2007年10月26日金曜日

ケニア航空にはご注意を

「どの情報も、公式な情報すらも信じるな」「ケニア航空はもう使うな」そして「安いものは常に疑え」エチオピアで学んだ数多くのことのうち、この三つほどトラブルを経て学び取ったものはない。なぜって?そんなの、これを読んだら誰でも分かることである。

入院騒動のせいで、持っていた300ユーロと200ドルすべてをエチオピアの通貨であるバルに両替した私であったが、その多くを結局は使うことなくこの国を去る日が近づいた。サルワのお父さん曰く、バルから外貨への両替は銀行でも空港でも受け付けていないという。仕事で中国にも行ったことのある人だ。これは本当かもしれない。

「現金を私に預けてくれたら、今日にでも闇市に行ってドルに替えてきてあげるよ。」

当然、丁寧かつにこやかにお断りしたが。

ガイドブックの情報によると、パスポートと航空券がないと両替はできないらしいではないか。そこで、必要な書類をすべて持って、アディスの中心部にある銀行へと出かけていった。

「バルからの両替は、一人最大150ドルまでとなっております」

えーーーー!?!?そんなふざけた話があるだろうか。明らかに手元には、その3倍以上の現金がある。しかし、銀行の職員は「法律だ」とだけ言い放ち、慣れた手つきで私のパスポートの最後のページに両替証明のスタンプを押した。

「このスタンプが押してある以上、どこに行ってもこれ以上の両替は無理ですよ。たとえ空港でもね。もう一つ言っておきますが、ナイロビの空港でもウガンダでも、バルを取り扱っている両替所はありませんよ。」

その翌日は、アディスからウガンダのエンテベまで、ナイロビ経由で飛ぶ日であった。ケニア航空が一番安かったため、直行便は諦めたのだ。8月16日。留学先であるマケレレ大学のオリエンテーション最終日に、ギリギリで間に合うはずだった。サルワの家族との最後の夜。私たちは、ブンナ(コーヒー)を片手におしゃべりに花を咲かせていた。この家族と離れるのは寂しかったが、明日から始まる新しい生活に心は躍っていた。お父さんとの一件があったものの、家族との別れは、それはそれは感動的なものだった。

出発の2時間前には空港に到着した。ここまでは、何の変哲もないフライトである。チェックインを済ませ、サルワとの別れを最後まで惜しんだ後、40分前にはゲートに向かった。「またすぐに会えるだろうから、さよならは言わないよ!!」サルワのこの言葉が、まさか現実のものになるなんて・・・。途中、スクリーンでなんどもフライトの最新情報を確認した。すべては順調だった。空港の銀行で、ダメ元で残りの現金の両替を試みた。あっさり受け入れられた。話が違うでないか。この国はどうなっていることやら。

ところが・・・である。

20分前にゲートに着くと、警備員以外誰もいないではないか。それどころか飛行機もなく、ガランとした空っぽの空気は、まさにこれから起こる嵐の予兆であった。その警備員たちですら、ニタニタ笑いながらこちらを見ている。その顔がシャクに障って仕方ない。

「ナイロビ行きのお客様ですか?」アフリカ訛りの強い英語だ。
「・・・・はい。」
「残念ですね、乗り遅れてしまいましたよ。」
(・・・・ん?まだあと20分あるけど・・・)
「ホラ、あそこに見えるでしょう、うちの会社の飛行機が。あれがナイロビ行きなんですよ。」

彼の人差し指の方向を見ると、マジでケニアの赤い機体が滑走路に向かって動いているではないか。状況がつかめなかったが、どうやら大変なことになってしまったらしいことだけは分かった。それにしても、なぜ出発時刻の前なのに?

次の瞬間、ものすごい勢いで私は文句を言っていた。すると、警備員の態度は一転した。たどたどしい英語で「オーケーオーケー、ドントウォーリー。」と、分かってるのかなんなのかよく分からないような言葉を口にし出したのだ。曖昧さと無責任さに私はブチ切れ、しまいにはFワードを叫ぶ始末だった(ごめんなさーい、こればっかりは反省してます)。警備員のうちの一人がゲートの電話で機内との接触を試みたが、電話が壊れていたために失敗に終わった。2時50分。定刻などあってないようなものであるこの国で、事前に知らされていた「出発時刻」ちょうどに、はかなくも飛行機は飛び立っていった。自分が乗るはずだった国際便の離陸を、この目で見届ける気持ちをご想像していただきたい。

警備員では埒が明かないため、マネージャーを呼ばせた。「出発時間とは、うちの会社では離陸時間のことを意味するんですよ。それよりも、名前をアナウンスしたのにどこにいたんですか?」空港内の、それも出国審査の目の前のベンチに座っていたのに、私は自分の名前が呼ばれるのを聞いた記憶はない。サルワも後で同じことを言っていた。責任者であるはずなのに、そのヘラヘラした態度はやはり腑に落ちない。幸い、新たな航空券を購入せずに翌日の便に乗ることが可能であると聞いた。最も安価な航空券とはいえ、学生にとってはやはり簡単に手が出る額ではない。もう一度払わなくてもいい――これを聞いた瞬間、あんなに憎んでいたマネージャーにも飛びついて喜んだ。品川夏乃とは、結局は単純な生き物なのである。

翌日17日のナイロビ行きはまだ空いている。問題はその先だ。エンテベまでの便は満席である。しかし、エチオピアのビザの有効期限が17日であったため、どちらにしろこの国を出なければならない。今回はバックパックでの旅行ではない。スーツケースもあればパソコンもある。そのような状況で、一人でアフリカ一治安が悪いとされるナイロビに滞在するなど想定外にもほどがある。しかし、選択の余地はない。とにかくナイロビまでは行かなくては!!

直前キャンセルが出るという可能性もある。そこで、次のような作戦を立てた。ウガンダの空港まで大学の人が迎えに来る都合上、到着日時を知らせる必要がある。まず、翌朝一にケニア航空のオフィスに電話をかけて最新キャンセル情報を確認する。サルワの家からは国際電話は繋がらず、また、空港の公衆電話はすべて壊れている。よって、途中の道でウガンダに国際電話をかけ、詳細を伝える。完璧だ。

しばらく会わないと思っていた人とすぐに再会する。何とも言いがたい歯がゆい感情だ。バルをドルにすべて替えてしまっていた私は、結局サルワのお父さんに連れられて、その日の夕方人生初の闇市を経験することとなった。夜。自分の楽観主義には本当に呆れてしまうが、ガイドブックで観光情報を読みながら、まさかのナイロビ訪問を密かに楽しみにしている私がいた。

翌日。早朝から、私の作戦はつまずく結果となる。まず停電。電話が使えない。まあ良い。キャンセル確認は、空港に向かうときにだってできる。次に交通渋滞。タクシーが全く動かない。さらにあろうことか、やっと電話屋に着いたと思ったら、受話器の向こうのケニア職員に「お客様の予約番号が登録されていないようなので、オフィスまでいらしてください」と言われる。

予約番号に関してはまったく問題がなかった。というよりも、単なる事務局員の手違いであった。しかし、ナイロビ-エンテベ間が、向こう一週間は予約で一杯だという知らせを聞いて唖然とした。(ということは、ケニアに一週間!?でも、大学は来週には始まるんですけど・・・。)どうして私の人生はこのようなヘンテコなハプニングだらけなのだろう。しかし、どんな状況も楽しむことが自分のモットーであるはずだ。開き直って、今度はケニア全体の観光情報を読みふける私であった。もはや大学などどうでもいい。仮に何か問題があるようなら、陸路での国境越えだってできる。それよりも、読んでみるとなるほど、ケニアは素晴らしい国ではないか。マサイ・マラ国立公園、インド洋沿岸のモンバサ、マサイ族やキクユ族――。私の心は既にサファリを楽しんでいた。宿泊先までマークする始末だった。

それでも一応、誰かが飛行機に間に合わないかもしれない。ナイロビの空港で待ってみる価値はある。そう考え、到着後はエンテベ行きの飛行機の出発ゲートで粘ってみることにした。出発1時間前。残念ながら、すべての乗客がチェックインを済ませたようだ。45分前、30分前。徐々に乗客は集まってくる。歴史は繰り返すというが、この日ほどそれを強く望んだことはない。自分の二の舞を誰かが演じるのをひたすら待つというのも、なかなか変な体験だ。アディス・アババでは、出発時刻=離陸時刻であったのに、同じ会社でもナイロビでは違うらしい。あのマネージャーも、結局は本当のことを言っていたのではないと思うと腹が立つ。(もっとも、単純にずさんな体制の下で、彼自身も把握していなかったという可能性もないわけではないが。)出発時刻から20分発ってもゲートに現れなかった乗客が数名いたため、幸運にも私は飛行機に乗ることができた。

だが、機内に座った後も、機体が動く気配すらない。結局、フライトは1時間40分も遅れた。最後までゲートに来なかった乗客を、従業員が「総出で」探していたためであるという。アディスの、ゲートが五つしかないほど小さな空港では私の名前すら放送せず、挙句の果てには出発時刻前に置いて行ったクセに、なぜナイロビの巨大な空港では遅れている客の捜索をし、そのために飛行機を遅らせることが可能だったのか?謎としか言いようがないが、一つだけ言えることは「ケニアはもう使わない」ということだ。そして、安いものには常に注意すること。アフリカでは、特にである。

そんなこんなで、ウガンダに到着するころには心も体も疲れきってしまっていた。トホホ・・・。

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