2007年11月22日木曜日

報告書

交換留学生の視点から捉えた、マケレレ大学の問題点
社会科学部 品川夏乃

*はじめに*

私がマケレレ大学(以下、MUK)で学び始めてから2ヶ月以上が過ぎた。ここでの生活が今までの人生の中で最も貴重な経験となっている一方で、私が数多くの困難に 直面しているのも事実だ。これらの困難は、文化的あるいは社会的な違いによるものではなく、無秩序で混乱を招くようなMUKの制度によるものだ。MUKの多くの学生たちともこの事については議論を交わしたが、残念ながら彼らの多くはあまりにこの異常な状況に慣れきってしまっている。誰もが変化を求めているにもかかわらず、事態が巨大かつ複雑すぎるために誰もが無力感にさいなまれ、行動が何もなされていない。
交換留学生として、自分がMUKやウガンダにできる貢献が一体何なのかを、私は常に考えてきた。そして、次のような結論に達した。部外者である私には直接的にできることは何もないが、人々が変化を諦めないように励まし、エンパワーし続けることなら十分可能である、と。その第一歩として、この報告書の作成を思い立った。私のアクションが、他の留学生による同様の報告書作成につながり、そして大学の首脳陣の会議という場で討議されることにつながったのは、大きなサクセスであると考えている。
この国の問題を解決することができるのは、他でもないウガンダ人だ。MUKが未来のリーダーを輩出するために存在している、真の意味での“教育機関”となるために、この報告書がMUKの全ての職員および政府関係者にきちんと読まれ、重要視されることを願っている。

1) 教授および授業について

私の知る限りでは、この大学では「授業」とは書き取りのことを意味し、「勉強」とは試験のためにノートを読み、暗記することを意味するようだ。授業中の配布資料やパワーポイントの使用(もちろん、この点に関しては物質的な問題でもあるために一定の理解は示すが)は皆無である。
しかし、限られた貴重な授業時間を、ただ座って教授の言う一つ一つの言葉をそっくり書き写すために費やすのは非常に非効率的である。自由な発想をするなど皆無、あるいはほとんどないため、この様な事態は危険であるとも言える。更には、そのようにしてまでノートに書かれる内容など、実に微々たるものなのである。 このノートの内容さえ資料として配布されたら、学生は授業中に思考力を働かせながら集中して聴講することができるのに。また、このような授業では、その場で質問も浮かびやすくなるため、たとえ大人数の授業でも活発な討論がなされるはずだ。それだけではなく、資料さえ配布されれば、担当教授も補足説明に多くの時間を充てられる。
私たちには、教科書というものがない。推薦される本はあるが、2、3冊しか図書館にない本を、どのようにして100人以上の学生全員で共有することができるだろう?
一般的に、教授のヤル気はとても低い。私の担当教授の多くは授業に常に遅刻し、予告なしに突然休講し、また授業中にかかってきた電話に出て話をしている。そのため、彼らが本当に未来のリーダーを教育し、育成したいと願っているのかは、正直なところ非常に疑わしい。彼らは、高い報酬とMUK教授としての社会的地位のみが欲しいとしか考えられないが、仮にそうだとすれば、それは教育者として最悪の職務態度である。これらが原因で、彼らは学生からの信用を失いかけているが、当の本人たちはそのことに全く気付いていない。また、教授自身も、もっと勉強する必要がある。彼らの知識量は、大学教授のそれには到底及ばない。
教授の授業態度も、更なる改善が不可欠だ。彼らが学生に質問を投げかけるなど滅多にないことではあるが、そんな時に学生が教授の期待する通りに回答できなかった場合、彼らはすぐさま、真っ向から否定する。答えがある程度は限られている理数系の授業であるなら、まだ理解はできる。しかし、決まった答えなど絶対に存在しないような社会人文学系の授業でこの光景を見たときには、さすがに衝撃を隠せなかった。
この国での生活を通し、大多数の人々が自分で物事を考え、独自の視点を創造することを非常に苦手としていることに私は気付いた。代わりに、彼らはいつも他者、特に権力者に頼り、従うのである。教育方法が大きな原因であることは間違いない。学生たちは批判的に考えられないため、個々人には創造性がないのである。
MUKの学生が、教育の国際水準を知らないまま、この大学の学生であることを非常に誇りにしているのは何とも皮肉な話だ。彼らは、試験を突破する方法は知っていても、既存の権威に挑戦したり、何か新しいことを作り出したりすることは知らない。
私は、教わっている全ての教授に、彼らの授業方法についての意見を述べた。実際のところ、全員が私の意見に肯定的であった。しかし、以下の理由から、授業方法を変えることは不可能であると言われた。
・ <書き取り+暗記>以外の方法を彼ら自身が知らないため、どうすればよいのかが分からない
・ 人と時間が足りない
・ 授業の規模が大きすぎる
・ 設備が乏しすぎる
・ 大学の“教育方法”に従う必要がある

2) キャンパス内のインターネット環境

留学生として勉強するにあたって、インターネットへのアクセスはなくてはならない存在である。私の場合、キャンパス内に日本語入力が可能なコンピュータが一つもないため、自分自身のパソコンをつなぐ必要がある。しかし問題は、インターネットが必要な時はいつでも、パソコンを抱えて30分以上もアクセス可能な場所を探し回らなくてはいけないことだ。完全に、時間の無駄である。寮にネット環境が完備されていないのは仕方がないと思うが、キャンパス内のソケットの中には、前日までアクセスが可能であったのに突然使えなくなっていたり、使用中にアクセスが途絶えてしまったりするものがあまりに多いため、混乱してしまう。
実は、インターネットをするために私が普段することとは、IT学科の校舎に夜遅くに行くことだ。オンライン上で終わらせるべき仕事が多いときには、そこで夜を明かすこともある。夜中のパソコン室では、多くのネットケーブルが、音楽や映画を楽しむためにインターネットを使用している学生たちに使用されてしまっているために、使用可能なソケットを探すのは至難の業だ。このように苦労して見つけ出したアクセスで集中して作業を行っていても、真夜中に始まる授業(施設が足りないクセに学生数だけは多いから、マケレレはよく真夜中に授業をするの!!信じられない!!)のせいで、部屋を立ち去らなければいけないこともしばしばだ。そんな時は、一からまたやり直しになってしまう。
情報通信手段の欠如は、つかめたはずの機会を失うことを意味する。大学の財政難は大きな負担で、教授の報酬はインターネット通信料よりも重要かもしれない。しかし、インターネットがつなげないために私たちが何もしないでいる間にも、世界中の人々はMUKを引き離しながら、常に前進して動いているのだ。非生産的な時間を過ごすことはできない。

3) 非効率的な組織構成、そして必要のない数々の手続き

MUKの組織構成は、カオス以外の何ものでもない。私の経験は、それを物語るのに十分なほどである。
例えば、科目登録のために必要な情報(時間割、シラバス、単位制度のしくみなど)を全て集めるためだけに、私は3週間以上まるまる費やさなければならなかった。 そもそも、全ての悪夢の始まりは今年2月に行った留学手続きであった。科目情報や登録上のルールといった情報が皆無であったのに、申請書を埋めるためには前期の希望科目を記入しなければならなかった。よって、大学のウェブサイトを見て、興味のある分野に近そうなタイトルの科目を4つ選択した。本来なら、全ての学生は最低でも5つの科目を履修しなければならないのに、なぜ4つなのか?申請書には、その分の欄しかなかったからである。
さて、MUKに到着してから、私が選んだ4つのうち3科目が行われなくなったという事実を見つけ出した。(無論、これっぽっちの情報を得るためだけでも丸1日を費やしたが。)つまり全てを変更しなければいけなくなってしまったのである。しかし、 私の入学許可書に明記されている嘘の履修科目のせいで、その後の手続きは難航を極めた。数え切れないほどの事務局員に現在の私の状況を理解してもらうために、何度も何度も同じ説明を繰り返さなければならなかったからである。
ここでは、組織、制度そしてルールは、全く機能していない。担当者であるはずの人でさえ、正確な情報を知らない場合も珍しくない。そして、職員がただ単に対応したくないがために、たらい回しの繰り返しである。誰も責任など持っていない。誰も完全には物事を理解していない。自分の上司に従うのみである。もしも上司がAと言えば、ルールが何を言っていようとAが合法となる。国際基準では、こんな事態は受け入れられない。そして私には、これがウガンダの文化や伝統の一部であるとは到底考えられない。更には、このような混乱は組織内で力のある人によっていとも簡単に乱用されてしまうため、余計に複雑化する。
加えて、広く理解され、施行されているルールなど存在しないにも関わらず、全員がそれに過剰に固執している。言い換えれば、ここには臨機応変な対応というものがないのである。例えば、とある質問状の形式にわずかな間違いがあったというだけで、私はそれを受け付けてすらもらえなかった。そして、それを書いた、別の事務局員の元へと戻らなければならなかったのである。誰もが責任を免れようとしているために生じる現象であることは明らかだ。全てのケースはそれぞれに異なる背景を持つために、当然既存のルールに従うのも大切であるが、それと同時に、毎回こうした異なる事情を考慮することも必要不可欠ではないだろうか。
また、必要のない、無駄な過程を含んだ手続きや物事の進め方という大きな問題もある。この大学及びこの国では、小さな手続き一つにも、膨大な数の人に、許可と公式な書類と署名をもらわなければならない。この類の予防可能な混乱は巨大で、個人から生産性とヤル気を奪っている。事実、このような手続きのせいで、私は一体授業を何回休まなければならなかっただろう?そのせいでもしも単位を落としたら、大学側は責任をどのように取るつもりなのだろう?(もっとも、ここでは責任という言葉の意味があやふやなのだから、責任を取ってもらおうなどと始めから期待などしていないが。)
許可をもらわなければならない膨大な数の事務局員は、困ったことにほとんどオフィスにいない。いったんその人に会えなければ、その日は諦めるより他にないのである。次の朝一番繰り越されるのだ。このようにして、何も起きないままに時間だけが過ぎていく。オフィスにいる秘書たちは彼らの代わりとして働くべきはずなのに、何の権限も情報も与えられていないために取り合うだけ無駄なのである。彼女たちの上司がどこに行っていて、何時に戻ってくるのかということすら知らない者もいるのだ。よって、私たちは、会わなければならない事務局員に“偶然にめぐり逢える”まで、何度もオフィスに足を運ばなければならないのである。
この問題の解決法として、大学には是非、次のような方法を全ての職員及び教員に義務付けていただきたい。それは、オフィスを出る前に、行き先と不在時間、オフィスに戻る時刻を書いたメモをドアに貼り付けるというものである。また、事前にアポイントを取るということと、一度約束したらそれを守るということを習慣付けさせるためにベストを尽くしていただきたい。というのは、ここではアポイントを取り、それを尊重し、守るという当たり前のことができる人がほとんどいないからである。これも、全てが非効率で不明確であることの原因の一つである。

4) 不明確かつあやふやな情報の交錯

信じられないことに、公式な掲示なしに突然物事は変わる。また、たとえ“掲示”があったとしても、誰にも気付かれないような掲示であるために効力がない。しばしば私は、予告なしの教室変更でどこかに消えてしまった授業を探すために、広いキャンパスを駆けずり回らなければいけない事態に陥る。また、教授が突然、授業の日時を変更するために、クラスメイトから「なぜ前回来なかったの?」と聞かれることもしょっちゅうである。これらは、教授が授業に関する情報発信を怠っているからという理由のみによる訳ではない。以前、政党の集会のために、とある教室が使えなくなっていたことがあったが、この時私たちの教授は何も知らされていなかった。つまり、彼ら自身も、大学側から必要な情報をきちんと事前に受け取っていないのである。完全に、大学に責任が問われるべき事柄である。
情報錯そうの、もう一つ例を挙げよう。今学期が始まって以来、私は、毎週ダンスの実技の授業に出席していた。しかし、第9週になって初めて、単位を取得するためには理論の授業にも出席しなければならないことを発見した。学期の初めに、授業のコーディネーターを始め、複数の人に確認した際には、そのような説明は誰からも受けなかった。期末試験までの4週間の間に、他の人が13週間かけて学んだことをやらなければいけないのである。
たった2ヶ月しか滞在していない留学生に内部の情報交換の穴を指摘されているなんて、非常に恥ずかしいことである。

5) 学生支援

学生支援も、大学の重要な仕事の一つだ。学生の問題や学生が起こした問題は、一部は大学の責任でもある。よって、学生を支援することで、問題解決に向けた努力をしなければいけない。
援助交際や暴力的なストライキ、政党がらみの汚職など、MUKの学生によって生じている社会問題は溢れている。大学側が解決に向けた実質的な努力をほとんど行っていない光景は、驚きである。

6) キャンパス内の設備

キャンパスは学びの場であるが、同時に多くの人の生活の場となっている。素晴らしい施設が完備された建物のすぐ裏では、電気すら通っていない安労働者の集合住宅が密集している。雇用者として、MUKは彼らのような労働者の住居環境にも責任があるはずである。どうか、キャンパス内全員の生活の質の向上に取り組んでいただきたい。

7) 腐敗疑惑と会計報告へのアクセス

MUKは、財政危機に直面している。メディアのおかげで、このことはウガンダ国内のみならず、世界中に知れ渡っている。大学の規模はキャパシティーを明らかに超えており、政府からの補助金は不十分だ。これらの事情が危機の主な原因として考えられているが、私は大学内の財政面での腐敗の存在を疑っている。同時に、全てを非効率的かつ複雑にしている事務局員の存在は、数え切れないほどの肩書きの数だけ大学の予算にとって大きな負担となっている。
このような事情があるにも関わらず、相当数の学生がMUKの会計報告へのアクセスの難しさを証言している。例のごとく、オフィスのたらい回しや不適切な対応が要因である。彼らは大学側にとっては財源である。少なくとも彼らには、会計報告へのアクセス権があるはずだ。

8) 学生政府とその役割

各学部、各寮から選出されているという学生役員。彼らのポスターはいたるところに貼られているため、顔と名前を目にする機械は多い。彼らが実際には何をしている人たちなのかはよく分からないのに、おかしな話である。定期的にミーティングを開いているようではあるが、私たちのキャンパスライフと教育の質を向上させるために、果たして本当に一生懸命働いているのだろうか?問題解決の手段として、平和的な解決策を考えずに暴力的なストライキを指導すること以外には、何か特別な活動でも行っているのだろうか?一部の学生役員が、資金を私用に横領したため、また寮の事務所の放火事件を指揮したためにクビになったという掲示を見たが、非常に残念だ。事実、尊敬や敬服に値することは何もしていないために、彼らはリーダーと呼ぶのに相応しくない。
そればかりか、彼らは選挙期間中に買収行為をしたからこそ当選したというではないか。これは誰も公には語らないが、暗黙の事実である。私は、MUKの学生や実社会で働く人々など、多くの人にMUK学生会についての質問をしたが、誰もがそのように証言した。舞台裏では本物の政党から資金提供を受け、また権力のサポートも受けているようである。政治闘争のオモチャにされているだけだ。彼らのような若いリーダーたちは、この国の希望であり誇りであるべきだ。しかし現実には、彼らほど希望や誇りといった言葉からかけ離れている者はいない。キャンパス内においてすら、民主主義が機能していないのは非常に残念で仕方がない。
学生役員たちが態度を変えられないのであれば、私たちはこれ以上、彼らの存在を必要としない。どちらにせよ何もプラスになるようなことはしていない人たちなのだから、私たちの生活は、さほど劇的には変わらないであろう。

*MUKの総合的な感想と、私からの提案 *

私は、ここでの生活を楽しんでいる。日本とは何もかもが違うため、多くの問題や困難からですら、毎日重要なことを学んでいる。MUKで興味深いと感じたことがあるために、以下に記しておきたい。

a. 学生たちの多くは、実年齢よりも精神的に幼い。彼らからは、周囲に依存しすぎている印象を受け、また実りある会話をするのが非常に難しい。

b. 多くの授業で採用されている物事に対する視点(ディスクール)は、植民地主義および西洋化の影響を強く受けているように感じられる。特に私は、開発関係の授業を多く取っているために感じるのだが、ウガンダやアフリカをそこまで否定的に捉える必要はないのではないかと感じる。

誰もが直面し、もがいている困難を取り除くためには、構造改革が最優先の課題だ。政府や援助機関、学生などによって構成される委員会の設置が、この「見えざる敵」との戦いには必要であると考える。大学の規模がキャパシティーを超えているのなら、規模縮小も考慮するべきだ。教育機関の第一の目的は利益ではなく人材育成にあるため、量よりも質に重きを置くべきだ。
また、MUKは国外の教育研究機関ともっと交流をし、これ以上教育の質が低下するのを防ぐべきである。財線的に現時点でそれが難しいのなら、他のアフリカ諸国出身者を含むウガンダ在住の外国人、高い教育を受けて社会的にも尊敬を集めているウガンダ人及びMUKの卒業生による調査部門を設立し、定期的にMUKの教育の質をチェックすることも可能だ。
正直なところ、私はMUKに落胆している。時々、ここに来たことを後悔することすらある。これ以上、私に降りかかったような問題を大学側が起こさないように、私は強く求めたい。無駄と化した時間と労力はあまりに多く、かけがえのないものだったからだ。もっと有効な使い道は色々あったはずだ。私に与えられた期間はたったの1年間。無駄にできる時間など1秒もないのである。大学内の混乱と無秩序による最後の被害者が私であるように、また、MUKが財政的な腐敗を経験する年が、今年が最後でるように、私は心から願っている。

2007年11月1日木曜日

パン・アフリカニズムが世界を支配する???

これを信じて疑わない二人の学生と食事をした。
3時間ぶっ通しで話をしたので、何を食べたか忘れてしまうほどだった。
彼らの見解を要約すると、このようになる。


今の国際社会は経済から教育に至るまでが西洋に支配されており、またイスラム世界に注目が集まっている。
しかし、それはいずれ終わりを迎えるだろう。
資本主義も崩れるに決まっている。
そう、一つのアフリカ(アフリカ・アズ・ワン)が、ゆくゆくは世界を支配するのだ。
パン・アフリカニズムの時代がやって来るのだ。
パン・アフリカニズムこそが人類最大の幸福であり、混乱した世界を光へと導くのだ!!

若さの故か、私が「そんなのありえないよ」と様々な事実を根拠にして反論をしても、一向に聞こうとしない。
どんなに説明をしても、次のような答えが返ってくるのである。
「冷戦の頃に共産世界の崩壊を誰が予想した?現状から未来を予測するのが必ずしも常に正しいわけではないことを、人類は冷戦の終結をもって肌で感じてきたはずだ。パン・アフリカニズムの可能性を誰も否定はできない。だからこそ、いずれは俺たちの時代がやって来る。」

出たよ、井の中の蛙のウガンダ人。

そういえば、ウガンダ西南部、ルワンダとコンゴの国境近くにあるブニョンニ湖に出かけたとき、地元のガイドが「このように多くの島が点在している湖は、世界中どこを探してもここだけだ。それなのに、なぜ外国人観光客には知られていないのだろう。」と嘆いていた。

信じられない話だが、彼はマケレレ大学で観光業を専攻したエリートで、地元の大学でも教鞭ととっている。
私は、時折とんでもない<世間知らず>ならぬ<世界知らず>のウガンダ人に出会う。

話を戻そう。
この討論以前の私のウガンダ滞在期間はわずか6週間であったが、その短期間の間でも見聞したものを元に、以下の内容を彼らに言った。

第一に、腐敗が横行していて指導者たちは自分の利権しか考えていないようなこの大陸が、一つの理想に向かってまとまれるわけがない。
庶民も、「公共」だとか「みんなのために」という意識が低すぎる。

第二に、世界の他の地域と同様、アフリカの貧富の差は広がる傾向にある。
表向きは血にまみれた紛争から見事に復興し、経済成長も順調に進んでおり、エイズ率も大幅に減少し、多くのドナー国から「アフリカの優等生」として見られているウガンダでさえそう。
加えて、人々の心の奥では金持ちVS貧乏人の対立構造が生まれつつあるような印象を私自身受けている。
同じ一つのカテゴリーに属す人々の間でも、経済格差は生活レベルや選択肢の幅を明確に細分化しており、さらにそれがメディアによって誰の目にも明らかになっている。
こんな時代に、単にアフリカ人であるから、黒人であるからという理由のみでは人々の心は動かない。過去に植民地支配という同じ苦しみを乗り越えた事実が起爆剤となって生まれた強い兄弟意識は廃れてきており、代わりに「貧困」という新たな敵との戦いを共有しているもの同士の結びつきが今後ますます深まるのではないだろうか。
極端に言うと、アフリカは二つに分かれてしまうのではないかという懸念の存在である。

第三に、根本的な話ではあるが、これほどまでにアイデンティティへの意識が高まりを見せている現代において、ある特定の人々のみに通用する概念や制度が新たに世界的に採用されるとういうのは夢のまた夢だ。
二人の学生は人口爆発を理由にその可能性を熱弁していたが、青年たちよ、人口爆発はアジアもイスラム世界も同じなのだよ。
とりわけ南アジアの台頭を過小評価しているのが皮肉であった(東アフリカでは、インド人によるビジネスが活発であり、彼らは必ずしも地元の人から良い目では見られていない)。

書き取って記憶する。
マケレレ式教育の寵児ともいえる彼ら。
この大学に入って、エリートコースまっしぐらの順風満帆の人生を歩んでいると誇らしげだった。
たくさん勉強しているだけあって、持っている「情報」は多いのに、それが知識となっていないのが残念だ。
メディアや既存の権威を疑う姿勢と何冊かの本を薦めて、その日はとりあえずお開きとなった。

しかし、彼らの未来予想図にはあれほど反論した私であるが、パン・アフリカニズムが本当に形成されたとしたら、(彼らが言うほどの程度には浸透しなくとも)世界にどのような影響をもたらすのか、ウガンダに着てからよく考えるようになった。

正直なところ、働かない、考えない、他力本願、権力に弱い、非効率的など、一般的にこの社会を見渡せばネガティブな形容はいくらでもできる。
しかしその一方で、彼らには「実は、ものすごい能力を秘めているのではないだろうか・・・」と思わせる何かが確かに存在する。
そしてそれらは、私たちの思考回路を占領している西洋的価値観では決して見ることができない。
まずはそれを一度壊す試みが必要だろう。

2007年10月28日日曜日

悪循環

第一ラウンド

シラバスというものなどこの国には存在しないため、講義名から内容を想像しなければならない。
最終的な時間割も、授業開始後数週間してから、教授の気まぐれで変更になる場合がほとんどだ。
突然予告もなしに、開講予定であった講義がなくなってしまうことだってざらではない。
極めつけには、どこの事務所に質問しに行っても、99パーセントは無駄に終わる。
何一つ助けてはくれないインターナショナル・オフィスに到着早々愛想をつかせた私は、ウガンダ到着後4日後には必要な手続きはすべて自分の力で行う決意をした。

しかし、ここからが大変であった。長い長い道のりの始まりである。

第一の難関は、科目登録だ。
早稲田大学であれば、登録期間前に全ての調整がなされ、情報も一ヶ所に集まり、ウェブ上で世界中どこからでもあっという間に終えることが可能なこのプロセスだが、ここマケレレ大学では、登録に必要な情報を集めるだけでも3週間以上かかった。
ここは日本とはなにもかもが異なるウガンダだ。
同じ尺度で物事を見てはいけない。
同じ時計で時間を計ってはいけない。

こう自分に言い聞かせたものの、組織という名の底なし沼にずんずん沈んでいくような気持ちがして悲しくなってしまった。
無駄な時間と無駄なエネルギー。
これらを使って、一体どれだけの他のことができただろうか。
しかし、この科目登録は、現地での組織の構成について学ぶいい機会となった。

まず、組織内では正しい情報などほとんどない。
というのは、いわゆる担当者ですら、自分の管轄内の規則や内容に対する知識に欠けているのだ。
誰に聞いてもまともな答えが返ってこない。
たらい回しはしょっちゅう起きるため、お陰でいい運動になった。
まだ日本社会の記憶が深く残っていた当初は、責任感の不在とも思える彼らの対応に毎日腹を立たせていた。

しかし、これからマケレレで勉強をしたいと願っている人のために一つアドバイスをするが、ここで「コイツだと埒が明かない」と判断し、すぐに他の人に情報を求めに走ってしまってはならない。
なぜなら、全員が根拠のない、いい加減なことを言ってその場を取り繕うからだ。
余計な混乱を招くのみである。

最良の方法は、誰でもいいから「一番エライ人」に直接取り合うことだ。
彼らの指示には――例えそれが間違っているものであっても――面白いほど誰もが従う。
また、後に何かトラブルになったとしても比較的簡単に解決されるのだ。

要は、権力に弱いのである。

たかが大学の科目登録であるから笑い話で済まされるものの、これは実は恐ろしいことだ。
アフリカの国々に一般的な、独裁者率いる汚職にまみれた脆い政府の縮図を見たような気がした。

第二ラウンド

2週目の途中から、ようやく講義に出席する時間的余裕ができた。
誰が初めに言い出したのかは分からないが、「東アフリカの東大」と、ある旅行ガイドにも紹介されているこのマケレレ大学の講義は、お世辞にも質が高いとは言いがたい。

まず、教授が現れない。

初めの2週間は、ほとんどの教授が来なかった。
加えて、教授の「出席率」は天気に拠るところが大きい。
当然、雨が降れば出席率は低くなる。
カメハメハ大王の国がうらやましくて仕方のなかった頃もあったが、いざ実際にそのような国に来てしまった今となっては迷惑極まりない話である。

また、彼らが定刻までに来ることは皆無に等しい。
だいたい20分は遅れてくる。
とある教授は、2時間連続講義の場合、30分遅れてやって来ては40分早く切り上げてサッサと帰ってしまう。
別の教授は、講義中も携帯電話を片時も離さない。
「腕時計が壊れているため、ケータイの時計に頼らなくてはいけない」と言ってはいるが、時計代わりという建前で使っているのなら講義中に電話に出るのは控えるべきであろう。学生の電話が鳴ったら怒り出すのに、四六時中メールを打っているようでは示しがつかない。

授業時間は1時間。それぞれの科目は週3時間だ。

私は、農村開発やコミュニティー論などのほか、スワヒリ語や伝統舞踊の授業を取っている。
言語と実技以外の講義には、およそ130人の学生が出席する。
当然マイクもなければパワーポイントもなく、教科書すら存在しない。
教室はやや薄暗く、最低でも前から3列目には陣取らないと授業が聞こえない。
学生の人数の割には部屋が狭く、まとも(・・・)なイスも限られているため、運が悪ければ立ち見も覚悟しなければならない。

講義が始まる。教授がたまに投げかける簡単な質問には、全体が一斉に同じ答えを同じタイミングで返す。「笑っていいとも!!」のスタジオのような感じだ。

時折飛び出すジョークには、「フフフ」という控えめな笑い声で、これまた一斉に反応する。ウガンダ人のツボを理解しない私には、理解を超えた世界である。

更に、ここでは教授がノートをとるべきタイミングを学生に知らせる。
学生たちは教授の口から出る言葉をそっくりそのまま書き写すのだ。

合図と同時に、それまではいい加減な態度で授業に臨んでいた者も慌ててノートを開く。
一文一句逃さずに、正確に。
黒板の質も悪いため、板書を書き写すこともできなければ、参考資料を配布することもない。
よって、これが授業の唯一の情報となる。

教授は、同じ文章をゆっくりと数回繰り返す。
よって、1時間の授業時間のほとんどが、この書き取りの作業に費やされる。
たかだか2、3ページ分のノートの書き取りである。
せめてこれだけでも資料として配布してくれたら、限られた時間を有効に使えるのに。
やがて、書き取りが終わって束の間の説明に入ると同時に、メモを取る学生はほとんどいなくなる。
ロボットでも受けられそうな講義だ。

ここマケレレで修士課程を行っているカナダ人学生にすら、教授の話す、強いアフリカ訛りの英語は外国語に聞こえるという。
よってこの書き取り作業は、それに慣れていないムズング(mzungu=白人:どういうわけか、この社会では、日本人の私もムズングの一人のようである)学生にとっては困難極まりない。
教授のする説明は大まかに理解できるのだ。しかし、誤字脱字なしにノートを取らなければならないとなると、話は別だ。

“many of them”を“mainly attended”と間違えてしまうような英語である。

時には、現地の学生にも理解しがたい英語を話す教授もいる。

日を追うごとに慣れてきているとはいえ、結局、他の人のノートを後で借りて写す結果になる。
だが、今度はノートの持主の筆跡をたどるのが至難の業となってくる。
このように、「書き取り」「書き写し」という、生産性のまったくない作業に多くのエネルギーと時間を使うハメになる。

驚いたことに、数少ない質問の際には、教授の思うとおりに答えられないとクラス全体の前できっぱりと否定されてしまう。
あたかも、教授が正誤を判断する絶対的存在であるかのようである。
正解がある程度限られている、理系の授業での1コマならまだ理解はできる。しかし、正解など存在しない、社会学や人文科学系での授業中ですらこれである。
中には、「間違えた」学生を皮肉たっぷりに笑いのネタにする者も存在するではないか。
これはとある留学生仲間に聞いた話だが、ジェンダーの授業で同性愛についての質問が彼女に投げかけられた。

アフリカ伝統社会では悪と見なされており、タブーであり続けてきた同性愛。現代ウガンダでも、その存在自体を法律で禁止してしまおうとする動きが強いほどである。

人権大国のノルウェー出身で、自身も同性愛者の彼女が擁護論を唱えると、その「間違い」に、まずは教授がバッシングを開始した。そして、教室全体がそれに便乗した。
人々がこの問題にどのような反応を示すかはある程度予測できる事であるが、それを率先して否定しているのが、他でもないジェンダーの教授であった事実は驚きだ。
アフリカにはアフリカの価値観に基づいたジェンダーの理論があるのだろう。

しかし一方で、社会の問題に唯一の正解などある訳がない。
教授によるこのような態度は、ウガンダのような一方通行の教育の下では洗脳の危険性すらはらんでいる。
学生たちは、滅多にない発言の機会を有効活用できなくなってしまう。

こちらでは、自主学習のことをstudyingではなくreadingと呼ぶ。「ノートさえ暗記していればとりあえず心配はいらないよ」と、多くの友人からアドバイスを受けたが、なるほど、寮でも図書館でも、ほとんどの学生はノートを食い入るように見ているだけである。しかし、このような勉強法に疑問を抱いてしまうのは私だけではあるまい。

大学に入ってから1年半になるが、真の意味での学びとは、批判的精神を養い、より良く生きる姿勢を身につけることに重きを置かれるべきであることを日々実感してきた。
情報を批判的に分析しない限り、単なる暗記では、せっかく得た情報も「知識」にはなり得ない。

日本も含め、暗記中心の教育の下では模倣に長けた人材は輩出されるだろう。
しかし、自分自身の力で物事を判断し、新たな創造を社会に生み出す人材は育たない。
結果的に、誰もが必要以上に他者に依存しなければ生きていけない社会になっていく。
そこでは、責任感や任務感の欠如と、それに伴う非効率性がまかり通る。汚職や腐敗が連発するのも当然である。

悪循環だが、これがウガンダの現状だ。教育が「考える力」を奪い取り、学問の世界のみならず実社会でも、人々は他者に従うのみ。
これを文化や伝統の一部と主張する人もいるが、私はそうは思わない。
仮にこれがそうだとしても、文化や伝統を、一部の権力者が乱用しているだけである。

つづく…

2007年10月26日金曜日

ケニア航空にはご注意を

「どの情報も、公式な情報すらも信じるな」「ケニア航空はもう使うな」そして「安いものは常に疑え」エチオピアで学んだ数多くのことのうち、この三つほどトラブルを経て学び取ったものはない。なぜって?そんなの、これを読んだら誰でも分かることである。

入院騒動のせいで、持っていた300ユーロと200ドルすべてをエチオピアの通貨であるバルに両替した私であったが、その多くを結局は使うことなくこの国を去る日が近づいた。サルワのお父さん曰く、バルから外貨への両替は銀行でも空港でも受け付けていないという。仕事で中国にも行ったことのある人だ。これは本当かもしれない。

「現金を私に預けてくれたら、今日にでも闇市に行ってドルに替えてきてあげるよ。」

当然、丁寧かつにこやかにお断りしたが。

ガイドブックの情報によると、パスポートと航空券がないと両替はできないらしいではないか。そこで、必要な書類をすべて持って、アディスの中心部にある銀行へと出かけていった。

「バルからの両替は、一人最大150ドルまでとなっております」

えーーーー!?!?そんなふざけた話があるだろうか。明らかに手元には、その3倍以上の現金がある。しかし、銀行の職員は「法律だ」とだけ言い放ち、慣れた手つきで私のパスポートの最後のページに両替証明のスタンプを押した。

「このスタンプが押してある以上、どこに行ってもこれ以上の両替は無理ですよ。たとえ空港でもね。もう一つ言っておきますが、ナイロビの空港でもウガンダでも、バルを取り扱っている両替所はありませんよ。」

その翌日は、アディスからウガンダのエンテベまで、ナイロビ経由で飛ぶ日であった。ケニア航空が一番安かったため、直行便は諦めたのだ。8月16日。留学先であるマケレレ大学のオリエンテーション最終日に、ギリギリで間に合うはずだった。サルワの家族との最後の夜。私たちは、ブンナ(コーヒー)を片手におしゃべりに花を咲かせていた。この家族と離れるのは寂しかったが、明日から始まる新しい生活に心は躍っていた。お父さんとの一件があったものの、家族との別れは、それはそれは感動的なものだった。

出発の2時間前には空港に到着した。ここまでは、何の変哲もないフライトである。チェックインを済ませ、サルワとの別れを最後まで惜しんだ後、40分前にはゲートに向かった。「またすぐに会えるだろうから、さよならは言わないよ!!」サルワのこの言葉が、まさか現実のものになるなんて・・・。途中、スクリーンでなんどもフライトの最新情報を確認した。すべては順調だった。空港の銀行で、ダメ元で残りの現金の両替を試みた。あっさり受け入れられた。話が違うでないか。この国はどうなっていることやら。

ところが・・・である。

20分前にゲートに着くと、警備員以外誰もいないではないか。それどころか飛行機もなく、ガランとした空っぽの空気は、まさにこれから起こる嵐の予兆であった。その警備員たちですら、ニタニタ笑いながらこちらを見ている。その顔がシャクに障って仕方ない。

「ナイロビ行きのお客様ですか?」アフリカ訛りの強い英語だ。
「・・・・はい。」
「残念ですね、乗り遅れてしまいましたよ。」
(・・・・ん?まだあと20分あるけど・・・)
「ホラ、あそこに見えるでしょう、うちの会社の飛行機が。あれがナイロビ行きなんですよ。」

彼の人差し指の方向を見ると、マジでケニアの赤い機体が滑走路に向かって動いているではないか。状況がつかめなかったが、どうやら大変なことになってしまったらしいことだけは分かった。それにしても、なぜ出発時刻の前なのに?

次の瞬間、ものすごい勢いで私は文句を言っていた。すると、警備員の態度は一転した。たどたどしい英語で「オーケーオーケー、ドントウォーリー。」と、分かってるのかなんなのかよく分からないような言葉を口にし出したのだ。曖昧さと無責任さに私はブチ切れ、しまいにはFワードを叫ぶ始末だった(ごめんなさーい、こればっかりは反省してます)。警備員のうちの一人がゲートの電話で機内との接触を試みたが、電話が壊れていたために失敗に終わった。2時50分。定刻などあってないようなものであるこの国で、事前に知らされていた「出発時刻」ちょうどに、はかなくも飛行機は飛び立っていった。自分が乗るはずだった国際便の離陸を、この目で見届ける気持ちをご想像していただきたい。

警備員では埒が明かないため、マネージャーを呼ばせた。「出発時間とは、うちの会社では離陸時間のことを意味するんですよ。それよりも、名前をアナウンスしたのにどこにいたんですか?」空港内の、それも出国審査の目の前のベンチに座っていたのに、私は自分の名前が呼ばれるのを聞いた記憶はない。サルワも後で同じことを言っていた。責任者であるはずなのに、そのヘラヘラした態度はやはり腑に落ちない。幸い、新たな航空券を購入せずに翌日の便に乗ることが可能であると聞いた。最も安価な航空券とはいえ、学生にとってはやはり簡単に手が出る額ではない。もう一度払わなくてもいい――これを聞いた瞬間、あんなに憎んでいたマネージャーにも飛びついて喜んだ。品川夏乃とは、結局は単純な生き物なのである。

翌日17日のナイロビ行きはまだ空いている。問題はその先だ。エンテベまでの便は満席である。しかし、エチオピアのビザの有効期限が17日であったため、どちらにしろこの国を出なければならない。今回はバックパックでの旅行ではない。スーツケースもあればパソコンもある。そのような状況で、一人でアフリカ一治安が悪いとされるナイロビに滞在するなど想定外にもほどがある。しかし、選択の余地はない。とにかくナイロビまでは行かなくては!!

直前キャンセルが出るという可能性もある。そこで、次のような作戦を立てた。ウガンダの空港まで大学の人が迎えに来る都合上、到着日時を知らせる必要がある。まず、翌朝一にケニア航空のオフィスに電話をかけて最新キャンセル情報を確認する。サルワの家からは国際電話は繋がらず、また、空港の公衆電話はすべて壊れている。よって、途中の道でウガンダに国際電話をかけ、詳細を伝える。完璧だ。

しばらく会わないと思っていた人とすぐに再会する。何とも言いがたい歯がゆい感情だ。バルをドルにすべて替えてしまっていた私は、結局サルワのお父さんに連れられて、その日の夕方人生初の闇市を経験することとなった。夜。自分の楽観主義には本当に呆れてしまうが、ガイドブックで観光情報を読みながら、まさかのナイロビ訪問を密かに楽しみにしている私がいた。

翌日。早朝から、私の作戦はつまずく結果となる。まず停電。電話が使えない。まあ良い。キャンセル確認は、空港に向かうときにだってできる。次に交通渋滞。タクシーが全く動かない。さらにあろうことか、やっと電話屋に着いたと思ったら、受話器の向こうのケニア職員に「お客様の予約番号が登録されていないようなので、オフィスまでいらしてください」と言われる。

予約番号に関してはまったく問題がなかった。というよりも、単なる事務局員の手違いであった。しかし、ナイロビ-エンテベ間が、向こう一週間は予約で一杯だという知らせを聞いて唖然とした。(ということは、ケニアに一週間!?でも、大学は来週には始まるんですけど・・・。)どうして私の人生はこのようなヘンテコなハプニングだらけなのだろう。しかし、どんな状況も楽しむことが自分のモットーであるはずだ。開き直って、今度はケニア全体の観光情報を読みふける私であった。もはや大学などどうでもいい。仮に何か問題があるようなら、陸路での国境越えだってできる。それよりも、読んでみるとなるほど、ケニアは素晴らしい国ではないか。マサイ・マラ国立公園、インド洋沿岸のモンバサ、マサイ族やキクユ族――。私の心は既にサファリを楽しんでいた。宿泊先までマークする始末だった。

それでも一応、誰かが飛行機に間に合わないかもしれない。ナイロビの空港で待ってみる価値はある。そう考え、到着後はエンテベ行きの飛行機の出発ゲートで粘ってみることにした。出発1時間前。残念ながら、すべての乗客がチェックインを済ませたようだ。45分前、30分前。徐々に乗客は集まってくる。歴史は繰り返すというが、この日ほどそれを強く望んだことはない。自分の二の舞を誰かが演じるのをひたすら待つというのも、なかなか変な体験だ。アディス・アババでは、出発時刻=離陸時刻であったのに、同じ会社でもナイロビでは違うらしい。あのマネージャーも、結局は本当のことを言っていたのではないと思うと腹が立つ。(もっとも、単純にずさんな体制の下で、彼自身も把握していなかったという可能性もないわけではないが。)出発時刻から20分発ってもゲートに現れなかった乗客が数名いたため、幸運にも私は飛行機に乗ることができた。

だが、機内に座った後も、機体が動く気配すらない。結局、フライトは1時間40分も遅れた。最後までゲートに来なかった乗客を、従業員が「総出で」探していたためであるという。アディスの、ゲートが五つしかないほど小さな空港では私の名前すら放送せず、挙句の果てには出発時刻前に置いて行ったクセに、なぜナイロビの巨大な空港では遅れている客の捜索をし、そのために飛行機を遅らせることが可能だったのか?謎としか言いようがないが、一つだけ言えることは「ケニアはもう使わない」ということだ。そして、安いものには常に注意すること。アフリカでは、特にである。

そんなこんなで、ウガンダに到着するころには心も体も疲れきってしまっていた。トホホ・・・。

ハラ―ル

メディナ、メッカ、エルサレムに次ぐ、イスラム教第四の聖都と呼ばれているハラールという街がある。

壁に囲まれ、細い路地は迷路のように街中を張り巡り、数え切れないほどのモスクがあちこちに点在する。
古くから、アフリカ・インド・中東間の交易の場として発達したハラールは、17世紀になるとイスラム教の学問における重要な街として有名になり、1854年まで異教徒が入ることはなかった。現在でも人々は独自の言葉で会話し、独自の衣服に身を包み、独自の住居で眠る。

サルワの友達がこの街に住んでいるため、行ってみようということになった。ムスリムである彼女にとっても、特別な街であるのだ。

朝の5時。アディスのバスターミナルに到着した。夜明け前だというのにところ狭しとバスは並んでおり、その間を数百人の人々が大きな荷物を持って埋め尽くしている。雨季の地面はぬかるんでおり、さらにバスからは真っ黒い排気ガスがドンドコ排出されている。辺りが明るくなるころにはバスの出入りも人の出入り激しくなり、クラクション音と客呼びの叫び声で、その場のエネルギーは最高潮に達した。

6時には乗車券を買ったのに、それから3時間バスを待った。と、どうやら置いていかれたらしいということが判明した。自称バス関係者というおじさんに連れられて乗り合いタクシーに慌てて乗り、かなり離れたところで待っていたバスに乗り込んだ。中に入って唖然とした。どう考えても客を詰め込みすぎだ。三人用のイスに、四人が乗っている。「これに乗ってあと10時間か・・・。」しかし、インドのことを思えばましなものだった。インドで似たような状況で32時間の移動を経験した私は、おそらくしばらくは、それより酷な移動というものを経験せずに済むだろう(と信じたい)。

どういうわけか、バスでは窓を開けることは禁止されており、蒸し風呂状そのものであった。小さな子ども黙って大人しく座っている。窓から見える景色は、街から村へ、草原から山へと常に変化しているため、眺めていて飽きることがない。東へ行けば行くほど、人々の服がカラフルになっていく。また、この国では、HIV/エイズの予防が盛んに行われているのが十分に見受けられる。首都には啓発のための看板が溢れていたが、例えば無人地帯の草原の中でも、レッドリボンが描かれた看板はしばしば見られる。インドにはなかった光景だ。

昼過ぎになると、周りのオヤジたちが、何やら葉っぱを食べだした。チャットと呼ばれているこの植物には、どうやら興奮作用があるらしい。運転手は、これのおかげで長時間の荒い運転を乗り切れるのだとか。では、チャットなしならどうなってしまうのだろう。ふと、日本にいたころ、仲良くしていただいていたアフリカの専門家の先生から受けた忠告を思い出した。「現地では、病気よりもテロよりも、交通事故の方が遥かに危険だから気をつけてね」

夕方5時。予定よりも早めにハラールに到着した。

ハラール人は、誇り高き人々だ。自分たちの持つ独自性を非常に大切にしている。サルワの友達であるエイケンもそう。ハラール伝統様式の彼の家には、四家族が暮らしており、江戸時代の長屋のような感じである。居間は、全体が階段のようなつくりになっている。細かい模様の絹ときらびやかなクッションで装飾され、お香がたいてあるために居心地が良い。ハラールの女性は美しいという評判だが、エイケンの母親もその一人だ。アラブ女性特有の褐色の肌はつやつやしており、六十近くだと聞いたときには驚いた。同じ家で暮らすおばあさんも綺麗な女性だった。髪も肌も、ピカピカしているのだ。この地方では、水がいいらしい。結局ハラールには、予定よりも長く6日間も滞在することとなった。日を重ねるごとにこの街に魅せられていくのが実感できる、不思議な街だった。一度旅行で訪れ、それ以来、イスラム教に改宗までしてそこに居座ってしまったというスペイン人アーティストに出会った。彼は、いずれこの街で暮らすことになるということに最初から勘付いていたという。

色とりどりのビーズの装飾品をつけてマンゴーを道端で売っているのは、オロモ人の女性たちだ。彼女たちは、大きな荷物を頭に載せ、毎朝近くの村から歩いてやってくる。近くといっても、距離は相当なものに違いない。日差しの強い日中でも場所を離れることなく、多くの時間を居眠りやおしゃべり、あるいはマンゴーにたかるハエを追い払うのに費やす。(写真は撮らせてくれるが、あとでお金を請求されるので要注意!!)街にいくつかある門の近くには、賑やかな市場が存在する。よく見ると、海外からの援助物資が紛れていたりする。その市場から少し歩くと、もうそこは静かな路地。アラビアンナイトの物語から飛び出したような世界が広がっている。モスクからは祈りの声が聞こえ、現在でも夜になると「ハイエナの餌付け」の習慣が残る。ハラールは、そんな場所だ。

その、「ハイエナの餌付け」を見に行ってみようということになった。なぜこのような習慣が始まったのかについては謎であるが、到着してみると、動物園の檻の中で昔見た、あのハイエナが、餌を与えている男性の顔をなめているではないか。近くで見ると、案外彼らが愛嬌のある動物であることが分かった。ちょっとしたスリルだった。

ハラールからさらに東に行くと、ソマリ人の土地が広がっている。すぐそこはソマリアだ。私がアフリカに興味を持ち出したのも、このソマリアの影響が大きい。内戦状態が続き、政府すらもナイロビに亡命しているという無法地帯であるのに、世界の関心は必ずしも高いとはいえない。現在の私の興味分野の一つであるFGM(女性性器切除)の風習について知ったのも、この国出身であるスーパーモデル、ワイス・ディリーが書いた『砂漠の女ディリー』がきっかけであった。ソマリア入国などとんでもない話であるが、せめて近くまで来たのだから、ソマリ人の文化に触れてみたい。そう思って、ジジガという街に行ってみることにした。サルワもエイケンも家族の許可を得ることができなかったため、今回は私一人だ。

ジジガは、ハラールからバスで約4時間だ。赤茶けた渓谷の間を、ラクダの群れの近くを、遊牧民の家のそばを、ぎゅうぎゅう詰めのバスは走っていった。ハラールよりも先はコンクリートで舗装された道路がないため、今回の旅はまさに小さな冒険だ。さらに、4時間というわずかな旅程であるにも関わらず、五つの検問所を通過した。身分証明書がない者は通過することができない。私が訪れた数日前に、バスの屋根に積まれた荷物が爆発する事件があったようで、武装した兵士たちがバスの隅々までをくまなく取り調べていた。ジジガからハラールに戻る道での検問はさらに厳しいものだった。あるソマリ人母娘はバスから降ろされた。母親は、何とかして二人そろってバスに残ろうとしたが、それでも兵隊に無理矢理降ろされた。周りの乗客は、娘だけでもバスに残そうとした。しかし、まだ幼い娘は泣き叫び、結局母娘は検問所でバスを去った。検問所の近くに座り込んでいた、やはり同じように何らかの事情でその場に残らなければいけなかった人々の中に消えていった彼女たち。私の後ろに座っていたジジガ在住の男性は、エチオピア国内で暮らすソマリ人難民について多くを教えてくれた。ただでさえ失業率の高いエチオピアである。難民たちにとって就業は困難であり、また、エチオピア人にとってもソマリ人の存在は必ずしも歓迎すべきものではないという。それでも「あの母娘は何もしてないのにな。まったく、変な世の中になっちまったよ。」時折すれ違ったUNDPの車や軍用車は、ニュースの中にしか存在しないと思っていた世界がほんの目と鼻の先にあることを実感させた。

ジジガは平凡な街だったが、同時に、短いエチオピア滞在で最も心を打たれた街でもあった。ここの特徴を強いて挙げるとしたら、言語だろう。ここではアマハリ語ではなくソマリ語表記が通常だ。市場は安価なソマリア商品で溢れている。水も、エチオピア産かソマリア産かで値段が異なる。人々はさらに親切だ。道端で昼食をとっていたおばさんたちに招かれて、そこに2時間も居座ってしまった。言葉は通じなかったが、楽しいひと時だった。また、一緒にサッカーをして遊んだ子どもたちの家にも招待された。ブンナ(コーヒー)で手厚くもてなされ、帰るころには彼らは皆泣いてしまった。

出逢った人のうち何人が難民であったかを知る由はなかったが、一日も早い紛争の解決を願わずにはいられない。

2007年10月10日水曜日

小さなイライラ

9月14日の日記より

小さなイライラが溜まってきてる日本人留学生の私です。

ウガンダに負けない!!


最近は、ネット環境のあまりの悪さに参っております。

なぜ、ネットのアクセスを求めて30分もパソコン抱えて彷徨わなきゃいけないのか。
なぜ、スカイプができないのか。
なぜ、mixi書けるのにfacebookにも写真アップできるのに、ブログでは無理なのか。
なぜ、昨日までつながったところが今日になると機能しなくなっているのか。

うん、こればっかりはしょうがないね。
ウガウガだもん。


蚊ーーーーーー

蝿ーーーーーー


お願いだから消えてください。


ウガンダ人ーーーーー

お願いだから私を放っておいてください。
あなたたちにとって、ムズング(白人)の友達がいるということは、
一種のステータスであるらしいじゃないですか。何人かから聞きましたよ。
だからって、すれ違いざまに電話番号聞いてきたり、
腕をつかんできたりするのは常識外じゃないですか?
そもそも、私のどこがムズングなのでしょう。
頼むから、静かな生活を送らせて。


大学生諸君!!

君らはちょっと幼稚過ぎないかー


様々な組織の中のみなさん!!

権力に弱すぎ。


道端のお店のおばちゃんおじちゃんおにいちゃーん!!

揚げ物以外の調理法を知らないのですかー?




あーーーーー、なんか、スッキリしたー。明日からまたがんばろーっと。

ついに!!!!

8月30日の日記より

やったー!!
ついに、パソコンをネットにつなげる場所を発見!!
ってなわけで、ちゃんとアフリカレポートをブログに載せていきたいと思いますねー、日本語も打てるようになったわけだし。

でも、ご存知のとおりエチオピアでカメラを盗まれたため、写真はあまりないですが・・・。
ま、なんとかします。

(実はその後、S子がウガンダまで新しいデジカメを渡しに行きました。笑)

昨日は、友達第一号が早速ウガンダにやってきました。イエイ!!
彼女は北部で3週間ほどボランティアをするそうです。
その間、私は学校でお勉強・・・。
彼女の仕事が終わり次第、学校を休んで旅行に行く予定。
今のところ、サファリが有力候補だけど、どうしようかなー。
こっちでは、なるべく夜間のコースを多めに取って、昼間はどっかでインターンをしたいって思ってます。
できれば週末には農村地帯に行っていろいろやってみたい。
まだ情報を集めてる段階だからなんともいえないけど、うまくいくといいなって願ってます。
そうそう、きのうね、ついにリタのママに会ったよ!!
私が出発する前の日から日本に来てたんだよね。
関空でテイクオフを待ってるときに、最後に受けた電話がリタからだったの。
私の住んでる寮にリタの大親友がたまたまいて、その子と一緒に出かけたよ。
彼女はリタも支援を受けてる某団体の招待で、去年東京に来たんだって!!
そういうのも色々あって、なぜか運命を感じてしまいました。
日曜日に一日、リタの家族と過ごす予定。

さっき、朝の7時から(!!)最初の授業を受けてきました。
実は先週の頭に始まってたんだけど、
先生が来なかったり相当適当な科目登録制度のせいで、全然受けられなかったんだよね。
インド人の適当さは許せても、ウガンダ人の適当さには結構キテます。

誰もきちんとした情報を何も持ってなくて、
たらい回しは当たり前。
オフィスにいても誰もおらず、
「ランチに行ったみたいだから、2時間ぐらい待ってれば帰ってくるんじゃないかなー」
との返事もざらではありません。
入国管理局でさえ適当。
もう既に今週2回も行ったのに、まだビザの延長ができません(東京の大使館では3ヶ月の観光ビザしか取れなくて、長期の学生ビザは現地調達っていう結論だったんだよね)。
まー、こんな感じです。

適当です。

テキトー。

SILS(早稲田大学国際教養学部)の事務所にムカついてたころが懐かしいです。
彼らは良く働いていました・・・・
今思うとね。

肝心の授業ですが、なぜか小学校を思い出しました(笑)
黒板のチョークも質が悪くてよく見えないし、
電気はないし、もちろんパワポもマイクもない!!

んで学生の数は半端ない(教授体制との割合は最悪)から聞こえないし見えない。
おまけにかなりアフリカなまりの英語で、半分くらいしかわかりませんでした。
まー、こんなん(困難??w)だけど、
こうした「えーーーーーー!!!!」を一日でも早く、彼らの長所として見られるようになれたら幸いです。

ps。。。もちろん、寮にあるシャワーはお湯が出ないし、ただの水でさえ、突然止まります。
それどころか、トイレもたまにしか流れないし、そもそもカギがパクられててない!!

ご飯は昼も夜も毎日毎日毎日毎日ポショ(トウモロコシの粉を練ったもの??)とマトケ(主食用バナナ)と豆のみだし、
週三回は「朝ごはん」は紅茶のみ!!
停電はしょっちゅうだからロウソクは常備してないといけないし、
当然洗濯機もキッチンも掃除機もないから全部自分でやらないと。

まっ、インドと似たようなもんだね。

あれが今回は1年だって思えばいいだけの話だと思ってる!!笑

2007年9月14日金曜日

エチオピアの思い出3:食べ物についての考え方

 この国では、とにかく食べ物は大切に扱われる。食べ歩きなどもってのほかだ。「エチオピアは、過去に悲劇的な飢饉を経験したからだ」とサルワは言う。確かに!!この事実を知らされる前に、スナックを食べながら一人で歩いていたことがあった。すると、たちまち人々の視線を集めることとなった。指を指す子どもたち、冷たい視線を投げながら、ヒソヒソと話をしている女性たち――。食べ物に感謝をしなさい。こんなこと、学校でも家庭でも何度も言われてきたハズなのに、いつしか時間に追われる生活を送るようになっていた私は、何かをしながら簡単に食事を済ませてしまうことに慣れてしまい、このような当たり前のことすら忘れてしまっていた。

 また、食べ物は人と人を繋ぐ上で、非常に重要な役割を占めている。例えば食堂では、料理の運ばれた客が、近くに座っている、まだ届いていない見ず知らずの他人に対して料理を分け合おうとする光景が日常的に見受けられた。つい、顔を緩ませてしまうような瞬間である。また、誰かの家に食事に招待されるとする。すると、必ず何か食べるものをお土産に携えるのだ。その人の経済状況に合わせて何かを持ち寄り、それを皆で分け合う。家族同士であっても、親戚同士であっても友達同士であっても、それは同じなのだ。後に書くつもりではいるが、ハラールという街に旅行に行ったときのことである。サルワが、何やら果物とお菓子をどっさり買っているのを目にした。特に気にも留めなかったが、家に帰った日に、それらがすべて、家族へのお土産であったことに、強い衝撃を受けた。さらに、近所の人やら親戚の人のための分まであるではないか。それを皆でニコニコしながら分け合っている姿を見て、急に恥ずかしくなった。対する私は、彼女の家族はおろか、自分の家族にさえ、ほとんど何も買わなかった。この一年のアフリカ滞在中、どこかに旅に出たり、何かをするときのために節約しようという考えのもとであった。

 自分では元々、たくさんモノを買うタチの人間ではないと思っている。それよりも、目には見えない「経験」に投資する方が価値あるものだと信じているからだ。しかし、それは結局、自分のためだけにお金を使っているに過ぎない。結局、たとえ家族であっても、自分以外の他人のことはほんの少しも気にかけていないのだ。サルワが当たり前のようにしていたことは、彼女自身に直接的な利益をもたらすことはなくとも、周囲の人との繋がりを改めて実感・感謝することで、物質的豊かさとは別の豊かさを引き起こすのではないだろうか。エチオピアでは、どんなに貧しい人でも、明日に絶望し、生き残りを心配する必要はほとんどないという。周囲のコミュニティーの人が分け合い、助け合うからだ。現在の日本では、同じことが果たして起こり得るだろうか。

 食べ物の話題から少しそれてしまったが、今回、この国で食べ物という側面から多くのことに気付かされた。サルワは、「アッラーの教えに従ってるだけよ。ナツノにはナツノなりの価値観や考えがあってそうしているんだから、そんなに気にすることないわ。」と笑ってみせるが、イスラームの教えであるかとどうかいうことを超えて、こうした分け合いの概念は 全ての人間にとっても本質であるべきである。この高校生の足元にも及ばない私だが、少しでも彼女に近づきたいものだ。

2007年9月7日金曜日

エチオピアの思い出2:アディス・アババでホームスティ

 「新しい花」を意味するアディス・アババという街を好きになるまでにそう時間はかからなかった。まず第一に、インドのような、あの頭痛を起こす車やリキショーのクラクション音がない。次に、気温が高くもなく低くもなく心地よい。埃っぽさもないために、非常に快適だ。インドのようなごちゃごちゃ感はなかったが、この街特有のエネルギーが満ち溢れている。人々は私を見てくるが、お金を見るかのような目で凝視されるのとはまったく異なり、親近感に満ちた視線であった。自然とこちらも笑顔になる。インドとの決定的な違いは、女性も洋服を着ているということだ。ムスリムやソマリ人の女性は布で体を覆ってはいるが、インド人のように、サリーを誰もが着ているわけではない。しかしながら、周囲の風景とは不均衡なほどピカピカの近代ビルが点在していたり、多国籍企業の看板(特にコークとペプシ)だけが大きく立派で目立っている様子を見ると、やはりインドとの共通性を感じずにはいられない。アディス・アババはとにかく広い。広いというよりも、だだっ広いという表現のほうが正しいかもしれない。なだらかな山々に囲まれたこの街は、とくに何かがあるわけでもなく、観光地としては魅力に欠けているかもしれない。今回のエチオピア訪問の目的が友人訪問であったこともあって、そんなアディスの普通の生活を一週間ほど体験した。

 8月の明け方は、息が白くなるくらいにまで冷え込む。砂糖とシナモンをどっさり含んだチャイから溢れる熱い湯気は、朝食前には欠かせないものの一つだ。サルワの家は市内中心地から車で約30分下ったところにあり、地理的にも経済的にも拡大しつつある首都の、ちょうど端の方にある。5人の家族と住み込みのお手伝いさんの、合わせて6人に対して寝室は2つ。家庭にはシャワーもガスコンロも車もないが、テレビでは世界中のチャンネルを見ることができる。エチオピアでは今、インド映画が一番ホットのようだ。そして、家族のお気に入りの番組は・・・『悲しき恋歌』(!!)。なぜ?と思いつつも、アラビア語版韓流ドラマに毎晩涙していたお母さんの姿は忘れられない。

 サルワは現在16歳。現在のエリトリアで生まれたが、生後まもなく、ジャーナリストとして働くお父さんの仕事の都合でアディス・アババに移り住んだ。エリトリアの独立をめぐって戦争が勃発したときには直接的には巻き込まれなかったが、国境が封鎖され、家族が離れ離れになってしまった。現在のエリトリアで暮らす母方の親戚には会ったことがないという。「未だに心は引き裂かれているわ」と話すのは、お母さん。エチオピアで新しい家族ができても、越えられない線のせいで、自分の母親の死すらも風の便りで知ることになってしまったという。それでも、ふるさとのことを話す彼女の表情は明るかった。生まれ育った村、何よりも美しいという紅海。この家族が、そろってそこのビーチで記念写真を撮る姿が目に浮かぶ。こんな日がいつ来るのだろうか。

 食事はもっぱら、インジェラが主食だ。インジェラとは、テフから作られるクレープのようなものだ。どの家庭に行っても、必ず一家に一台は「炊飯器」ならぬ「インジェラ器」が存在する。食卓の中心に置かれた大きなお皿にこれを拡げ、上に肉料理やシチューをかけて、手で混ぜながら食べるのだ。日本の鍋に似た雰囲気で、これがまた楽しい。一つの大きなお皿を家族全員で分けるため、子どもたちはここから、分け合いの精神を学ぶのだという。初めてインジェラを見たときの正直な印象は・・・小学校の清掃用の雑巾をなぜか思い出した(笑。エチオピアの皆様ごめんなさい!!)。食べ物には、見た目からなんとなく味が想像できるものとそうでないものに分けられるが、このインジェラは間違いなく、後者に分類されるだろう。酸味のややきいたクレープのような生地は、今まで口にしたどの味よりもユニークで、ハマリ出したら一日三回では足りないくらいだ。

 食事の後は、ブンナ(コーヒー)に限る。コーヒーのふるさとであるエチオピアでは、茶道(tea ceremony)ならぬcoffee ceremonyなるものが存在する。サルワの家では、近くに住むおばあちゃんがブンナを入れる。炭火を起こし、豆を煎るところから始めるために、ブンナをいただくまでには非常に時間がかかる。しかし、その途中で流れてくる、コーヒー豆の強い香りや、パチッという破裂音は、待ちわびる喜びを増幅させる。パリのカフェで飲んだコーヒーも、エチオピアの家庭で飲むブンナには到底かなわない。3杯のブンナを飲むのが決まりだが、最後の一杯が最も重要なのだとか。



* インジェラ豆知識*
エチオピアでは、生の牛肉をチリソースにつけ、インジェラで包んで食べる。生肉の食感とソースの辛味、解毒作用もあるというインジェラの酸味のコンビネーションは、寿司をほうふつとさせる。多くの外国人はお腹を壊すようだが、稀に安全な肉を提供する食堂もあるため、挑戦する価値は十分にある。

2007年9月6日木曜日

エチオピアの思い出1:救急車と入院騒動

アディス・アババの様子


 何を隠そう、かなりの意気込みを持って到着した「夢の大陸」であるアフリカで、私は生まれて初めての「救急車で病院に搬送される」という経験をした。しかも初日に・・・である。

 自分では何も覚えていないのだが、深夜にどうやらうめいていたらしい。救急車は(道路がきちんと舗装されていないせいで)滞在していた友人の家の前まで来ることができず、ようやく乗った後でさえ揺れ続けた。体が何度も宙に浮いたのだけは記憶している。病院に到着すると、すぐさま点滴が打たれた。ベッドと小さな机以外何もない2等病室は殺風景だが、白でまとめられて清潔感にあふれていた。アディス・アババは、「大きな村」と一部の人から形容されているが、それでもエチオピアの立派な首都。24時間体制の病院があったのは幸いだ。

 日本を出る直前の数週間は、今までの人生で一番忙しい時期だった。やるべきこととやらなくてはならないことをすべてこなそうと思ったら、予定帳は真っ黒に。そんなこんなで、「やることリスト」の最優先事項だった黄熱病の予防接種がなんと出発の前日になってしまった。。。その日の朝、瀬戸内海を自転車で横断するという旅行から夜行バスで帰ってきた私は、都内各地で用事を済ませた後に、検疫センターとやらに出かけていった。そして、「黄熱は副作用が強いですから今夜は安静にしておいてくださいね。」という医者のアドバイスを無視して、大学の友達とのお別れパーティーに繰り出した。

 明け方くらいから体調が急に悪化した。「出発当日にやればいいや」と甘く考えていた荷造りも、当の本人が寝込んで手に負えない状態になり、親や友達に散々迷惑をかけた。当然、空港での両親との別れも感動的な要素のかけらもなかった。関西国際空港で初めて乗ったエミレーツ航空は、ウワサに聞いていた通り、それはそれは素晴らしくて「空飛ぶ極楽とはまさにこのことだ!!」と一瞬思ったが、それも束の間。すぐにダウンして極楽は地獄へと形を変えた。酸素マスクを取り付けられたことしか覚えていないのが残念だ。エミレーツの方々の手厚い看護のおかげで、経由地のドバイでは体調は7割くらいにまで復活した。あとは、無事に最初の目的地であるアディス・アババに到着するのみだ。

 アディスの空港では、6月にユニセフのサミットで友達になったサルワが、歓迎の花を持って待っていてくれていた。乗り合いタクシーのヒビ割れたフロントガラス。ラジオから流れる不思議な音楽。道行く人の肌の色はやはり黒く、なぜかみんな生き生きと楽しそうにしている。本当にアフリカに着たんだ!!このころには嘘のように体調は完璧になり、アディスの街に釘付けになっていた。

 翌日の朝、病院の窓から見えたアディス・アババは全く違う場所のように思えた。前日まで暮らしていた島国と、この一年を過ごす大陸。そして、今この病院にいる自分を客観的に想像してみたりもしたが、自分があまりにも小さすぎて消えてしまうのではないかと不安になった。サルワのお母さんが心配してずっと傍にいてくれていたが、会話をする余裕などなかった。院内はおしゃべりの声や金属同士がぶつかる音で騒がしく、病院特有のにおいが印象的だ。次から次へと出入りする医者と看護師。一人出て行ったと思えば別の人が入ってくるために、何度も同じ説明をしなければならない。X線や超音波の機械は一つしかないのだろうか。全身をすっぽり布で覆って顔だけを出したソマリ人の女性やら、疲れきった表情の男性などで検査室はごった返していた。食事は、味付けを忘れたような野菜スープとエチオピアの主食であるインジェラ(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A9)。無論、食べられる状態ではなかったが。

 何はともあれ、せっかくのエチオピアでの2週間を入院生活などで無駄にはしたくなかったため、無理矢理言って2日後に退院した。サルワいわく、「自分から退院を申し出ないと、いつまでも入院するハメになって病院側の思うツボだよ!!」とのことらしい。事務所のスローなペースにのまれて支払いに2時間もかかった。病院から一歩踏み出したときに浴びた日差しは、やはり強かった。

2007年9月5日水曜日

ブログオープン!!はじめに


 こんにちは!!8月1日に日本を発ってから、早いもので一月以上になります。この間、色々とドタバタしていたせいで遅れましたが、やっとブログをオープンすることができました!!イェイ!!これから、できるだけ頻繁に、私のちょっとユニークな留学生活についてレポートしていくつもりです。ネットのアクセスなどで多少の滞りはあるかもしれませんが・・・。


 当然ながら、私は専門家でもなければ外交官でもありません。よって、知識不足などの欠点はあるかと思いますが、20歳の大学生だからこそ見える「ウガンダ」や、そこから考えたことなどをみなさんと共有していけたら幸いです。


 「なんでアフリカに、しかもわざわざ勉強しに行くの?」よく聞かれる質問です。うーん、なんでだろ。そもそも、なんでアフリカなんだろ。ウガンダにしたのは、早稲田がたまたま提携していたからに他ならないんだけど・・・。なぜか、アフリカが気になるんですよねー(笑)。小さいころに見ていた動物関係のドキュメンタリーに始まり、カラフルな民族衣装に心を躍らせ、アフリカという大地に暮らす人々が直面している数多くの問題に対して疑問と怒りを抱き・・・そして今に至る、とでもいいましょうか。


 とにかく、この一年の最終目標は、「新たな視点で物事を見られる人になる」こと。たとえば、同じものを見たときでも、見る角度が違うだけで全然違うものに見えたりしますよね?あんな感じで、これからの人生に起こるであろう様々な出来事に「ちょっと違った視点」というスパイスが加わるだけで、味わいは相当深みのあるものになるのではないか、なんて考えたりしているわけです。


 ウガンダに着いてからまだ2週間強ですが、既に毎日が文字通り驚きの連続です。そして、私が求めていた「新たな視点」は、今まで持っていた価値観と相反しながらも、品川夏乃という人間の中に、少しずつではありますが確実に入ってきています。


 一年後、東京での生活に戻れるのかしら・・・・。


 ちなみに、「新たな視点」以上に私の中に侵入してきているのが紫外線!!うわーお、こんなにとてつもないスピードで人間の皮膚は変色可能なのかと、ただただおののくばかりです。ウガンダ人にはさすがにかなわないけど、エチオピア人の友人の腕の色と私のそれは、もはやほとんど変わりません。。。