2007年10月28日日曜日

悪循環

第一ラウンド

シラバスというものなどこの国には存在しないため、講義名から内容を想像しなければならない。
最終的な時間割も、授業開始後数週間してから、教授の気まぐれで変更になる場合がほとんどだ。
突然予告もなしに、開講予定であった講義がなくなってしまうことだってざらではない。
極めつけには、どこの事務所に質問しに行っても、99パーセントは無駄に終わる。
何一つ助けてはくれないインターナショナル・オフィスに到着早々愛想をつかせた私は、ウガンダ到着後4日後には必要な手続きはすべて自分の力で行う決意をした。

しかし、ここからが大変であった。長い長い道のりの始まりである。

第一の難関は、科目登録だ。
早稲田大学であれば、登録期間前に全ての調整がなされ、情報も一ヶ所に集まり、ウェブ上で世界中どこからでもあっという間に終えることが可能なこのプロセスだが、ここマケレレ大学では、登録に必要な情報を集めるだけでも3週間以上かかった。
ここは日本とはなにもかもが異なるウガンダだ。
同じ尺度で物事を見てはいけない。
同じ時計で時間を計ってはいけない。

こう自分に言い聞かせたものの、組織という名の底なし沼にずんずん沈んでいくような気持ちがして悲しくなってしまった。
無駄な時間と無駄なエネルギー。
これらを使って、一体どれだけの他のことができただろうか。
しかし、この科目登録は、現地での組織の構成について学ぶいい機会となった。

まず、組織内では正しい情報などほとんどない。
というのは、いわゆる担当者ですら、自分の管轄内の規則や内容に対する知識に欠けているのだ。
誰に聞いてもまともな答えが返ってこない。
たらい回しはしょっちゅう起きるため、お陰でいい運動になった。
まだ日本社会の記憶が深く残っていた当初は、責任感の不在とも思える彼らの対応に毎日腹を立たせていた。

しかし、これからマケレレで勉強をしたいと願っている人のために一つアドバイスをするが、ここで「コイツだと埒が明かない」と判断し、すぐに他の人に情報を求めに走ってしまってはならない。
なぜなら、全員が根拠のない、いい加減なことを言ってその場を取り繕うからだ。
余計な混乱を招くのみである。

最良の方法は、誰でもいいから「一番エライ人」に直接取り合うことだ。
彼らの指示には――例えそれが間違っているものであっても――面白いほど誰もが従う。
また、後に何かトラブルになったとしても比較的簡単に解決されるのだ。

要は、権力に弱いのである。

たかが大学の科目登録であるから笑い話で済まされるものの、これは実は恐ろしいことだ。
アフリカの国々に一般的な、独裁者率いる汚職にまみれた脆い政府の縮図を見たような気がした。

第二ラウンド

2週目の途中から、ようやく講義に出席する時間的余裕ができた。
誰が初めに言い出したのかは分からないが、「東アフリカの東大」と、ある旅行ガイドにも紹介されているこのマケレレ大学の講義は、お世辞にも質が高いとは言いがたい。

まず、教授が現れない。

初めの2週間は、ほとんどの教授が来なかった。
加えて、教授の「出席率」は天気に拠るところが大きい。
当然、雨が降れば出席率は低くなる。
カメハメハ大王の国がうらやましくて仕方のなかった頃もあったが、いざ実際にそのような国に来てしまった今となっては迷惑極まりない話である。

また、彼らが定刻までに来ることは皆無に等しい。
だいたい20分は遅れてくる。
とある教授は、2時間連続講義の場合、30分遅れてやって来ては40分早く切り上げてサッサと帰ってしまう。
別の教授は、講義中も携帯電話を片時も離さない。
「腕時計が壊れているため、ケータイの時計に頼らなくてはいけない」と言ってはいるが、時計代わりという建前で使っているのなら講義中に電話に出るのは控えるべきであろう。学生の電話が鳴ったら怒り出すのに、四六時中メールを打っているようでは示しがつかない。

授業時間は1時間。それぞれの科目は週3時間だ。

私は、農村開発やコミュニティー論などのほか、スワヒリ語や伝統舞踊の授業を取っている。
言語と実技以外の講義には、およそ130人の学生が出席する。
当然マイクもなければパワーポイントもなく、教科書すら存在しない。
教室はやや薄暗く、最低でも前から3列目には陣取らないと授業が聞こえない。
学生の人数の割には部屋が狭く、まとも(・・・)なイスも限られているため、運が悪ければ立ち見も覚悟しなければならない。

講義が始まる。教授がたまに投げかける簡単な質問には、全体が一斉に同じ答えを同じタイミングで返す。「笑っていいとも!!」のスタジオのような感じだ。

時折飛び出すジョークには、「フフフ」という控えめな笑い声で、これまた一斉に反応する。ウガンダ人のツボを理解しない私には、理解を超えた世界である。

更に、ここでは教授がノートをとるべきタイミングを学生に知らせる。
学生たちは教授の口から出る言葉をそっくりそのまま書き写すのだ。

合図と同時に、それまではいい加減な態度で授業に臨んでいた者も慌ててノートを開く。
一文一句逃さずに、正確に。
黒板の質も悪いため、板書を書き写すこともできなければ、参考資料を配布することもない。
よって、これが授業の唯一の情報となる。

教授は、同じ文章をゆっくりと数回繰り返す。
よって、1時間の授業時間のほとんどが、この書き取りの作業に費やされる。
たかだか2、3ページ分のノートの書き取りである。
せめてこれだけでも資料として配布してくれたら、限られた時間を有効に使えるのに。
やがて、書き取りが終わって束の間の説明に入ると同時に、メモを取る学生はほとんどいなくなる。
ロボットでも受けられそうな講義だ。

ここマケレレで修士課程を行っているカナダ人学生にすら、教授の話す、強いアフリカ訛りの英語は外国語に聞こえるという。
よってこの書き取り作業は、それに慣れていないムズング(mzungu=白人:どういうわけか、この社会では、日本人の私もムズングの一人のようである)学生にとっては困難極まりない。
教授のする説明は大まかに理解できるのだ。しかし、誤字脱字なしにノートを取らなければならないとなると、話は別だ。

“many of them”を“mainly attended”と間違えてしまうような英語である。

時には、現地の学生にも理解しがたい英語を話す教授もいる。

日を追うごとに慣れてきているとはいえ、結局、他の人のノートを後で借りて写す結果になる。
だが、今度はノートの持主の筆跡をたどるのが至難の業となってくる。
このように、「書き取り」「書き写し」という、生産性のまったくない作業に多くのエネルギーと時間を使うハメになる。

驚いたことに、数少ない質問の際には、教授の思うとおりに答えられないとクラス全体の前できっぱりと否定されてしまう。
あたかも、教授が正誤を判断する絶対的存在であるかのようである。
正解がある程度限られている、理系の授業での1コマならまだ理解はできる。しかし、正解など存在しない、社会学や人文科学系での授業中ですらこれである。
中には、「間違えた」学生を皮肉たっぷりに笑いのネタにする者も存在するではないか。
これはとある留学生仲間に聞いた話だが、ジェンダーの授業で同性愛についての質問が彼女に投げかけられた。

アフリカ伝統社会では悪と見なされており、タブーであり続けてきた同性愛。現代ウガンダでも、その存在自体を法律で禁止してしまおうとする動きが強いほどである。

人権大国のノルウェー出身で、自身も同性愛者の彼女が擁護論を唱えると、その「間違い」に、まずは教授がバッシングを開始した。そして、教室全体がそれに便乗した。
人々がこの問題にどのような反応を示すかはある程度予測できる事であるが、それを率先して否定しているのが、他でもないジェンダーの教授であった事実は驚きだ。
アフリカにはアフリカの価値観に基づいたジェンダーの理論があるのだろう。

しかし一方で、社会の問題に唯一の正解などある訳がない。
教授によるこのような態度は、ウガンダのような一方通行の教育の下では洗脳の危険性すらはらんでいる。
学生たちは、滅多にない発言の機会を有効活用できなくなってしまう。

こちらでは、自主学習のことをstudyingではなくreadingと呼ぶ。「ノートさえ暗記していればとりあえず心配はいらないよ」と、多くの友人からアドバイスを受けたが、なるほど、寮でも図書館でも、ほとんどの学生はノートを食い入るように見ているだけである。しかし、このような勉強法に疑問を抱いてしまうのは私だけではあるまい。

大学に入ってから1年半になるが、真の意味での学びとは、批判的精神を養い、より良く生きる姿勢を身につけることに重きを置かれるべきであることを日々実感してきた。
情報を批判的に分析しない限り、単なる暗記では、せっかく得た情報も「知識」にはなり得ない。

日本も含め、暗記中心の教育の下では模倣に長けた人材は輩出されるだろう。
しかし、自分自身の力で物事を判断し、新たな創造を社会に生み出す人材は育たない。
結果的に、誰もが必要以上に他者に依存しなければ生きていけない社会になっていく。
そこでは、責任感や任務感の欠如と、それに伴う非効率性がまかり通る。汚職や腐敗が連発するのも当然である。

悪循環だが、これがウガンダの現状だ。教育が「考える力」を奪い取り、学問の世界のみならず実社会でも、人々は他者に従うのみ。
これを文化や伝統の一部と主張する人もいるが、私はそうは思わない。
仮にこれがそうだとしても、文化や伝統を、一部の権力者が乱用しているだけである。

つづく…

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