれたり、ナイロビ空港でけんかをしたりしながら、ようやくたどり着いたウガンダ。ナイロビからの一時間弱のフライトでは、暗闇で何も見えないのに、窓の外をずーっと見ていた。隣に座ったウガンダ人のニャボ(ガンダ語で、女性を呼ぶときにニャボという)がマケレレ大学出身であったため、会話も弾み、あっという間にエンテベ空港に到着した。

空港(飛行場といったほうがいいのかな)では、機体の前で踊りながら何かを撮影している人たちがいた。音楽のPVか何かであろう。タラップを降りたとたんに感じる、ねっとりとした空気。薄暗い電灯。のんびりだらりと“働いている”、身体の大きな警備員。当時のエンテベ空港は、11月に行われるCHOGM(英連邦首脳会議)にむけた工事の真っ最中であったため、ターミナルビルは仮設の小屋のようなものであった。薄暗い部屋に人がごった返し、大きな荷物があふれている。一度建物の中に足を踏み入れた私は、このカオスとも呼べるような光景を目にしただけで疲れがどっと出てきたので、一度外に戻って深呼吸をし、それから中に入らなくてはならなかった。

思えば、この空港での小さな経験が、この先に私を待ち受けていたウガンダでの生活のイントロダクションであった。まず、誰も何も知らないのである。列がいくつかあったのだが、他のウガンダ人乗客に聞いてもムズング(白人という意味)に聞いても、みんなよくわかっていない。仕方がないので、制服を着ている職員に質問をしてみても、連れて行かれたのはビザの窓口であった。あのー。もうビザは取得済だと何度も説明したじゃないですか・・・。

そこでこの職員、困ったような顔をして“foreigners(外国人)”と書いてある、とある列を指で指し、そこへ行って入国審査をするように私に言った。そしてそれを言い終わらないうちにそそくさと消えてしまったのである。言われたとおり、行ってみたものの、列がなかなか進まない。よく見てみると、パスポートにスタンプを押してもらうのに、一人一人にものすごい時間がかかっているではないか。とりあえず本でも読みながら待っていると、列も真ん中あたりに来たあたりで制服を着た別の職員に声をかけられた。

「どの国のパスポートを持っているんだ?」
「日本です。」
「この列は、東アフリカ居住者専用の列だ。別の列に並びなさい。」
「でも、そこに、foreignersって書いてあるじゃないですか・・・」
「どんな風に書いてあろうと、ここは東アフリカ居住者の列だ。他の所に行きなさい。」
「でも、私はこれからウガンダ居住者になるのですが・・・。」
「でも君の場合はこの列ではいけないんだ。別の所に行きなさい。」
「・・・。別の列って、どの列ですか?」
「(指で指しながら)あの辺だ。あの辺に他の白人達がいるだろう。あの辺に行け。」

こんな感じで列から追い出され、トボトボと他のムズングたちのいる辺りに歩いていったが、そこにいたムズングは皆、どこに行って何をしたらいいのかが分からずにいる空港難民であった。

振り出しに戻ってしまったものの、とりあえず困っているのが自分ひとりではないことに勇気をもらった。

ウガンダに何度も来ているというイギリス人男性は、「こういう場所では、自分で何かをしようとしてはいけないんだ。どうせ自分から動いても動かなくても、どうにもならないのだから、じっと待って、エネルギーを温存したほうが懸命だ。」と私に言った。一年以上経った今、彼の言葉の本当の意味が分かった気がする私がここにいる。

カオスの中で困っていたムズング空港難民は非常に目立つのであろう。5分もしないうちに、またまた同じ制服を着た、また別の職員がやって来た。そして、彼が私達を連れて行ったのは・・・私がさっきまで並んでいたのと同じ列であった。その旨を彼に伝えると、「そんなことはない。そこにforeignersって書いてあるだろう?ここは外国籍の人のための列だ。」とのこと。

よくわからないけど、まあいっか。

次の難関は、荷物であった。荷物を乗せるカートはそこらじゅうに錯乱し、重い荷物を運ぶ人で熱気に溢れていたその場所に、私の目立つオレンジ色のスーツケースが、どんなに探しても見つからないのである。調べてもらったら案の定、スーツケースがナイロビ空港で発見されたとのこと。(でも、調べてくれる人に出会うまで、そして荷物がナイロビにまだあるという情報を得るまでにものすごく時間がかかったんだよ!!)この電話から30分後に、ナイロビからエンテベに飛ぶ最終便があると聞いたので、私のスーツケースはその日のうちにウガンダに来る事になった。やれやれ。さすがケニア航空だ。

マケレレ大学からは、迎えの人が外にもう来ていたので、空港再入場のパスをもらった私は彼に会いに行った。それから2時間、オレンジスーツケースが到着するまでの間、私達は空港の椅子にボーっと座りながらおしゃべりをした。モーゼスという名のこの男性は、マケレレ・インターナショナルオフィスで働くマーサというおばさんの、専属の運転手だそうだ。そして、このマーサこそが、マケレレと早稲田の留学協定の責任者であった。今まで、専属の運転手などを雇っている人には会ったたことがなかったので、私は心底驚いた。そして同時に、「一大学のインターナショナルオフィスの職員が社会的にものすごく高い地位にいるんだなぁ、ここは本当にアフリカで、私は本当にここに来てしまったんだなぁ」などと勝手な推測をした。

そんなこんなでスーツケースと感動の再会を果たし、モーゼスの車に乗った頃には、日付が変わっていた。マーサは月曜日になるまで仕事はしないそうなので、週末の間、寮にも入れず居場所のない私は、マケレレのゲストハウスにいることになった。このゲストハウス、財政難の大学をどうにかしようと建てられたものらしいが、宿泊費がとにかく高い。当初は、ここにタダでとまれるという話がマーサからあったが、最終的にはお金を請求された。無駄な出費だったと思っている。宿泊費が私持ちであることを言ってくれれば、もっと安い所にさっさと移っていたのに。

2008年10月10日金曜日

そもそものおはなし

学生のうちにアフリカに行くことは、私の将来設計の中に昔からしっかり組み入れられていた。国際協力や異文化交流に対する興味の強かった私にとっては、ごく自然なことであった。「ただの旅行やボランティアではなく、留学できたら最高だろうなぁ。」ふと、こんな考えが頭を横切ることもあった。

同じ土地に行ったとしても、どのような立場の人がどのような目的で行くかによって、そこで見えてくる社会構造や文化、人々の様子や問題点は全く異なってくる。当時、一年間のオーストラリア高校留学を終えたばかりだった私は、授業を通して、オーストラリア人が自分の国に対してどのような視点を抱いているのかをよく学んだ。そこでこう考えた。

今、国連もNGOも莫大な資金をアフリカのために当てているのに、変化がないどころかアフリカの状況は悪化していると言われ続けているのはなぜなのだろう?理由は様々あるだろうが、アフリカのために何かをしているらしい国連や大手NGOが、欧米からの視点でアフリカを捉えているからかもしれない。でも、それはなぜ?きっと、そこで働く職員の多くが欧米で高等教育を受けたからだ。現地の人を中心にとかなんとか言って、実際にプロジェクトの中で力を持っているであろう彼らが、ロンドンやパリで学んだ知識を使って全てを動かしているから失敗続きなのだ。こんなの、二十一世紀になっても続いている植民地政策のようなものだ。では、私自身はどうすればよいのだろう。そうだ、現地の教育機関にしばらく所属して、もしも可能ならそこで学位もとって、そして現地の人の視点により近いところから、アフリカの抱える問題について考えられる人になろう。外部の人間である私自身は何もできないだろうけど、変化を求める人々を励まして、サポートすることならできるはずだ。

通学電車の中で、お風呂の中で、私はぼんやりと考え続けた。考えれば考えるほどいいアイディアに思えたが、この考えもすぐに自分自身によって打ち消されてしまうのであった。

「アフリカ留学?そんなのできるわけがない。第一、聞いたことすらないじゃないか。」

だから、物好きな早稲田大学がアフリカのいくつかの大学と提携を結んでいるということを知ったときは驚いた。そして、これが決め手となってあっという間に受験を決意した。

次に決めなければならなかったのは、どの大学に留学するのかということだった。選択肢は四つ。エジプトにあるカイロ大学、南アフリカにあるケープタウン大学、タンザニアにあるダルエスサラーム大学、そしてウガンダにあるマケレレ大学であった。エジプトは、私が志望していたサハラ以南のアフリカには属していなかったために選択肢からすぐに外れた。お金持ちの白人がうじゃうじゃしているケープタウンは、もはやアフリカではないと勝手に考え、同様に選択肢から消えた。残るはタンザニアとウガンダ。うーん、どうしよう。最終的に決め手となったのは、ダルエスサラ―ムとカンパラの治安と気候の違いだ。カンパラの方がよっぽど安全だし、気温も年中穏やかですごしやすそうだったのだ。また、マケレレ大学が、日本人旅行者に超人気な某ガイドブックに「かつては東アフリカの東大だった」と紹介されていたのも気になって仕方がなかった。「かつて」とは、どういう意味だ!?東大を基準に何でも考えないと気が済まない日本人らしい描写の仕方だが、それ以上に気になったのは、この文章が過去形になっていたことだった。インターネットで調べても、似たような情報しか得られなかった。情報が少なすぎたのだ。これは、自分で行って経験してくるしかない。

独裁、虐殺、内戦、たて続くクーデーター。独立以来の苦難に満ちたウガンダ現代史も興味深かった。社会主義政策をとり、貧しいながらも比較的社会が安定していたタンザニアとは反対に、ウガンダはとりあえず「一通り」何でも経験した。それなのに今、この国は成長期を迎えているらしいではないか。ぼろぼろになった国が希望を取り戻すための秘密が知りたい。もはやウガンダ留学は第一希望であった。

大学一年の冬に、留学先がマケレレ大学になったという知らせを受けた。これでようやく早稲田に入った甲斐があったと心から思った。「色々大変なこともあるだろうけど頑張るぞー」と、いつものように決心したのを覚えている。

しかし、今回の「色々大変」はそんじょそこらの「色々大変」とはワケが違った。日本に無事に帰国した今だから笑い話にできることも、ウガンダにいる当時は泣き、怒り、失望し、の繰り返しであった。常に何があってもおかしくないため、一瞬一瞬が必死で、そして毎日が予想外の出来事のオンパレードであった。バナナ(ウガンダの主食)なんてもう見たくないとも思ったし、fワードを何回使ったかも分からないし、(こんなことを書いたら非難が殺到するだろうが)「ウガンダ人はお猿さんだから仕方がないのだ」と考えて、心の平安を保っていた時期もあった。そうしないと、もうバカらしくてやっていけなかったのだ。ウガンダ在住の日本人や他のムズング(白人や外国人という意味)の友達はいたが、たまにしか会えなかったし、インターネットもろくに使えなかったため、ストレスを自分の中にどう溜めないかが私の課題であった。

これから私が書くことは、あくまで私の実体験と、それに基づいた考察である。また、私は、どの政府や団体のどんな利害からも無縁な立場にあるため、全てを正直に書くつもりである。ウガンダが大好きな人が読んだら怒ってしまうかもしれないし、アフリカに詳しい方が読んだらただのワガママ娘が未熟なことをたらたら述べているだけに過ぎないと思われてしまうかもしれない。そうなのだ。たかが14ヶ月の留学と旅行で、ある特定の社会の何が分かるというのだろう。

しかし、何の地位も何のステータスもない、むしろ「学生・女・弱冠ハタチ」という非常に弱い立場にいた私だったからこそから見えてきたウガンダ、そしてアフリカというものもあるだろう。日本人であることは、それ自体が非常に大きなステータスで、日本のパスポートの強さには改めて感謝をする日々であったが、それでも「学生・女・弱冠ハタチ」の三つのお陰で何度踏まれに踏まれたか。

それでも、ウガンダに留学したことは後悔していない。留学は全然楽しくなかったし、勉強だってしなかった。それでもいいのだ。ウガンダは最高の先生だったし、アフリカは最高の教室だったから。

2008年10月5日日曜日

日本に帰ってきてからのこと

こんにちは。かなりお久しぶり過ぎますね。日本に帰国して、10日ほど経ちました。

このブログは、途中から突然使えなくなってしまったのです。理由は分かりませんが、おそらく、マケレレ大学のネット環境と関係があると思います。mixiは普通に書けていたので・・・。実は、ウガンダにいた頃の最後の方の投稿は、私が書いた文章を、日本にいる友達に、代わりにブログに載せて貰っていたのです。

そんなこんなで、ブログでさえも思うように書けなかった私の留学ですが、問題は山ほどありながらも、無事に5月末には終了しました。その後、4ヵ月ほどのアフリカ旅行を終えて、先日エジプトのカイロから、帰国しました。しかし、ブログに載せられなかった時期の文章は、私のパソコンの中に保存してありますので、今後はそれを少しずつ編集して、皆さんにウガンダの学生生活や、アフリカでの珍事劇の数々について(かなり遅い)報告をしていこうと思います。

思えば、日本語で思ったことをわーっと書くことが、当時の私の最も効果的なストレス解消法でした。それが、たとえパソコンの中に眠るだけの文章になろうと、自分の気持ちを整理するうえで、本当に大きな助けになりました。コトバの力ってスゴイですね。

日本に帰ってきたとき、自分がその場にずっといたような感覚に襲われて驚きました。高校時代、オーストラリアから10ヵ月ぶりに帰国した際には、電車からの景色や街から聞こえてくる日本語にいちいち驚き、違う星に来てしまったような気持ちになったのですが・・・。今回は、14ヵ月前に突然分断されてしまった「日本という空間での時間」が、何事もなかったかのように、「日本という空間におけるこの瞬間」と溶け合ってしまったのです。なんだかややこしいですね。アフリカに何て、最初から行っていなかったような、夢を見ていた感覚、とでもいいましょうか。

日本とアフリカがあまりにも違いすぎるために、私の中で「日本での時間」と「アフリカでの時間」が同じ一本線の上の同じ時間として繋がっていないだけだと思います。

とか何とかいいながらも、じわりじわりとやってくる逆カルチャーショックにはただただ呆然するしかありません。物質的なカルチャーショックよりも、精神的なカルチャーショックの方がやっぱり辛いですね。今、本当に自分が何故ここにいるのか分かりません。大学の授業が始まり、懐かしい友達との再会も果たし、美味しい日本食をお腹いっぱい食べても、心の中にできた空虚さは満たされません。この14ヵ月間、かなり激しい毎日を過ごしてきたので、「もうしばらくはアフリカはいいかな・・・。しばらくは落ち着きたい。」というのが正直な私の気持ちですが、かといってどこに行きたい訳でもなく、ココにいたい訳でもなく。別にがつまらない訳ではないのに、以前の自分のように全身のパワーを出しながら様々なことに打ち込むことができないのです。会話も上の空になってしまいます。なくしものもおおいです。

気を付けないと・・・。

さてさて、明日から少しずつですが、「今さらアフリカ留学記」をこのブログに載せていこうと思います。お時間がある時にでものぞいてみてくださいね。

なつの