2007年10月26日金曜日

ハラ―ル

メディナ、メッカ、エルサレムに次ぐ、イスラム教第四の聖都と呼ばれているハラールという街がある。

壁に囲まれ、細い路地は迷路のように街中を張り巡り、数え切れないほどのモスクがあちこちに点在する。
古くから、アフリカ・インド・中東間の交易の場として発達したハラールは、17世紀になるとイスラム教の学問における重要な街として有名になり、1854年まで異教徒が入ることはなかった。現在でも人々は独自の言葉で会話し、独自の衣服に身を包み、独自の住居で眠る。

サルワの友達がこの街に住んでいるため、行ってみようということになった。ムスリムである彼女にとっても、特別な街であるのだ。

朝の5時。アディスのバスターミナルに到着した。夜明け前だというのにところ狭しとバスは並んでおり、その間を数百人の人々が大きな荷物を持って埋め尽くしている。雨季の地面はぬかるんでおり、さらにバスからは真っ黒い排気ガスがドンドコ排出されている。辺りが明るくなるころにはバスの出入りも人の出入り激しくなり、クラクション音と客呼びの叫び声で、その場のエネルギーは最高潮に達した。

6時には乗車券を買ったのに、それから3時間バスを待った。と、どうやら置いていかれたらしいということが判明した。自称バス関係者というおじさんに連れられて乗り合いタクシーに慌てて乗り、かなり離れたところで待っていたバスに乗り込んだ。中に入って唖然とした。どう考えても客を詰め込みすぎだ。三人用のイスに、四人が乗っている。「これに乗ってあと10時間か・・・。」しかし、インドのことを思えばましなものだった。インドで似たような状況で32時間の移動を経験した私は、おそらくしばらくは、それより酷な移動というものを経験せずに済むだろう(と信じたい)。

どういうわけか、バスでは窓を開けることは禁止されており、蒸し風呂状そのものであった。小さな子ども黙って大人しく座っている。窓から見える景色は、街から村へ、草原から山へと常に変化しているため、眺めていて飽きることがない。東へ行けば行くほど、人々の服がカラフルになっていく。また、この国では、HIV/エイズの予防が盛んに行われているのが十分に見受けられる。首都には啓発のための看板が溢れていたが、例えば無人地帯の草原の中でも、レッドリボンが描かれた看板はしばしば見られる。インドにはなかった光景だ。

昼過ぎになると、周りのオヤジたちが、何やら葉っぱを食べだした。チャットと呼ばれているこの植物には、どうやら興奮作用があるらしい。運転手は、これのおかげで長時間の荒い運転を乗り切れるのだとか。では、チャットなしならどうなってしまうのだろう。ふと、日本にいたころ、仲良くしていただいていたアフリカの専門家の先生から受けた忠告を思い出した。「現地では、病気よりもテロよりも、交通事故の方が遥かに危険だから気をつけてね」

夕方5時。予定よりも早めにハラールに到着した。

ハラール人は、誇り高き人々だ。自分たちの持つ独自性を非常に大切にしている。サルワの友達であるエイケンもそう。ハラール伝統様式の彼の家には、四家族が暮らしており、江戸時代の長屋のような感じである。居間は、全体が階段のようなつくりになっている。細かい模様の絹ときらびやかなクッションで装飾され、お香がたいてあるために居心地が良い。ハラールの女性は美しいという評判だが、エイケンの母親もその一人だ。アラブ女性特有の褐色の肌はつやつやしており、六十近くだと聞いたときには驚いた。同じ家で暮らすおばあさんも綺麗な女性だった。髪も肌も、ピカピカしているのだ。この地方では、水がいいらしい。結局ハラールには、予定よりも長く6日間も滞在することとなった。日を重ねるごとにこの街に魅せられていくのが実感できる、不思議な街だった。一度旅行で訪れ、それ以来、イスラム教に改宗までしてそこに居座ってしまったというスペイン人アーティストに出会った。彼は、いずれこの街で暮らすことになるということに最初から勘付いていたという。

色とりどりのビーズの装飾品をつけてマンゴーを道端で売っているのは、オロモ人の女性たちだ。彼女たちは、大きな荷物を頭に載せ、毎朝近くの村から歩いてやってくる。近くといっても、距離は相当なものに違いない。日差しの強い日中でも場所を離れることなく、多くの時間を居眠りやおしゃべり、あるいはマンゴーにたかるハエを追い払うのに費やす。(写真は撮らせてくれるが、あとでお金を請求されるので要注意!!)街にいくつかある門の近くには、賑やかな市場が存在する。よく見ると、海外からの援助物資が紛れていたりする。その市場から少し歩くと、もうそこは静かな路地。アラビアンナイトの物語から飛び出したような世界が広がっている。モスクからは祈りの声が聞こえ、現在でも夜になると「ハイエナの餌付け」の習慣が残る。ハラールは、そんな場所だ。

その、「ハイエナの餌付け」を見に行ってみようということになった。なぜこのような習慣が始まったのかについては謎であるが、到着してみると、動物園の檻の中で昔見た、あのハイエナが、餌を与えている男性の顔をなめているではないか。近くで見ると、案外彼らが愛嬌のある動物であることが分かった。ちょっとしたスリルだった。

ハラールからさらに東に行くと、ソマリ人の土地が広がっている。すぐそこはソマリアだ。私がアフリカに興味を持ち出したのも、このソマリアの影響が大きい。内戦状態が続き、政府すらもナイロビに亡命しているという無法地帯であるのに、世界の関心は必ずしも高いとはいえない。現在の私の興味分野の一つであるFGM(女性性器切除)の風習について知ったのも、この国出身であるスーパーモデル、ワイス・ディリーが書いた『砂漠の女ディリー』がきっかけであった。ソマリア入国などとんでもない話であるが、せめて近くまで来たのだから、ソマリ人の文化に触れてみたい。そう思って、ジジガという街に行ってみることにした。サルワもエイケンも家族の許可を得ることができなかったため、今回は私一人だ。

ジジガは、ハラールからバスで約4時間だ。赤茶けた渓谷の間を、ラクダの群れの近くを、遊牧民の家のそばを、ぎゅうぎゅう詰めのバスは走っていった。ハラールよりも先はコンクリートで舗装された道路がないため、今回の旅はまさに小さな冒険だ。さらに、4時間というわずかな旅程であるにも関わらず、五つの検問所を通過した。身分証明書がない者は通過することができない。私が訪れた数日前に、バスの屋根に積まれた荷物が爆発する事件があったようで、武装した兵士たちがバスの隅々までをくまなく取り調べていた。ジジガからハラールに戻る道での検問はさらに厳しいものだった。あるソマリ人母娘はバスから降ろされた。母親は、何とかして二人そろってバスに残ろうとしたが、それでも兵隊に無理矢理降ろされた。周りの乗客は、娘だけでもバスに残そうとした。しかし、まだ幼い娘は泣き叫び、結局母娘は検問所でバスを去った。検問所の近くに座り込んでいた、やはり同じように何らかの事情でその場に残らなければいけなかった人々の中に消えていった彼女たち。私の後ろに座っていたジジガ在住の男性は、エチオピア国内で暮らすソマリ人難民について多くを教えてくれた。ただでさえ失業率の高いエチオピアである。難民たちにとって就業は困難であり、また、エチオピア人にとってもソマリ人の存在は必ずしも歓迎すべきものではないという。それでも「あの母娘は何もしてないのにな。まったく、変な世の中になっちまったよ。」時折すれ違ったUNDPの車や軍用車は、ニュースの中にしか存在しないと思っていた世界がほんの目と鼻の先にあることを実感させた。

ジジガは平凡な街だったが、同時に、短いエチオピア滞在で最も心を打たれた街でもあった。ここの特徴を強いて挙げるとしたら、言語だろう。ここではアマハリ語ではなくソマリ語表記が通常だ。市場は安価なソマリア商品で溢れている。水も、エチオピア産かソマリア産かで値段が異なる。人々はさらに親切だ。道端で昼食をとっていたおばさんたちに招かれて、そこに2時間も居座ってしまった。言葉は通じなかったが、楽しいひと時だった。また、一緒にサッカーをして遊んだ子どもたちの家にも招待された。ブンナ(コーヒー)で手厚くもてなされ、帰るころには彼らは皆泣いてしまった。

出逢った人のうち何人が難民であったかを知る由はなかったが、一日も早い紛争の解決を願わずにはいられない。

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