2007年10月28日日曜日

悪循環

第一ラウンド

シラバスというものなどこの国には存在しないため、講義名から内容を想像しなければならない。
最終的な時間割も、授業開始後数週間してから、教授の気まぐれで変更になる場合がほとんどだ。
突然予告もなしに、開講予定であった講義がなくなってしまうことだってざらではない。
極めつけには、どこの事務所に質問しに行っても、99パーセントは無駄に終わる。
何一つ助けてはくれないインターナショナル・オフィスに到着早々愛想をつかせた私は、ウガンダ到着後4日後には必要な手続きはすべて自分の力で行う決意をした。

しかし、ここからが大変であった。長い長い道のりの始まりである。

第一の難関は、科目登録だ。
早稲田大学であれば、登録期間前に全ての調整がなされ、情報も一ヶ所に集まり、ウェブ上で世界中どこからでもあっという間に終えることが可能なこのプロセスだが、ここマケレレ大学では、登録に必要な情報を集めるだけでも3週間以上かかった。
ここは日本とはなにもかもが異なるウガンダだ。
同じ尺度で物事を見てはいけない。
同じ時計で時間を計ってはいけない。

こう自分に言い聞かせたものの、組織という名の底なし沼にずんずん沈んでいくような気持ちがして悲しくなってしまった。
無駄な時間と無駄なエネルギー。
これらを使って、一体どれだけの他のことができただろうか。
しかし、この科目登録は、現地での組織の構成について学ぶいい機会となった。

まず、組織内では正しい情報などほとんどない。
というのは、いわゆる担当者ですら、自分の管轄内の規則や内容に対する知識に欠けているのだ。
誰に聞いてもまともな答えが返ってこない。
たらい回しはしょっちゅう起きるため、お陰でいい運動になった。
まだ日本社会の記憶が深く残っていた当初は、責任感の不在とも思える彼らの対応に毎日腹を立たせていた。

しかし、これからマケレレで勉強をしたいと願っている人のために一つアドバイスをするが、ここで「コイツだと埒が明かない」と判断し、すぐに他の人に情報を求めに走ってしまってはならない。
なぜなら、全員が根拠のない、いい加減なことを言ってその場を取り繕うからだ。
余計な混乱を招くのみである。

最良の方法は、誰でもいいから「一番エライ人」に直接取り合うことだ。
彼らの指示には――例えそれが間違っているものであっても――面白いほど誰もが従う。
また、後に何かトラブルになったとしても比較的簡単に解決されるのだ。

要は、権力に弱いのである。

たかが大学の科目登録であるから笑い話で済まされるものの、これは実は恐ろしいことだ。
アフリカの国々に一般的な、独裁者率いる汚職にまみれた脆い政府の縮図を見たような気がした。

第二ラウンド

2週目の途中から、ようやく講義に出席する時間的余裕ができた。
誰が初めに言い出したのかは分からないが、「東アフリカの東大」と、ある旅行ガイドにも紹介されているこのマケレレ大学の講義は、お世辞にも質が高いとは言いがたい。

まず、教授が現れない。

初めの2週間は、ほとんどの教授が来なかった。
加えて、教授の「出席率」は天気に拠るところが大きい。
当然、雨が降れば出席率は低くなる。
カメハメハ大王の国がうらやましくて仕方のなかった頃もあったが、いざ実際にそのような国に来てしまった今となっては迷惑極まりない話である。

また、彼らが定刻までに来ることは皆無に等しい。
だいたい20分は遅れてくる。
とある教授は、2時間連続講義の場合、30分遅れてやって来ては40分早く切り上げてサッサと帰ってしまう。
別の教授は、講義中も携帯電話を片時も離さない。
「腕時計が壊れているため、ケータイの時計に頼らなくてはいけない」と言ってはいるが、時計代わりという建前で使っているのなら講義中に電話に出るのは控えるべきであろう。学生の電話が鳴ったら怒り出すのに、四六時中メールを打っているようでは示しがつかない。

授業時間は1時間。それぞれの科目は週3時間だ。

私は、農村開発やコミュニティー論などのほか、スワヒリ語や伝統舞踊の授業を取っている。
言語と実技以外の講義には、およそ130人の学生が出席する。
当然マイクもなければパワーポイントもなく、教科書すら存在しない。
教室はやや薄暗く、最低でも前から3列目には陣取らないと授業が聞こえない。
学生の人数の割には部屋が狭く、まとも(・・・)なイスも限られているため、運が悪ければ立ち見も覚悟しなければならない。

講義が始まる。教授がたまに投げかける簡単な質問には、全体が一斉に同じ答えを同じタイミングで返す。「笑っていいとも!!」のスタジオのような感じだ。

時折飛び出すジョークには、「フフフ」という控えめな笑い声で、これまた一斉に反応する。ウガンダ人のツボを理解しない私には、理解を超えた世界である。

更に、ここでは教授がノートをとるべきタイミングを学生に知らせる。
学生たちは教授の口から出る言葉をそっくりそのまま書き写すのだ。

合図と同時に、それまではいい加減な態度で授業に臨んでいた者も慌ててノートを開く。
一文一句逃さずに、正確に。
黒板の質も悪いため、板書を書き写すこともできなければ、参考資料を配布することもない。
よって、これが授業の唯一の情報となる。

教授は、同じ文章をゆっくりと数回繰り返す。
よって、1時間の授業時間のほとんどが、この書き取りの作業に費やされる。
たかだか2、3ページ分のノートの書き取りである。
せめてこれだけでも資料として配布してくれたら、限られた時間を有効に使えるのに。
やがて、書き取りが終わって束の間の説明に入ると同時に、メモを取る学生はほとんどいなくなる。
ロボットでも受けられそうな講義だ。

ここマケレレで修士課程を行っているカナダ人学生にすら、教授の話す、強いアフリカ訛りの英語は外国語に聞こえるという。
よってこの書き取り作業は、それに慣れていないムズング(mzungu=白人:どういうわけか、この社会では、日本人の私もムズングの一人のようである)学生にとっては困難極まりない。
教授のする説明は大まかに理解できるのだ。しかし、誤字脱字なしにノートを取らなければならないとなると、話は別だ。

“many of them”を“mainly attended”と間違えてしまうような英語である。

時には、現地の学生にも理解しがたい英語を話す教授もいる。

日を追うごとに慣れてきているとはいえ、結局、他の人のノートを後で借りて写す結果になる。
だが、今度はノートの持主の筆跡をたどるのが至難の業となってくる。
このように、「書き取り」「書き写し」という、生産性のまったくない作業に多くのエネルギーと時間を使うハメになる。

驚いたことに、数少ない質問の際には、教授の思うとおりに答えられないとクラス全体の前できっぱりと否定されてしまう。
あたかも、教授が正誤を判断する絶対的存在であるかのようである。
正解がある程度限られている、理系の授業での1コマならまだ理解はできる。しかし、正解など存在しない、社会学や人文科学系での授業中ですらこれである。
中には、「間違えた」学生を皮肉たっぷりに笑いのネタにする者も存在するではないか。
これはとある留学生仲間に聞いた話だが、ジェンダーの授業で同性愛についての質問が彼女に投げかけられた。

アフリカ伝統社会では悪と見なされており、タブーであり続けてきた同性愛。現代ウガンダでも、その存在自体を法律で禁止してしまおうとする動きが強いほどである。

人権大国のノルウェー出身で、自身も同性愛者の彼女が擁護論を唱えると、その「間違い」に、まずは教授がバッシングを開始した。そして、教室全体がそれに便乗した。
人々がこの問題にどのような反応を示すかはある程度予測できる事であるが、それを率先して否定しているのが、他でもないジェンダーの教授であった事実は驚きだ。
アフリカにはアフリカの価値観に基づいたジェンダーの理論があるのだろう。

しかし一方で、社会の問題に唯一の正解などある訳がない。
教授によるこのような態度は、ウガンダのような一方通行の教育の下では洗脳の危険性すらはらんでいる。
学生たちは、滅多にない発言の機会を有効活用できなくなってしまう。

こちらでは、自主学習のことをstudyingではなくreadingと呼ぶ。「ノートさえ暗記していればとりあえず心配はいらないよ」と、多くの友人からアドバイスを受けたが、なるほど、寮でも図書館でも、ほとんどの学生はノートを食い入るように見ているだけである。しかし、このような勉強法に疑問を抱いてしまうのは私だけではあるまい。

大学に入ってから1年半になるが、真の意味での学びとは、批判的精神を養い、より良く生きる姿勢を身につけることに重きを置かれるべきであることを日々実感してきた。
情報を批判的に分析しない限り、単なる暗記では、せっかく得た情報も「知識」にはなり得ない。

日本も含め、暗記中心の教育の下では模倣に長けた人材は輩出されるだろう。
しかし、自分自身の力で物事を判断し、新たな創造を社会に生み出す人材は育たない。
結果的に、誰もが必要以上に他者に依存しなければ生きていけない社会になっていく。
そこでは、責任感や任務感の欠如と、それに伴う非効率性がまかり通る。汚職や腐敗が連発するのも当然である。

悪循環だが、これがウガンダの現状だ。教育が「考える力」を奪い取り、学問の世界のみならず実社会でも、人々は他者に従うのみ。
これを文化や伝統の一部と主張する人もいるが、私はそうは思わない。
仮にこれがそうだとしても、文化や伝統を、一部の権力者が乱用しているだけである。

つづく…

2007年10月26日金曜日

ケニア航空にはご注意を

「どの情報も、公式な情報すらも信じるな」「ケニア航空はもう使うな」そして「安いものは常に疑え」エチオピアで学んだ数多くのことのうち、この三つほどトラブルを経て学び取ったものはない。なぜって?そんなの、これを読んだら誰でも分かることである。

入院騒動のせいで、持っていた300ユーロと200ドルすべてをエチオピアの通貨であるバルに両替した私であったが、その多くを結局は使うことなくこの国を去る日が近づいた。サルワのお父さん曰く、バルから外貨への両替は銀行でも空港でも受け付けていないという。仕事で中国にも行ったことのある人だ。これは本当かもしれない。

「現金を私に預けてくれたら、今日にでも闇市に行ってドルに替えてきてあげるよ。」

当然、丁寧かつにこやかにお断りしたが。

ガイドブックの情報によると、パスポートと航空券がないと両替はできないらしいではないか。そこで、必要な書類をすべて持って、アディスの中心部にある銀行へと出かけていった。

「バルからの両替は、一人最大150ドルまでとなっております」

えーーーー!?!?そんなふざけた話があるだろうか。明らかに手元には、その3倍以上の現金がある。しかし、銀行の職員は「法律だ」とだけ言い放ち、慣れた手つきで私のパスポートの最後のページに両替証明のスタンプを押した。

「このスタンプが押してある以上、どこに行ってもこれ以上の両替は無理ですよ。たとえ空港でもね。もう一つ言っておきますが、ナイロビの空港でもウガンダでも、バルを取り扱っている両替所はありませんよ。」

その翌日は、アディスからウガンダのエンテベまで、ナイロビ経由で飛ぶ日であった。ケニア航空が一番安かったため、直行便は諦めたのだ。8月16日。留学先であるマケレレ大学のオリエンテーション最終日に、ギリギリで間に合うはずだった。サルワの家族との最後の夜。私たちは、ブンナ(コーヒー)を片手におしゃべりに花を咲かせていた。この家族と離れるのは寂しかったが、明日から始まる新しい生活に心は躍っていた。お父さんとの一件があったものの、家族との別れは、それはそれは感動的なものだった。

出発の2時間前には空港に到着した。ここまでは、何の変哲もないフライトである。チェックインを済ませ、サルワとの別れを最後まで惜しんだ後、40分前にはゲートに向かった。「またすぐに会えるだろうから、さよならは言わないよ!!」サルワのこの言葉が、まさか現実のものになるなんて・・・。途中、スクリーンでなんどもフライトの最新情報を確認した。すべては順調だった。空港の銀行で、ダメ元で残りの現金の両替を試みた。あっさり受け入れられた。話が違うでないか。この国はどうなっていることやら。

ところが・・・である。

20分前にゲートに着くと、警備員以外誰もいないではないか。それどころか飛行機もなく、ガランとした空っぽの空気は、まさにこれから起こる嵐の予兆であった。その警備員たちですら、ニタニタ笑いながらこちらを見ている。その顔がシャクに障って仕方ない。

「ナイロビ行きのお客様ですか?」アフリカ訛りの強い英語だ。
「・・・・はい。」
「残念ですね、乗り遅れてしまいましたよ。」
(・・・・ん?まだあと20分あるけど・・・)
「ホラ、あそこに見えるでしょう、うちの会社の飛行機が。あれがナイロビ行きなんですよ。」

彼の人差し指の方向を見ると、マジでケニアの赤い機体が滑走路に向かって動いているではないか。状況がつかめなかったが、どうやら大変なことになってしまったらしいことだけは分かった。それにしても、なぜ出発時刻の前なのに?

次の瞬間、ものすごい勢いで私は文句を言っていた。すると、警備員の態度は一転した。たどたどしい英語で「オーケーオーケー、ドントウォーリー。」と、分かってるのかなんなのかよく分からないような言葉を口にし出したのだ。曖昧さと無責任さに私はブチ切れ、しまいにはFワードを叫ぶ始末だった(ごめんなさーい、こればっかりは反省してます)。警備員のうちの一人がゲートの電話で機内との接触を試みたが、電話が壊れていたために失敗に終わった。2時50分。定刻などあってないようなものであるこの国で、事前に知らされていた「出発時刻」ちょうどに、はかなくも飛行機は飛び立っていった。自分が乗るはずだった国際便の離陸を、この目で見届ける気持ちをご想像していただきたい。

警備員では埒が明かないため、マネージャーを呼ばせた。「出発時間とは、うちの会社では離陸時間のことを意味するんですよ。それよりも、名前をアナウンスしたのにどこにいたんですか?」空港内の、それも出国審査の目の前のベンチに座っていたのに、私は自分の名前が呼ばれるのを聞いた記憶はない。サルワも後で同じことを言っていた。責任者であるはずなのに、そのヘラヘラした態度はやはり腑に落ちない。幸い、新たな航空券を購入せずに翌日の便に乗ることが可能であると聞いた。最も安価な航空券とはいえ、学生にとってはやはり簡単に手が出る額ではない。もう一度払わなくてもいい――これを聞いた瞬間、あんなに憎んでいたマネージャーにも飛びついて喜んだ。品川夏乃とは、結局は単純な生き物なのである。

翌日17日のナイロビ行きはまだ空いている。問題はその先だ。エンテベまでの便は満席である。しかし、エチオピアのビザの有効期限が17日であったため、どちらにしろこの国を出なければならない。今回はバックパックでの旅行ではない。スーツケースもあればパソコンもある。そのような状況で、一人でアフリカ一治安が悪いとされるナイロビに滞在するなど想定外にもほどがある。しかし、選択の余地はない。とにかくナイロビまでは行かなくては!!

直前キャンセルが出るという可能性もある。そこで、次のような作戦を立てた。ウガンダの空港まで大学の人が迎えに来る都合上、到着日時を知らせる必要がある。まず、翌朝一にケニア航空のオフィスに電話をかけて最新キャンセル情報を確認する。サルワの家からは国際電話は繋がらず、また、空港の公衆電話はすべて壊れている。よって、途中の道でウガンダに国際電話をかけ、詳細を伝える。完璧だ。

しばらく会わないと思っていた人とすぐに再会する。何とも言いがたい歯がゆい感情だ。バルをドルにすべて替えてしまっていた私は、結局サルワのお父さんに連れられて、その日の夕方人生初の闇市を経験することとなった。夜。自分の楽観主義には本当に呆れてしまうが、ガイドブックで観光情報を読みながら、まさかのナイロビ訪問を密かに楽しみにしている私がいた。

翌日。早朝から、私の作戦はつまずく結果となる。まず停電。電話が使えない。まあ良い。キャンセル確認は、空港に向かうときにだってできる。次に交通渋滞。タクシーが全く動かない。さらにあろうことか、やっと電話屋に着いたと思ったら、受話器の向こうのケニア職員に「お客様の予約番号が登録されていないようなので、オフィスまでいらしてください」と言われる。

予約番号に関してはまったく問題がなかった。というよりも、単なる事務局員の手違いであった。しかし、ナイロビ-エンテベ間が、向こう一週間は予約で一杯だという知らせを聞いて唖然とした。(ということは、ケニアに一週間!?でも、大学は来週には始まるんですけど・・・。)どうして私の人生はこのようなヘンテコなハプニングだらけなのだろう。しかし、どんな状況も楽しむことが自分のモットーであるはずだ。開き直って、今度はケニア全体の観光情報を読みふける私であった。もはや大学などどうでもいい。仮に何か問題があるようなら、陸路での国境越えだってできる。それよりも、読んでみるとなるほど、ケニアは素晴らしい国ではないか。マサイ・マラ国立公園、インド洋沿岸のモンバサ、マサイ族やキクユ族――。私の心は既にサファリを楽しんでいた。宿泊先までマークする始末だった。

それでも一応、誰かが飛行機に間に合わないかもしれない。ナイロビの空港で待ってみる価値はある。そう考え、到着後はエンテベ行きの飛行機の出発ゲートで粘ってみることにした。出発1時間前。残念ながら、すべての乗客がチェックインを済ませたようだ。45分前、30分前。徐々に乗客は集まってくる。歴史は繰り返すというが、この日ほどそれを強く望んだことはない。自分の二の舞を誰かが演じるのをひたすら待つというのも、なかなか変な体験だ。アディス・アババでは、出発時刻=離陸時刻であったのに、同じ会社でもナイロビでは違うらしい。あのマネージャーも、結局は本当のことを言っていたのではないと思うと腹が立つ。(もっとも、単純にずさんな体制の下で、彼自身も把握していなかったという可能性もないわけではないが。)出発時刻から20分発ってもゲートに現れなかった乗客が数名いたため、幸運にも私は飛行機に乗ることができた。

だが、機内に座った後も、機体が動く気配すらない。結局、フライトは1時間40分も遅れた。最後までゲートに来なかった乗客を、従業員が「総出で」探していたためであるという。アディスの、ゲートが五つしかないほど小さな空港では私の名前すら放送せず、挙句の果てには出発時刻前に置いて行ったクセに、なぜナイロビの巨大な空港では遅れている客の捜索をし、そのために飛行機を遅らせることが可能だったのか?謎としか言いようがないが、一つだけ言えることは「ケニアはもう使わない」ということだ。そして、安いものには常に注意すること。アフリカでは、特にである。

そんなこんなで、ウガンダに到着するころには心も体も疲れきってしまっていた。トホホ・・・。

ハラ―ル

メディナ、メッカ、エルサレムに次ぐ、イスラム教第四の聖都と呼ばれているハラールという街がある。

壁に囲まれ、細い路地は迷路のように街中を張り巡り、数え切れないほどのモスクがあちこちに点在する。
古くから、アフリカ・インド・中東間の交易の場として発達したハラールは、17世紀になるとイスラム教の学問における重要な街として有名になり、1854年まで異教徒が入ることはなかった。現在でも人々は独自の言葉で会話し、独自の衣服に身を包み、独自の住居で眠る。

サルワの友達がこの街に住んでいるため、行ってみようということになった。ムスリムである彼女にとっても、特別な街であるのだ。

朝の5時。アディスのバスターミナルに到着した。夜明け前だというのにところ狭しとバスは並んでおり、その間を数百人の人々が大きな荷物を持って埋め尽くしている。雨季の地面はぬかるんでおり、さらにバスからは真っ黒い排気ガスがドンドコ排出されている。辺りが明るくなるころにはバスの出入りも人の出入り激しくなり、クラクション音と客呼びの叫び声で、その場のエネルギーは最高潮に達した。

6時には乗車券を買ったのに、それから3時間バスを待った。と、どうやら置いていかれたらしいということが判明した。自称バス関係者というおじさんに連れられて乗り合いタクシーに慌てて乗り、かなり離れたところで待っていたバスに乗り込んだ。中に入って唖然とした。どう考えても客を詰め込みすぎだ。三人用のイスに、四人が乗っている。「これに乗ってあと10時間か・・・。」しかし、インドのことを思えばましなものだった。インドで似たような状況で32時間の移動を経験した私は、おそらくしばらくは、それより酷な移動というものを経験せずに済むだろう(と信じたい)。

どういうわけか、バスでは窓を開けることは禁止されており、蒸し風呂状そのものであった。小さな子ども黙って大人しく座っている。窓から見える景色は、街から村へ、草原から山へと常に変化しているため、眺めていて飽きることがない。東へ行けば行くほど、人々の服がカラフルになっていく。また、この国では、HIV/エイズの予防が盛んに行われているのが十分に見受けられる。首都には啓発のための看板が溢れていたが、例えば無人地帯の草原の中でも、レッドリボンが描かれた看板はしばしば見られる。インドにはなかった光景だ。

昼過ぎになると、周りのオヤジたちが、何やら葉っぱを食べだした。チャットと呼ばれているこの植物には、どうやら興奮作用があるらしい。運転手は、これのおかげで長時間の荒い運転を乗り切れるのだとか。では、チャットなしならどうなってしまうのだろう。ふと、日本にいたころ、仲良くしていただいていたアフリカの専門家の先生から受けた忠告を思い出した。「現地では、病気よりもテロよりも、交通事故の方が遥かに危険だから気をつけてね」

夕方5時。予定よりも早めにハラールに到着した。

ハラール人は、誇り高き人々だ。自分たちの持つ独自性を非常に大切にしている。サルワの友達であるエイケンもそう。ハラール伝統様式の彼の家には、四家族が暮らしており、江戸時代の長屋のような感じである。居間は、全体が階段のようなつくりになっている。細かい模様の絹ときらびやかなクッションで装飾され、お香がたいてあるために居心地が良い。ハラールの女性は美しいという評判だが、エイケンの母親もその一人だ。アラブ女性特有の褐色の肌はつやつやしており、六十近くだと聞いたときには驚いた。同じ家で暮らすおばあさんも綺麗な女性だった。髪も肌も、ピカピカしているのだ。この地方では、水がいいらしい。結局ハラールには、予定よりも長く6日間も滞在することとなった。日を重ねるごとにこの街に魅せられていくのが実感できる、不思議な街だった。一度旅行で訪れ、それ以来、イスラム教に改宗までしてそこに居座ってしまったというスペイン人アーティストに出会った。彼は、いずれこの街で暮らすことになるということに最初から勘付いていたという。

色とりどりのビーズの装飾品をつけてマンゴーを道端で売っているのは、オロモ人の女性たちだ。彼女たちは、大きな荷物を頭に載せ、毎朝近くの村から歩いてやってくる。近くといっても、距離は相当なものに違いない。日差しの強い日中でも場所を離れることなく、多くの時間を居眠りやおしゃべり、あるいはマンゴーにたかるハエを追い払うのに費やす。(写真は撮らせてくれるが、あとでお金を請求されるので要注意!!)街にいくつかある門の近くには、賑やかな市場が存在する。よく見ると、海外からの援助物資が紛れていたりする。その市場から少し歩くと、もうそこは静かな路地。アラビアンナイトの物語から飛び出したような世界が広がっている。モスクからは祈りの声が聞こえ、現在でも夜になると「ハイエナの餌付け」の習慣が残る。ハラールは、そんな場所だ。

その、「ハイエナの餌付け」を見に行ってみようということになった。なぜこのような習慣が始まったのかについては謎であるが、到着してみると、動物園の檻の中で昔見た、あのハイエナが、餌を与えている男性の顔をなめているではないか。近くで見ると、案外彼らが愛嬌のある動物であることが分かった。ちょっとしたスリルだった。

ハラールからさらに東に行くと、ソマリ人の土地が広がっている。すぐそこはソマリアだ。私がアフリカに興味を持ち出したのも、このソマリアの影響が大きい。内戦状態が続き、政府すらもナイロビに亡命しているという無法地帯であるのに、世界の関心は必ずしも高いとはいえない。現在の私の興味分野の一つであるFGM(女性性器切除)の風習について知ったのも、この国出身であるスーパーモデル、ワイス・ディリーが書いた『砂漠の女ディリー』がきっかけであった。ソマリア入国などとんでもない話であるが、せめて近くまで来たのだから、ソマリ人の文化に触れてみたい。そう思って、ジジガという街に行ってみることにした。サルワもエイケンも家族の許可を得ることができなかったため、今回は私一人だ。

ジジガは、ハラールからバスで約4時間だ。赤茶けた渓谷の間を、ラクダの群れの近くを、遊牧民の家のそばを、ぎゅうぎゅう詰めのバスは走っていった。ハラールよりも先はコンクリートで舗装された道路がないため、今回の旅はまさに小さな冒険だ。さらに、4時間というわずかな旅程であるにも関わらず、五つの検問所を通過した。身分証明書がない者は通過することができない。私が訪れた数日前に、バスの屋根に積まれた荷物が爆発する事件があったようで、武装した兵士たちがバスの隅々までをくまなく取り調べていた。ジジガからハラールに戻る道での検問はさらに厳しいものだった。あるソマリ人母娘はバスから降ろされた。母親は、何とかして二人そろってバスに残ろうとしたが、それでも兵隊に無理矢理降ろされた。周りの乗客は、娘だけでもバスに残そうとした。しかし、まだ幼い娘は泣き叫び、結局母娘は検問所でバスを去った。検問所の近くに座り込んでいた、やはり同じように何らかの事情でその場に残らなければいけなかった人々の中に消えていった彼女たち。私の後ろに座っていたジジガ在住の男性は、エチオピア国内で暮らすソマリ人難民について多くを教えてくれた。ただでさえ失業率の高いエチオピアである。難民たちにとって就業は困難であり、また、エチオピア人にとってもソマリ人の存在は必ずしも歓迎すべきものではないという。それでも「あの母娘は何もしてないのにな。まったく、変な世の中になっちまったよ。」時折すれ違ったUNDPの車や軍用車は、ニュースの中にしか存在しないと思っていた世界がほんの目と鼻の先にあることを実感させた。

ジジガは平凡な街だったが、同時に、短いエチオピア滞在で最も心を打たれた街でもあった。ここの特徴を強いて挙げるとしたら、言語だろう。ここではアマハリ語ではなくソマリ語表記が通常だ。市場は安価なソマリア商品で溢れている。水も、エチオピア産かソマリア産かで値段が異なる。人々はさらに親切だ。道端で昼食をとっていたおばさんたちに招かれて、そこに2時間も居座ってしまった。言葉は通じなかったが、楽しいひと時だった。また、一緒にサッカーをして遊んだ子どもたちの家にも招待された。ブンナ(コーヒー)で手厚くもてなされ、帰るころには彼らは皆泣いてしまった。

出逢った人のうち何人が難民であったかを知る由はなかったが、一日も早い紛争の解決を願わずにはいられない。

2007年10月10日水曜日

小さなイライラ

9月14日の日記より

小さなイライラが溜まってきてる日本人留学生の私です。

ウガンダに負けない!!


最近は、ネット環境のあまりの悪さに参っております。

なぜ、ネットのアクセスを求めて30分もパソコン抱えて彷徨わなきゃいけないのか。
なぜ、スカイプができないのか。
なぜ、mixi書けるのにfacebookにも写真アップできるのに、ブログでは無理なのか。
なぜ、昨日までつながったところが今日になると機能しなくなっているのか。

うん、こればっかりはしょうがないね。
ウガウガだもん。


蚊ーーーーーー

蝿ーーーーーー


お願いだから消えてください。


ウガンダ人ーーーーー

お願いだから私を放っておいてください。
あなたたちにとって、ムズング(白人)の友達がいるということは、
一種のステータスであるらしいじゃないですか。何人かから聞きましたよ。
だからって、すれ違いざまに電話番号聞いてきたり、
腕をつかんできたりするのは常識外じゃないですか?
そもそも、私のどこがムズングなのでしょう。
頼むから、静かな生活を送らせて。


大学生諸君!!

君らはちょっと幼稚過ぎないかー


様々な組織の中のみなさん!!

権力に弱すぎ。


道端のお店のおばちゃんおじちゃんおにいちゃーん!!

揚げ物以外の調理法を知らないのですかー?




あーーーーー、なんか、スッキリしたー。明日からまたがんばろーっと。

ついに!!!!

8月30日の日記より

やったー!!
ついに、パソコンをネットにつなげる場所を発見!!
ってなわけで、ちゃんとアフリカレポートをブログに載せていきたいと思いますねー、日本語も打てるようになったわけだし。

でも、ご存知のとおりエチオピアでカメラを盗まれたため、写真はあまりないですが・・・。
ま、なんとかします。

(実はその後、S子がウガンダまで新しいデジカメを渡しに行きました。笑)

昨日は、友達第一号が早速ウガンダにやってきました。イエイ!!
彼女は北部で3週間ほどボランティアをするそうです。
その間、私は学校でお勉強・・・。
彼女の仕事が終わり次第、学校を休んで旅行に行く予定。
今のところ、サファリが有力候補だけど、どうしようかなー。
こっちでは、なるべく夜間のコースを多めに取って、昼間はどっかでインターンをしたいって思ってます。
できれば週末には農村地帯に行っていろいろやってみたい。
まだ情報を集めてる段階だからなんともいえないけど、うまくいくといいなって願ってます。
そうそう、きのうね、ついにリタのママに会ったよ!!
私が出発する前の日から日本に来てたんだよね。
関空でテイクオフを待ってるときに、最後に受けた電話がリタからだったの。
私の住んでる寮にリタの大親友がたまたまいて、その子と一緒に出かけたよ。
彼女はリタも支援を受けてる某団体の招待で、去年東京に来たんだって!!
そういうのも色々あって、なぜか運命を感じてしまいました。
日曜日に一日、リタの家族と過ごす予定。

さっき、朝の7時から(!!)最初の授業を受けてきました。
実は先週の頭に始まってたんだけど、
先生が来なかったり相当適当な科目登録制度のせいで、全然受けられなかったんだよね。
インド人の適当さは許せても、ウガンダ人の適当さには結構キテます。

誰もきちんとした情報を何も持ってなくて、
たらい回しは当たり前。
オフィスにいても誰もおらず、
「ランチに行ったみたいだから、2時間ぐらい待ってれば帰ってくるんじゃないかなー」
との返事もざらではありません。
入国管理局でさえ適当。
もう既に今週2回も行ったのに、まだビザの延長ができません(東京の大使館では3ヶ月の観光ビザしか取れなくて、長期の学生ビザは現地調達っていう結論だったんだよね)。
まー、こんな感じです。

適当です。

テキトー。

SILS(早稲田大学国際教養学部)の事務所にムカついてたころが懐かしいです。
彼らは良く働いていました・・・・
今思うとね。

肝心の授業ですが、なぜか小学校を思い出しました(笑)
黒板のチョークも質が悪くてよく見えないし、
電気はないし、もちろんパワポもマイクもない!!

んで学生の数は半端ない(教授体制との割合は最悪)から聞こえないし見えない。
おまけにかなりアフリカなまりの英語で、半分くらいしかわかりませんでした。
まー、こんなん(困難??w)だけど、
こうした「えーーーーーー!!!!」を一日でも早く、彼らの長所として見られるようになれたら幸いです。

ps。。。もちろん、寮にあるシャワーはお湯が出ないし、ただの水でさえ、突然止まります。
それどころか、トイレもたまにしか流れないし、そもそもカギがパクられててない!!

ご飯は昼も夜も毎日毎日毎日毎日ポショ(トウモロコシの粉を練ったもの??)とマトケ(主食用バナナ)と豆のみだし、
週三回は「朝ごはん」は紅茶のみ!!
停電はしょっちゅうだからロウソクは常備してないといけないし、
当然洗濯機もキッチンも掃除機もないから全部自分でやらないと。

まっ、インドと似たようなもんだね。

あれが今回は1年だって思えばいいだけの話だと思ってる!!笑