2007年11月22日木曜日

報告書

交換留学生の視点から捉えた、マケレレ大学の問題点
社会科学部 品川夏乃

*はじめに*

私がマケレレ大学(以下、MUK)で学び始めてから2ヶ月以上が過ぎた。ここでの生活が今までの人生の中で最も貴重な経験となっている一方で、私が数多くの困難に 直面しているのも事実だ。これらの困難は、文化的あるいは社会的な違いによるものではなく、無秩序で混乱を招くようなMUKの制度によるものだ。MUKの多くの学生たちともこの事については議論を交わしたが、残念ながら彼らの多くはあまりにこの異常な状況に慣れきってしまっている。誰もが変化を求めているにもかかわらず、事態が巨大かつ複雑すぎるために誰もが無力感にさいなまれ、行動が何もなされていない。
交換留学生として、自分がMUKやウガンダにできる貢献が一体何なのかを、私は常に考えてきた。そして、次のような結論に達した。部外者である私には直接的にできることは何もないが、人々が変化を諦めないように励まし、エンパワーし続けることなら十分可能である、と。その第一歩として、この報告書の作成を思い立った。私のアクションが、他の留学生による同様の報告書作成につながり、そして大学の首脳陣の会議という場で討議されることにつながったのは、大きなサクセスであると考えている。
この国の問題を解決することができるのは、他でもないウガンダ人だ。MUKが未来のリーダーを輩出するために存在している、真の意味での“教育機関”となるために、この報告書がMUKの全ての職員および政府関係者にきちんと読まれ、重要視されることを願っている。

1) 教授および授業について

私の知る限りでは、この大学では「授業」とは書き取りのことを意味し、「勉強」とは試験のためにノートを読み、暗記することを意味するようだ。授業中の配布資料やパワーポイントの使用(もちろん、この点に関しては物質的な問題でもあるために一定の理解は示すが)は皆無である。
しかし、限られた貴重な授業時間を、ただ座って教授の言う一つ一つの言葉をそっくり書き写すために費やすのは非常に非効率的である。自由な発想をするなど皆無、あるいはほとんどないため、この様な事態は危険であるとも言える。更には、そのようにしてまでノートに書かれる内容など、実に微々たるものなのである。 このノートの内容さえ資料として配布されたら、学生は授業中に思考力を働かせながら集中して聴講することができるのに。また、このような授業では、その場で質問も浮かびやすくなるため、たとえ大人数の授業でも活発な討論がなされるはずだ。それだけではなく、資料さえ配布されれば、担当教授も補足説明に多くの時間を充てられる。
私たちには、教科書というものがない。推薦される本はあるが、2、3冊しか図書館にない本を、どのようにして100人以上の学生全員で共有することができるだろう?
一般的に、教授のヤル気はとても低い。私の担当教授の多くは授業に常に遅刻し、予告なしに突然休講し、また授業中にかかってきた電話に出て話をしている。そのため、彼らが本当に未来のリーダーを教育し、育成したいと願っているのかは、正直なところ非常に疑わしい。彼らは、高い報酬とMUK教授としての社会的地位のみが欲しいとしか考えられないが、仮にそうだとすれば、それは教育者として最悪の職務態度である。これらが原因で、彼らは学生からの信用を失いかけているが、当の本人たちはそのことに全く気付いていない。また、教授自身も、もっと勉強する必要がある。彼らの知識量は、大学教授のそれには到底及ばない。
教授の授業態度も、更なる改善が不可欠だ。彼らが学生に質問を投げかけるなど滅多にないことではあるが、そんな時に学生が教授の期待する通りに回答できなかった場合、彼らはすぐさま、真っ向から否定する。答えがある程度は限られている理数系の授業であるなら、まだ理解はできる。しかし、決まった答えなど絶対に存在しないような社会人文学系の授業でこの光景を見たときには、さすがに衝撃を隠せなかった。
この国での生活を通し、大多数の人々が自分で物事を考え、独自の視点を創造することを非常に苦手としていることに私は気付いた。代わりに、彼らはいつも他者、特に権力者に頼り、従うのである。教育方法が大きな原因であることは間違いない。学生たちは批判的に考えられないため、個々人には創造性がないのである。
MUKの学生が、教育の国際水準を知らないまま、この大学の学生であることを非常に誇りにしているのは何とも皮肉な話だ。彼らは、試験を突破する方法は知っていても、既存の権威に挑戦したり、何か新しいことを作り出したりすることは知らない。
私は、教わっている全ての教授に、彼らの授業方法についての意見を述べた。実際のところ、全員が私の意見に肯定的であった。しかし、以下の理由から、授業方法を変えることは不可能であると言われた。
・ <書き取り+暗記>以外の方法を彼ら自身が知らないため、どうすればよいのかが分からない
・ 人と時間が足りない
・ 授業の規模が大きすぎる
・ 設備が乏しすぎる
・ 大学の“教育方法”に従う必要がある

2) キャンパス内のインターネット環境

留学生として勉強するにあたって、インターネットへのアクセスはなくてはならない存在である。私の場合、キャンパス内に日本語入力が可能なコンピュータが一つもないため、自分自身のパソコンをつなぐ必要がある。しかし問題は、インターネットが必要な時はいつでも、パソコンを抱えて30分以上もアクセス可能な場所を探し回らなくてはいけないことだ。完全に、時間の無駄である。寮にネット環境が完備されていないのは仕方がないと思うが、キャンパス内のソケットの中には、前日までアクセスが可能であったのに突然使えなくなっていたり、使用中にアクセスが途絶えてしまったりするものがあまりに多いため、混乱してしまう。
実は、インターネットをするために私が普段することとは、IT学科の校舎に夜遅くに行くことだ。オンライン上で終わらせるべき仕事が多いときには、そこで夜を明かすこともある。夜中のパソコン室では、多くのネットケーブルが、音楽や映画を楽しむためにインターネットを使用している学生たちに使用されてしまっているために、使用可能なソケットを探すのは至難の業だ。このように苦労して見つけ出したアクセスで集中して作業を行っていても、真夜中に始まる授業(施設が足りないクセに学生数だけは多いから、マケレレはよく真夜中に授業をするの!!信じられない!!)のせいで、部屋を立ち去らなければいけないこともしばしばだ。そんな時は、一からまたやり直しになってしまう。
情報通信手段の欠如は、つかめたはずの機会を失うことを意味する。大学の財政難は大きな負担で、教授の報酬はインターネット通信料よりも重要かもしれない。しかし、インターネットがつなげないために私たちが何もしないでいる間にも、世界中の人々はMUKを引き離しながら、常に前進して動いているのだ。非生産的な時間を過ごすことはできない。

3) 非効率的な組織構成、そして必要のない数々の手続き

MUKの組織構成は、カオス以外の何ものでもない。私の経験は、それを物語るのに十分なほどである。
例えば、科目登録のために必要な情報(時間割、シラバス、単位制度のしくみなど)を全て集めるためだけに、私は3週間以上まるまる費やさなければならなかった。 そもそも、全ての悪夢の始まりは今年2月に行った留学手続きであった。科目情報や登録上のルールといった情報が皆無であったのに、申請書を埋めるためには前期の希望科目を記入しなければならなかった。よって、大学のウェブサイトを見て、興味のある分野に近そうなタイトルの科目を4つ選択した。本来なら、全ての学生は最低でも5つの科目を履修しなければならないのに、なぜ4つなのか?申請書には、その分の欄しかなかったからである。
さて、MUKに到着してから、私が選んだ4つのうち3科目が行われなくなったという事実を見つけ出した。(無論、これっぽっちの情報を得るためだけでも丸1日を費やしたが。)つまり全てを変更しなければいけなくなってしまったのである。しかし、 私の入学許可書に明記されている嘘の履修科目のせいで、その後の手続きは難航を極めた。数え切れないほどの事務局員に現在の私の状況を理解してもらうために、何度も何度も同じ説明を繰り返さなければならなかったからである。
ここでは、組織、制度そしてルールは、全く機能していない。担当者であるはずの人でさえ、正確な情報を知らない場合も珍しくない。そして、職員がただ単に対応したくないがために、たらい回しの繰り返しである。誰も責任など持っていない。誰も完全には物事を理解していない。自分の上司に従うのみである。もしも上司がAと言えば、ルールが何を言っていようとAが合法となる。国際基準では、こんな事態は受け入れられない。そして私には、これがウガンダの文化や伝統の一部であるとは到底考えられない。更には、このような混乱は組織内で力のある人によっていとも簡単に乱用されてしまうため、余計に複雑化する。
加えて、広く理解され、施行されているルールなど存在しないにも関わらず、全員がそれに過剰に固執している。言い換えれば、ここには臨機応変な対応というものがないのである。例えば、とある質問状の形式にわずかな間違いがあったというだけで、私はそれを受け付けてすらもらえなかった。そして、それを書いた、別の事務局員の元へと戻らなければならなかったのである。誰もが責任を免れようとしているために生じる現象であることは明らかだ。全てのケースはそれぞれに異なる背景を持つために、当然既存のルールに従うのも大切であるが、それと同時に、毎回こうした異なる事情を考慮することも必要不可欠ではないだろうか。
また、必要のない、無駄な過程を含んだ手続きや物事の進め方という大きな問題もある。この大学及びこの国では、小さな手続き一つにも、膨大な数の人に、許可と公式な書類と署名をもらわなければならない。この類の予防可能な混乱は巨大で、個人から生産性とヤル気を奪っている。事実、このような手続きのせいで、私は一体授業を何回休まなければならなかっただろう?そのせいでもしも単位を落としたら、大学側は責任をどのように取るつもりなのだろう?(もっとも、ここでは責任という言葉の意味があやふやなのだから、責任を取ってもらおうなどと始めから期待などしていないが。)
許可をもらわなければならない膨大な数の事務局員は、困ったことにほとんどオフィスにいない。いったんその人に会えなければ、その日は諦めるより他にないのである。次の朝一番繰り越されるのだ。このようにして、何も起きないままに時間だけが過ぎていく。オフィスにいる秘書たちは彼らの代わりとして働くべきはずなのに、何の権限も情報も与えられていないために取り合うだけ無駄なのである。彼女たちの上司がどこに行っていて、何時に戻ってくるのかということすら知らない者もいるのだ。よって、私たちは、会わなければならない事務局員に“偶然にめぐり逢える”まで、何度もオフィスに足を運ばなければならないのである。
この問題の解決法として、大学には是非、次のような方法を全ての職員及び教員に義務付けていただきたい。それは、オフィスを出る前に、行き先と不在時間、オフィスに戻る時刻を書いたメモをドアに貼り付けるというものである。また、事前にアポイントを取るということと、一度約束したらそれを守るということを習慣付けさせるためにベストを尽くしていただきたい。というのは、ここではアポイントを取り、それを尊重し、守るという当たり前のことができる人がほとんどいないからである。これも、全てが非効率で不明確であることの原因の一つである。

4) 不明確かつあやふやな情報の交錯

信じられないことに、公式な掲示なしに突然物事は変わる。また、たとえ“掲示”があったとしても、誰にも気付かれないような掲示であるために効力がない。しばしば私は、予告なしの教室変更でどこかに消えてしまった授業を探すために、広いキャンパスを駆けずり回らなければいけない事態に陥る。また、教授が突然、授業の日時を変更するために、クラスメイトから「なぜ前回来なかったの?」と聞かれることもしょっちゅうである。これらは、教授が授業に関する情報発信を怠っているからという理由のみによる訳ではない。以前、政党の集会のために、とある教室が使えなくなっていたことがあったが、この時私たちの教授は何も知らされていなかった。つまり、彼ら自身も、大学側から必要な情報をきちんと事前に受け取っていないのである。完全に、大学に責任が問われるべき事柄である。
情報錯そうの、もう一つ例を挙げよう。今学期が始まって以来、私は、毎週ダンスの実技の授業に出席していた。しかし、第9週になって初めて、単位を取得するためには理論の授業にも出席しなければならないことを発見した。学期の初めに、授業のコーディネーターを始め、複数の人に確認した際には、そのような説明は誰からも受けなかった。期末試験までの4週間の間に、他の人が13週間かけて学んだことをやらなければいけないのである。
たった2ヶ月しか滞在していない留学生に内部の情報交換の穴を指摘されているなんて、非常に恥ずかしいことである。

5) 学生支援

学生支援も、大学の重要な仕事の一つだ。学生の問題や学生が起こした問題は、一部は大学の責任でもある。よって、学生を支援することで、問題解決に向けた努力をしなければいけない。
援助交際や暴力的なストライキ、政党がらみの汚職など、MUKの学生によって生じている社会問題は溢れている。大学側が解決に向けた実質的な努力をほとんど行っていない光景は、驚きである。

6) キャンパス内の設備

キャンパスは学びの場であるが、同時に多くの人の生活の場となっている。素晴らしい施設が完備された建物のすぐ裏では、電気すら通っていない安労働者の集合住宅が密集している。雇用者として、MUKは彼らのような労働者の住居環境にも責任があるはずである。どうか、キャンパス内全員の生活の質の向上に取り組んでいただきたい。

7) 腐敗疑惑と会計報告へのアクセス

MUKは、財政危機に直面している。メディアのおかげで、このことはウガンダ国内のみならず、世界中に知れ渡っている。大学の規模はキャパシティーを明らかに超えており、政府からの補助金は不十分だ。これらの事情が危機の主な原因として考えられているが、私は大学内の財政面での腐敗の存在を疑っている。同時に、全てを非効率的かつ複雑にしている事務局員の存在は、数え切れないほどの肩書きの数だけ大学の予算にとって大きな負担となっている。
このような事情があるにも関わらず、相当数の学生がMUKの会計報告へのアクセスの難しさを証言している。例のごとく、オフィスのたらい回しや不適切な対応が要因である。彼らは大学側にとっては財源である。少なくとも彼らには、会計報告へのアクセス権があるはずだ。

8) 学生政府とその役割

各学部、各寮から選出されているという学生役員。彼らのポスターはいたるところに貼られているため、顔と名前を目にする機械は多い。彼らが実際には何をしている人たちなのかはよく分からないのに、おかしな話である。定期的にミーティングを開いているようではあるが、私たちのキャンパスライフと教育の質を向上させるために、果たして本当に一生懸命働いているのだろうか?問題解決の手段として、平和的な解決策を考えずに暴力的なストライキを指導すること以外には、何か特別な活動でも行っているのだろうか?一部の学生役員が、資金を私用に横領したため、また寮の事務所の放火事件を指揮したためにクビになったという掲示を見たが、非常に残念だ。事実、尊敬や敬服に値することは何もしていないために、彼らはリーダーと呼ぶのに相応しくない。
そればかりか、彼らは選挙期間中に買収行為をしたからこそ当選したというではないか。これは誰も公には語らないが、暗黙の事実である。私は、MUKの学生や実社会で働く人々など、多くの人にMUK学生会についての質問をしたが、誰もがそのように証言した。舞台裏では本物の政党から資金提供を受け、また権力のサポートも受けているようである。政治闘争のオモチャにされているだけだ。彼らのような若いリーダーたちは、この国の希望であり誇りであるべきだ。しかし現実には、彼らほど希望や誇りといった言葉からかけ離れている者はいない。キャンパス内においてすら、民主主義が機能していないのは非常に残念で仕方がない。
学生役員たちが態度を変えられないのであれば、私たちはこれ以上、彼らの存在を必要としない。どちらにせよ何もプラスになるようなことはしていない人たちなのだから、私たちの生活は、さほど劇的には変わらないであろう。

*MUKの総合的な感想と、私からの提案 *

私は、ここでの生活を楽しんでいる。日本とは何もかもが違うため、多くの問題や困難からですら、毎日重要なことを学んでいる。MUKで興味深いと感じたことがあるために、以下に記しておきたい。

a. 学生たちの多くは、実年齢よりも精神的に幼い。彼らからは、周囲に依存しすぎている印象を受け、また実りある会話をするのが非常に難しい。

b. 多くの授業で採用されている物事に対する視点(ディスクール)は、植民地主義および西洋化の影響を強く受けているように感じられる。特に私は、開発関係の授業を多く取っているために感じるのだが、ウガンダやアフリカをそこまで否定的に捉える必要はないのではないかと感じる。

誰もが直面し、もがいている困難を取り除くためには、構造改革が最優先の課題だ。政府や援助機関、学生などによって構成される委員会の設置が、この「見えざる敵」との戦いには必要であると考える。大学の規模がキャパシティーを超えているのなら、規模縮小も考慮するべきだ。教育機関の第一の目的は利益ではなく人材育成にあるため、量よりも質に重きを置くべきだ。
また、MUKは国外の教育研究機関ともっと交流をし、これ以上教育の質が低下するのを防ぐべきである。財線的に現時点でそれが難しいのなら、他のアフリカ諸国出身者を含むウガンダ在住の外国人、高い教育を受けて社会的にも尊敬を集めているウガンダ人及びMUKの卒業生による調査部門を設立し、定期的にMUKの教育の質をチェックすることも可能だ。
正直なところ、私はMUKに落胆している。時々、ここに来たことを後悔することすらある。これ以上、私に降りかかったような問題を大学側が起こさないように、私は強く求めたい。無駄と化した時間と労力はあまりに多く、かけがえのないものだったからだ。もっと有効な使い道は色々あったはずだ。私に与えられた期間はたったの1年間。無駄にできる時間など1秒もないのである。大学内の混乱と無秩序による最後の被害者が私であるように、また、MUKが財政的な腐敗を経験する年が、今年が最後でるように、私は心から願っている。

2007年11月1日木曜日

パン・アフリカニズムが世界を支配する???

これを信じて疑わない二人の学生と食事をした。
3時間ぶっ通しで話をしたので、何を食べたか忘れてしまうほどだった。
彼らの見解を要約すると、このようになる。


今の国際社会は経済から教育に至るまでが西洋に支配されており、またイスラム世界に注目が集まっている。
しかし、それはいずれ終わりを迎えるだろう。
資本主義も崩れるに決まっている。
そう、一つのアフリカ(アフリカ・アズ・ワン)が、ゆくゆくは世界を支配するのだ。
パン・アフリカニズムの時代がやって来るのだ。
パン・アフリカニズムこそが人類最大の幸福であり、混乱した世界を光へと導くのだ!!

若さの故か、私が「そんなのありえないよ」と様々な事実を根拠にして反論をしても、一向に聞こうとしない。
どんなに説明をしても、次のような答えが返ってくるのである。
「冷戦の頃に共産世界の崩壊を誰が予想した?現状から未来を予測するのが必ずしも常に正しいわけではないことを、人類は冷戦の終結をもって肌で感じてきたはずだ。パン・アフリカニズムの可能性を誰も否定はできない。だからこそ、いずれは俺たちの時代がやって来る。」

出たよ、井の中の蛙のウガンダ人。

そういえば、ウガンダ西南部、ルワンダとコンゴの国境近くにあるブニョンニ湖に出かけたとき、地元のガイドが「このように多くの島が点在している湖は、世界中どこを探してもここだけだ。それなのに、なぜ外国人観光客には知られていないのだろう。」と嘆いていた。

信じられない話だが、彼はマケレレ大学で観光業を専攻したエリートで、地元の大学でも教鞭ととっている。
私は、時折とんでもない<世間知らず>ならぬ<世界知らず>のウガンダ人に出会う。

話を戻そう。
この討論以前の私のウガンダ滞在期間はわずか6週間であったが、その短期間の間でも見聞したものを元に、以下の内容を彼らに言った。

第一に、腐敗が横行していて指導者たちは自分の利権しか考えていないようなこの大陸が、一つの理想に向かってまとまれるわけがない。
庶民も、「公共」だとか「みんなのために」という意識が低すぎる。

第二に、世界の他の地域と同様、アフリカの貧富の差は広がる傾向にある。
表向きは血にまみれた紛争から見事に復興し、経済成長も順調に進んでおり、エイズ率も大幅に減少し、多くのドナー国から「アフリカの優等生」として見られているウガンダでさえそう。
加えて、人々の心の奥では金持ちVS貧乏人の対立構造が生まれつつあるような印象を私自身受けている。
同じ一つのカテゴリーに属す人々の間でも、経済格差は生活レベルや選択肢の幅を明確に細分化しており、さらにそれがメディアによって誰の目にも明らかになっている。
こんな時代に、単にアフリカ人であるから、黒人であるからという理由のみでは人々の心は動かない。過去に植民地支配という同じ苦しみを乗り越えた事実が起爆剤となって生まれた強い兄弟意識は廃れてきており、代わりに「貧困」という新たな敵との戦いを共有しているもの同士の結びつきが今後ますます深まるのではないだろうか。
極端に言うと、アフリカは二つに分かれてしまうのではないかという懸念の存在である。

第三に、根本的な話ではあるが、これほどまでにアイデンティティへの意識が高まりを見せている現代において、ある特定の人々のみに通用する概念や制度が新たに世界的に採用されるとういうのは夢のまた夢だ。
二人の学生は人口爆発を理由にその可能性を熱弁していたが、青年たちよ、人口爆発はアジアもイスラム世界も同じなのだよ。
とりわけ南アジアの台頭を過小評価しているのが皮肉であった(東アフリカでは、インド人によるビジネスが活発であり、彼らは必ずしも地元の人から良い目では見られていない)。

書き取って記憶する。
マケレレ式教育の寵児ともいえる彼ら。
この大学に入って、エリートコースまっしぐらの順風満帆の人生を歩んでいると誇らしげだった。
たくさん勉強しているだけあって、持っている「情報」は多いのに、それが知識となっていないのが残念だ。
メディアや既存の権威を疑う姿勢と何冊かの本を薦めて、その日はとりあえずお開きとなった。

しかし、彼らの未来予想図にはあれほど反論した私であるが、パン・アフリカニズムが本当に形成されたとしたら、(彼らが言うほどの程度には浸透しなくとも)世界にどのような影響をもたらすのか、ウガンダに着てからよく考えるようになった。

正直なところ、働かない、考えない、他力本願、権力に弱い、非効率的など、一般的にこの社会を見渡せばネガティブな形容はいくらでもできる。
しかしその一方で、彼らには「実は、ものすごい能力を秘めているのではないだろうか・・・」と思わせる何かが確かに存在する。
そしてそれらは、私たちの思考回路を占領している西洋的価値観では決して見ることができない。
まずはそれを一度壊す試みが必要だろう。